「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評 第118回 森田恒友展は必見だ! :森田恒友・大須賀乙字・そして自然 浅川 芳直

2020年02月05日 | 日記
●はじめに

 季語について、それは俳句のことばを構成し、制約するような規則・規範だと考えられることがある。しかし「季語」という概念を導入した大須賀乙字の文脈では、先行する俳句作品から得た季題のお約束的イメージに頼って作句することを批判するための用語であった。プレゼンっぽくいえば、「乙字は季語を提唱していない」ということになるだろうか。

 このような乙字の季題観は、その俳句理解のなかの「自然」の位置づけが背景にある。近年、自然はアニミズム俳句の文脈においてわずかに論じられてはいるが、近現代の「俳句」の路線を決定づけた大正期・昭和期の俳人たちがとらえていた「自然」を考え直しておくことは意義があろう。
 2020年は、大須賀乙字没後100年にあたる。忌日は1月20日。本来もっと顕彰されるべき人物である。

 奇しくも、2月1日から埼玉県立近代美術館(この間まで福島開催だった)で「森田恒友:自然と共に生きていかうhttps://www.artagenda.jp/exhibition/detail/3580が開かれている。「奇しくも」とつけたのは、恒友は『乙字俳論集』の装丁をした挿絵家であったからだ。
 森田恒友(1899~1933)もっとも恒友は挿絵専門の画家ではない。東京美術学校を首席で卒業し、留学してセザンヌの影響を受けたエリート洋画家であり、晩年は水墨による素描「水墨素描」を提唱して、かわいらしくもスケールの大きい、自然と人間の共生する暮らしを描く日本画家でもあった。岸田劉生、梅原龍三郎らと春陽会を設立した一流画人であるが、夭折したために、現在それほどメジャーな存在ではない。ただ、講談社の『カラー図説大歳時記』(旧版)を持っている方には、p.962の「月見」の図版で馴染み深いだろう。

 恒友は文人でもある。セザンヌの自然に対する姿勢に深く共鳴し、独自の写生論をもって、ホトトギスやアララギの俳人・歌人と熱く写生論を交わしたらしい。虚子とのやりとりも残っている。恒友は文章をよく書いたが、大正時代に書かれた恒友の写生論は、のちの虚子の花鳥諷詠を先取りしているような感じさえする。ひょっとすると虚子に影響与えたりしたのか……とも思うが、これは妄想の域を出ない。

 俳人との人間関係では、とくに阿部みどり女(女性初の蛇笏賞受賞)には多大な影響を与えた。そしてなんといっても、とにかく自然を愛し、自然をあたたかく描いた人である。今回、そのあたりの話も少ししたい。

 そういうわけで、森田恒友・大須賀乙字というタイムリーな二人を、「自然」をキーワードに、紹介したいと思う。

●まず、お詫び

 今の今まで、論文を一本書いていて、すごく疲れて頭が泥酔しているときのような感じになっている。飲み屋でクダを巻いている感じで書いちゃいそうだ。【泥酔の現象学的分析による知見では、泥酔者は推論能力はしっかりしているが、おかしな前提を入れることにより、ヘンな結論に到達することがある】。根拠のとぼしい、飲み屋のお話的なところはこのように【】で括ることにする。要は裏付けのない私見の部分だ。浅川はこんなこと考えてるのか、ふーん、というくらいで読んでほしい。
 加えて、この時評のために必要な文献で、大学に持ってくるのを忘れた資料があり、引用がダメダメになりそうだ(たとえば、前に作った資料からの再引用乙字遺稿刊行会の『乙字俳論集』初版なのに、今手元にあるのは、大学で座右に置いている楓書房の第5版だ)。もろもろ、お詫び申し上げる。(文献がらみで言うと、若き日の乙字ということで、旧制中学のときに校内コンテストで入賞したときの作文を発掘した。コピーが欲しい方、連絡いただければさしあげます)

 
●大須賀乙字と自然

 一物仕立ての句がうんと流行った時代に、俳句は二句一章! とぶち上げたのは大須賀乙字である。俳論に「象徴」という概念を明示的な仕方で持ち込んだのもたぶん乙字だと思う。【彼の多くの革新的な俳論がなければ、現代俳句は極めて貧しいものになっていただろう。】

 そしてなんといってもの功績は、「季語」の考え方である。
 今、季語観として多数なのは、「季語は約束」論者や「連想を広げるために使う」論者(そして、前者のほとんどは後者に外延的に含まれるようだ)だろう。だが、そういう「季語」という概念は、本来は乙字が批判していたものだ。
 彼の季語ないし季題の理解の仕方の裏打ちになっているのは、独自の古典研究と「俳句は象徴詩だ」という信念だ【これは、時代性があるだろう。詳しくないのでわからない】。たとえば「俳壇復古論」では芭蕉を「野人の真趣」と称賛しながら、虚子や鳴雪は似非風流などと口さがなく非難している。そこに見られる次のことばを引こう。
 元禄一般の句からではなく、其中の純な感情の発露したる句から精神を汲まねばならぬ。そして自然と一つに融けた生活から俳句は出発し直さなければいけない。新鮮な血液と健康とを同復しなければいけない。/現文壇は殆ど都会文学である。(大須賀 1948, pp.333)

 「自然と一つに融けた生活から俳句は出発し直さなければいけない」。激アツである。これ、虚子流の「花鳥諷詠」の桁違いの大きさとは違う、内実のある主張だ。こういった、「自然を詠む」という態度から乙字の季語観を考えると、何となく見えてくるものがある。

 季題といふは自然が吾人の感情の象徴となった場合の作用に名付けたのであって、人為的に限るのはいけない。只実際問題としては象徴化し了する手腕如何にあるので、象徴化しない時は其自然を季題とは言はないのである。( 大須賀 1948, pp.334-335)

 苛烈である。季の景物を入れるという約束を「自然を詠むんだ」という立場から合理的に再構成すると、四季に対する感情の象徴としての季語という位置づけになる。悪く言えば乙字のおとぎ話かもしれないが、筆者にはそうであったとしても、魅力的な考え方に見える。
 「象徴化しないときはその自然を季題と言わない」と述べているが、かの名高い「季感象徴論」では、プラスサイドから「感情の象徴となった場合」のほうを「季語」と呼んでいる。したがって、歳時記に載っている語と季語は区別される。ある語が季語かどうか、それはあくまで一句一句をそのつど解釈して判断されることなのだ。

 さて、「感情の象徴でなければ季語とはいえない」という乙字の考えからすれば、季語がフィクションだとか、本意が実感に対してプライオリティをもつとか、近年多い考え方は、どうしても乙字の「季語」と対立する。季語は、まさに作者が自然とぶつかった際の感情を象徴するものであって、概念規定上、リアルなものだ。だから、本来「季語」ということばがもっていた思想というか含蓄は、「季語はルール」と言ってしまうと変質してしまう。

 【乙字と同じ東北人の筆者としては、「季語はルール」「フィクション」などと聞くと、先輩のことばが勝手に違う意味で盗用されているような感じがして、胸がざわつく。だいたい、季語(季題)を個別の作品から引きはがして、全部歴史的に作られてきたフィクションというのはおかしい。フォーマルな批判は拙稿「短詩を読む行為における<作者の意図>の位置―解釈についてのDavidsonの観点を擁護する」(『ことばと文字』13号,くろしお出版, 四月刊行予定)に書いたので、興味のある方はそちらをご参照願いたい。 】
 2019年の「俳句あるふぁ」春号で、神野紗希氏が「季語はルールじゃない」という一文を発表された。無季俳句を擁護するという点は乙字と異なるのだが「季語はルールじゃない」という前提は乙字も共有すると思われる。無季自由律の唱道者だった荻原井泉水の評論集は『自然・自己・自由』であるがこれまた、乙字との共通点がある。それは、たとえば井泉水が次のように言えば、

 いつも定型対自由律の問題としていたことはただ一面の論争であって、むしろ他の観点から評論することが正しいのではないかということになる。即ち、「詩ごころがあるか」「詩ごころがないか」ということである。……われわれは定型俳句のすべてが定型なるがゆえにツマラヌというよりも、定型俳句人が概ね十七字という「形」から出発して「心」から出発しないためにイケナイというのである。(荻原 1972, p. 320)

 乙字も、

 形式にのみ囚はれて居る人の句は、喚起された神秘境ではない。概念的の句ばかり作つて居るのである。境涯の光りと共に脈打つてくる調子ではない。たゞ調子だけが訴へて後から内容を考へるような句は一見して駄目である。(大須賀 1921, pp. 72-3)

 芭蕉の所謂黄金を打ちのべたらむ如く、句切れの続きに微妙の敏捷があつて、直下の会得に拍案せしめるもの、そは謎の如く強ひて工夫されるに非ずして、自然の威力が作者を感激せしめるからである。即ち調子は産るヽもので、予め用意せらるべきではない。(大須賀 1921, p. 76)

 形式先行への批判、こころの働きの重視、ということが共通している。
 「自然の威力が作者を感激せしめ」と乙字は言っている。身体で、五感で感じる季節ということだろうか。乙字は季語というものを考えるうえで、読んでおかなくてはならない一人である。没後100年、この機会にぜひ、読んでみてはいかがだろうか 。

●森田恒友展「自然と共に生きていかう」

 森田恒友と言われてピンと来る人は、あまりいないだろう。
 「ホトトギス」「アララギ」などの文芸誌に挿絵を描いたつながりで全国に交友を持ち、地方の自然に触れることで、不思議な境地というか、ほのぼのとした、それでいて深みのある風景画を描いた画家である。

 「森田恒友展」―私は福島で見たのだが、現在埼玉県立近代美術館で開催中だ―は今となってはややマイナーなこの画家が、俳人、歌人はじめ文壇とどんな交流をし、影響を与え合っていたかを追うことができる。

 恒友は雑誌の挿絵や漫画、それだけでなく文章もよく書いた。俳人との交流も深く、高濱虚子や西山泊雲とも親しく付き合っていた。東京美術学校系の人脈や、雑誌の仕事を通して、俳人や歌人とは交流がかなりあった人物だ(虚子のはがきも展覧会では出品されている)。
 長谷川零余子の編集した芭蕉アンソロジーや、大須賀乙字の遺稿集などの装丁もしている。

 虚子が「主観を涵養すべきこと」と言っているころにホトトギスへ入門した長谷川かな女、高橋淡路女ら「女流俳句」草創期のメンバーは、のちに「客観写生」を唱えた虚子に戸惑い、虚子の紹介で恒友に絵を習った。恒友に絵をならった人たちには杉田久女もいた。阿部みどり女はすっかり恒友に傾倒し、恒友、虚子の忌日(二人とも四月八日)に<心の師いつも左右に梅椿>という句を残している。阿部みどり女は毎日新聞に「写生にはじまり写生に終わる」(阿部1981)と書いたが、これなどは完全に森田恒友のことばそのままだ。

 写生と言ふ言葉は画描きには画の出発点でなければならないし、又此の言葉に最も直接終始すべき運命を持つて居る筈である為めに、此の言葉について説を立てれば、いくらでも説きつくせない様にも思ふし、又一と言も言ふ余地も無い様な気もする。要するに写生といふ言葉一つで凡てであることに思つてしまふ。(森田 1934b, p.57)

 森田恒友は、東京美術学校でコンテ画を徹底して身に着けた画家である。一方晩年は毛筆画も増えたが、本人はそれを「水墨素描」と呼んだ。彼にとって、あらゆる絵は素描、写生だったのだ。
 恒友はセザンヌの影響を大いに受けたらしい。といっても、その技法というより、徹底して自然の景色に向きあう、世間に関係なく、描きたいものを描く、という絵の態度のほうらしい。そして「要するに写生といふ言葉一つで凡てである」と言えちゃうくらい―セザンヌも写生と言えてしまうような、自由な表現を獲得していった。
 絵画の弟子だった俳人阿部みどり女の「駒草」創刊号に、恒友はこのような一言を寄せている。

 俳画などといふ言葉に捉はれるよりは、俳趣が写生に織り込まれるといふことに、つまり画の描き現はしの粗密さなどより、其心に織り込む詩趣の方を先にせねばならぬ訳、それから自然に俳画も生れるといふ順序になる。 (森田 1934b, pp.408-10)

 遺稿集三冊の一部はこちらでテキスト化されている。ホトトギスの俳人、アララギの歌人と写生論とはよく俳論、写生論を戦わせていたらしいが、その写生という意味が、恒友の絵と合わせてみると納得がいく。

 写生家も沢山ある。自から写生派を以て自任しながら、少しも自然信愛の根本に立たない人がある。それ等の人も、写生をしない人よりはよいと思ふ。又少しばかりの才能を頼んで、自然の偉を知らず、写生を蔑視するもの等よりはましである。が元々信愛の根本に立たない自然観に、何物の真を自然から探り得よう。先づ信愛するといふ画者の人格によつて、万有は生きて来るのではないか。信愛の前には、宇宙の何者も有生となり有情とならねばならぬ。それである。写生道を口にすることの易くして、むづかしいのもそれである。要するに自然を信じきり得た人を、吾等は尊敬し、偉とするのである。吾等は人と共に親しみ、自然と共に生きて行かう。(森田 1934a, p.164)

 画にひそむ人格の影は作家が作を成す目的とはならぬ。寧ろ佳い作家ぼど作物を成す上に人格のことは忘れて作を成すであらう。そこでこそ其処に佳品に真の人格がひそむのである。作家の人格は画の画心となり、内にひそんで面に現はれざるべきである。(森田 1934a, p.164)T11

 どちらも大正11年にアララギに寄稿したもの。虚子の客観写生とも平仄を同じくしているようだが、虚子がその後提唱する花鳥諷詠論を先取りしているような感じさえある。
 【もちろん虚子はこのころ多忙を極めていただろうから、文書ベースでの影響関係を調べるのはむずかしいかもしれないが、ひょっとしたら虚子への影響もあったかもしれない。などということを筆者は三年くらい前から飲み屋でクダをまくことがあったのだが、全然調査ができていない。今回、虚子とのはがきのやり取りがあったことなどを確認して、確信は湧いてきている】

●恒友の絵の特色

 というわけで、筆者は多くの俳人に恒友の絵を見たほうがいいぞ、と言いたい。ひょっとしたら大正期の俳人の写生説に微妙に影響を与えたかもしれない画人かもしれないのだし、少なくとも阿部みどり女は恒友に心酔していたといってよい。

 恒友は、自然と自然のなかに住む人の暮らしをほのぼのと描いた。その絵の特徴は、素人の私の見る限りでは、

・ デフォルメされた人物がめちゃめちゃかわいい
・ 横長のカンバスを使う
・ 日常生活をユーモアを込めて描き出す
・ ちょっとさびしさもある
・ 澄んだ空気感がる
・ 奥行のある平野の景色

 という感じだ。最後にある奥行のある景色、というのは、手前に大きな木を配して奥に平野を描く、という手法。これはセザンヌの構図をまねたものらしい。
【絵の弟子の阿部みどり女は晩年に「私の句作法の一つは遠近を一つの線で結びつける」(阿部1981, p. 49)と言っているが、阿部みどり女の写生は恒友経由でセザンヌの影響を受けていた!なんて妄想も楽しい】

 恒友の絵の魅力が私の筆致ではうまく伝わらないのがもどかしい。
 最後に、蓬田紀枝子のみどり女評伝から、恒友のエピソードを一つ[1](孫引きで申し訳ない)。
 
 森田恒友先生は風が大嫌いで、写生に出かけても腹痛さえ催されて帰ってくるとききいていた。私が或日絵を見ていただいた。先生は眉字に厳をよせて「だいぶ風が吹きましたね。」と言われた。「いいえとても静かでした。」と言うと「いやこの風は心の風ですよ」と釘をさされた。私は一言もなかった。心の奥まで覗かれてしまったのだ。[……]一日三枚描くのに一枚より描けなかった。そのために急いで二枚描いたのだった。その落ち着きのない心の表れがコンテーにそのまま現われたのだ。(蓬田 1996, pp. 82-83)

 みどり女はこのときのことを幾たびかエッセイにしているが、「写生とはうつすばかりが写生ではないということをしみじみ思い知らされたのだった……俳句の写生のこころは、私の場合は虚子先生とともに恒友先生によって目を開かせていただいたものと今も感謝している」(阿部 1975)というのが印象深い。

●というわけで、ぜひ恒友展へ

 今回の恒友展は、恒友と文芸誌のかかわりにも注目して組まれています。日本画と洋画の区別を乗り越え、一貫して自然の中の人々を写生し続けた恒友の絵は、俳人たちへの影響がどうこうというのと関係なく、魅力的です。

 俳句が上手になろうというのも、おもしろい俳句をつくろうというのもいいけれど、たまにはそういうのを忘れて、自然を、写生を、あるいは自然に向き合う「俳句のこころ」を見直してみるのもたまにはよいではありませんか(というと説教臭い感じがしますが、歴史的なものとして再考してみる、くらいはされてもいいと思います)。
 大須賀乙字、森田恒友……今となっては100年も前の人々ですが、彼らの俳論、写生観のなかに見られる、自然とか四季との関係で立ち現れてくる自己表現、のような思想は、その後の俳句のルーツの一部を確かになしています。

 そして大須賀乙字没後100年、大々的な森田恒友展が開催されている今こそ、あまり顧みられていない彼らを顕彰するとき。なのでは? 

註[1]蓬田の引用はおそらく、阿部みどり女『冬蟲夏草』駒草発行所, 1963 から。

■文献■ 
阿部みどり女.(1975).「俳句 いまむかし(三)」『駒草』1975年1月号.
阿部みどり女.(1981).『毎日俳壇俳句作法』,毎日新聞出版社.
大須賀積.(1920).『乙字俳論集』, 乙字遺稿刊行会.
大須賀積.(1947).『乙字俳論集』第5版, 楓書房.
荻原井泉水.(1973).『自然・自己・自由』, 勁草書房.
森田恒友.(1934a).『画生活より』,古今書院.
森田恒友.(1934b).『恒友画談』,古今書院.
蓬田紀枝子.(1999)『葉柳に 阿部みどり女ノート』,私家版.