「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評155回 多行俳句時評(4) 多行形式試論(2)──改行、断絶、遁走 漆 拾晶

2022年08月27日 | 日記
 アールケーさん、そちらではいかがお過ごしでしょうか。あなたが去ってしまってから、こちらではあまりにもいろいろなことが起こりました。書き始めたらきりがないのですが、たとえば、精神科での拡大焼身自殺、観測史上最大規模の降雪、終わりの見えない経済戦争と物価高騰、観測史上最悪の熱波と豪雨、元内閣総理大臣銃殺、政権与党のカルト癒着露呈、既定路線にされる原発増設と老朽原発再稼働と核汚染水放出と軍拡と国葬、棄民政策による医療崩壊と数千万人規模の感染と数百万人に残る後遺症と数万人の死。この死は公称値だけでも伊勢湾台風と阪神淡路大震災と東日本大震災を合わせた死者数より多くなってしまいました。加速する気候崩壊とともに、疫病の波はこれから何度も襲って来るだろうし、財政破綻と食糧危機、世界大戦の風聞も目にします。

 人口動態予測によれば、何事も無くとも今世紀中に日本社会は崩壊する予定でしたが、それが数十年早まったかのようです。もはや出ていくべき社会など存在しないので、終末を信じて七年引きこもりたい気分になります。それでも悪い事ばかりではなくて、あなたの趣味にも合いそうな新しいアニメがいくつか放送されましたし、あなたに披露したくなる珍しい古書を手に入れたりもしました。国会図書館の絶版本データベースがネットに公開されて、あなたがいつか俳句文学館で閲覧したと言っていた大原テルカズの稀覯句集まで読めるようにもなったんですよ。そちらにもネット環境が整えばいいのにといつも思います。

 今となってはあなたが、卒論で大道寺将司と東アジア反日武装戦線について書いたこと、俳句表現において多行形式を選んだこと、そして早々にこの地を見限ったこと、これらはすべて繫がっていたように思えます。大道寺将司の句に導かれて俳道に踏み入ったあなたは、大道寺の思想や直接行動を全面的には肯定しなかったとしても、大道寺はいまこそいてほしい人で、彼が亡くなった日を境に日本は坂道を転がり落ちるように悪くなったと言っていた。この国の嘘の底知れなさが毎日のように伝わってくるとも。その「嘘」の張本人は、たった一人の直接行動によって葬られ、これまで隠されていた底知れぬ「嘘」の数々が、たった一人の死によって暴かれようとしています。この光景をあなたにも見てほしかったと思うと同時に、あなたの決断は賢明だったとも思ってしまう。

 ところで、今回の件によって我々は加藤郁乎という人物を擁護しきれなくなったのではないでしょうか。たしかに彼の『球体感覚』や『えくとぷらすま』のような初期句集は前衛俳句の一つの到達点と言えます。作品と作者は切り分けて考えるべきであるとも考えています。しかし残念ながら彼の前衛期は70年代の前半には終わり、以降は江戸俳諧のような「伝統」へ回帰していきます。そして1980年には某雑誌の特集「俳人とその職業」で加藤郁乎が女性に「手かざし」をしている写真が載りました。彼の職業はいつの間にか宗教者になっていたのです。この手かざし教団が法人として設立されたのは1978年のことらしく、ちょうど彼が前衛文学を離れた後の時期と一致します。この教団が1999年に建てた博物館の館長に後ほど就任しているぐらいなので最終的な地位は幹部クラスだったのではないでしょうか。この豪奢な博物館を建てるのにどれほどの信者による献金が行われたのかは想像もつきませんが、今回の件のような宗教二世の被害者もいるのでは。この教団は国内最大の右翼組織と深い繋がりがあるようで、なにしろ銃殺された元首相もこの新宗教を信仰していたようだし、2001年に反セクト法を制定したフランスはこの教団をカルト認定しています。

 件の教会については、公共放送局や文部科学省との関係も取り沙汰されています。これは文学界隈の人間も避けては通れない問題でしょう。本邦の伝統文化なるものはカルト教団の霊感商法による収奪の上に成り立ってきたかもしれないのだから。今やあらゆる権威を疑わざるを得ない。カルトとは関係ないのですが、今年行われたある俳句新人賞の最終選考会はウェブ会議形式によるライブ中継で配信され、そこでの選考委員から特定応募者に対する侮辱的な発言により、侮辱された応募者が受賞を辞退することになりました。その応募者はあなたも知っている人物です。今回はウェブ上の配信だったので録音されており、問題発言の証拠を押さえられたわけですが、閉鎖的な選考会ではこれまで一体どれだけの応募者に対する侮辱が行われてきたんでしょうね。

 俳句新人賞は一行の俳句を前提としています。そのため俳句を意識的に改行するという行為はそれだけで、権威主義への抵抗を体現する。私にはそう思えてくるのです。多行形式で書かれた俳句が俳句として読まれるべき理由もそこにある。高柳重信は加藤郁乎の初期作品を大いに評価していましたが、加藤郁乎が多行形式で俳句を書くことはついにありませんでした。父も名のある俳人であり結局保守勢力に取り込まれることになった加藤郁乎とは違って、高柳重信の「改行」とは江戸俳諧から聖戦俳句にまで連なる戦前の伝統から「切れ」るための試みだったのではないか。

 「切れ」といえば先日刊行された堀田季何さん主宰の楽園俳句会会誌合併号※には、「切れ」についての論考が載せられていました。そこでは多行形式にも言及されています。

 一般に俳句は一行で認識の瞬間を詠みますが、多行ではその瞬間性が消えてしまいます。逆に言えば、改行することによって断絶を生み出すことができます。つまり、改行によって時間のコントロールが可能となるのです。
 多行の俳句では、もし四行であれば、音楽の四楽章のように、四つの小さな時間のまとまりが存在しています。そのうちの一行に文字がない場合でも、行は行として存在し、読者はそれを味わいます。

(堀田季何「日本の切れ、世界の切れ」『楽園』第一巻湊合版 p.56)


 つまり多行形式は、改行によって瞬間性を喪失させ、断絶を生み出すことで時間を分裂させているということになる。同論考では切れとは切断ではなく、イメージ喚起に関わる技法であるとされています。「改行による断絶」と「切れ」は別個に作用するものである。著者はまた、日本の俳句は切れが無くとも成立するが、歴史と季語を持たない外国語で書かれた俳句には切れが無くてはならないとしています。行数は固定されるべきではなく、「切れが働く改行を作者自身が選ぶべき」であるとも。ということは、外国語で俳句を書くときは効果的な切れと意識的な改行の二つがほぼ前提となる。

 あなたには読んでもらっていないかもしれませんが、この連載の第一回で、私は多行形式の持つ、人工知能に対する優位性を書きました。「俳句時評149回 多行俳句時評(3) 多行形式試論(1)──前衛俳句、定型論争、人工知能 漆拾晶」 日本の俳句がやがて迎える歴史の終焉についても。私たちはすでに、外国語を書くように日本語を書くべき段階に入っているのではないでしょうか。それは日本の伝統から断絶し、逃走するということ、俳句における亡命とも言えるのかもしれません。


※楽園俳句会会誌『楽園』第一巻湊合版は堀田季何さんよりご恵贈いただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

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1 コメント

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Unknown (われから)
2022-09-24 22:19:28
加藤郁乎は崇教真光では? 
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