「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 藤田哲史「楡の茂る頃とその前後」(左右社) 鈴木 康太

2020年03月21日 | 日記
 僕はこの前風邪をひきまして(38.0 台の熱が出ました)、今はもう治ってきたのですが、とても心細くて咳をしまくって死ぬんじゃないかと思いました。
 風邪をひいたとき、欲するもの、ってより本能に近いものがあるのだと思います。じつは告白しますが、風邪をひいて熱が出た日、僕は無理してお風呂に入りました。お風呂に入りたいという本能が勝ってしまったのでしょう。出た後悪寒がして全身の毛が逆立って後悔しました。それから思ったこと……思えば僕、感動しているときいつも毛穴が開ききっている、ということ。

 藤田哲史さんの句を読んで僕の毛穴が開ききったものです。

  秋風や汝の臍に何植ゑん

 は、ごはんですね。臍にプッチンプリンを乗せたりしない。藤田さんはそこから長期的に何かを育てようとしているのかもしれません。弥生以後か。稲作をめぐって、育てながら、誰かと戦いをしている。戦争の始まり、戦争の元だ。ごはんというエネルギー=美しさ、は恐ろしくて戦争も育てる。口内環境もそうです。僕はごはんをずっと咀嚼しているとき、すぐ飲み込んでしまうと分からない甘さが口の中で広がる。植えるだけでは済まさない藤田さんの意気込みが感じられます。
 育てる、という行為をなぜかこの句を読んで思いました。

  日短卵収めてパック美し

 これはとても刹那な句です。刹那は誠実が伴わなければ生まれない事柄です。6個入りか12個入りかは分かりませんが、これから料理のために使われる、もしくは忘れ去られて捨てられる運命の……を収めているパック、なんかとても分かります。冷蔵庫の中の心強い誠実な感じ。風邪の治りかけた僕は、卵を買いに行ったのですが、久しぶりに冷蔵庫にあいさつしたら使いかけの調味料ばかりでした。調味料たちは、さすが先輩って感じでふてぶてしていて笑いそうになりました。
 この句は、かわいい句です。

  型を出て食パン四角花のころ

 快と不快は両極端だけど親和性があるってことですが、それをパンに応用すると……必要な酵母菌の話です。酵母菌はいろんな条件がそろい増殖し、やがて発酵を始めます。水や湿度、ブドウ糖などのさまざまな条件。やがて型の中でパンパンに膨らみ、さも痛そうに見えます。そしてオーブンを覗くと、ご夫人か恋人か愛人か分からないが、その膨らむお腹のようにみえ、さも自分は父親になったかのようになにか複雑な気持ちになってしまいます。女性にとって妊娠とは何でしょう。これは産んだ人にしか分からない感覚ですが、これは、なんというか、かわいい句ながら壮大な誕生譚を思わせます。それにしても、食べられてしまうと、花じゃなくなるのか……
 一番好きな句です。

  小えびのわが身溶けそめくらげのなかと知る

 くらげって水族館などでライトアップされて、ふわふわ優雅に泳ぐ姿が人気ですが、実は育てるのがとても難しいんです。お金かかるし、専用の機器類も高額なんです。まるで現代社会の子育てのよう。自分の子供が将来立派に優雅にふらふらするには親はどうすればいいのだろう。そこで考えました。自分が犠牲になればいいのだ。とても好きな句です。というか意思より早くもうくらげの中に入っちゃっている。僕は詩を書くことが好きなのですが、俳句も同様創作の起源は欲にあると思います。意思を持って書くというよりは、書かざるを得ない切実なものに掻き立てられているのでしょう。自分を発見するのはいつも少し後のような気がします。それが、自分の思いが、ふわふわと優雅に泳いでいるものに食べられる。とても素敵な気がします。
 藤田さんの俳句を読んでいたら、子育ての話になってしまいました。風邪の終わりがけには食欲が増します。なんかとてもおなかいっぱいで元気が出てきました。高たんぱく入りのジュースもいらないくらいです。藤田さん、僕の風邪を治してくれてありがとうございます。こうして僕は、お会いしたこともない方の事を勝手に書いているわけですが、これからも素敵な俳句を書いてください。

俳句時評 第119回 貫く棒の如きもの  叶 裕

2020年03月01日 | 日記
 「詩客」に携わって一年が経つ。その間に歌舞伎町に活動の場を置く「屍派」の俳人であったり、川柳作家やイラストレーター、画家の句を紹介して来た。それは他の二人のキュレーターと異なる視点を示したかったからに他ならない。丸ビルのオフィスで詠まれる端正な句もあれば、歌舞伎町の生ゴミ臭い裏道を吟じる句があっても良い。過去様々な名句は千変万化の顔を持ち、時に読者を感銘、困惑させ、長年俳談の俎上に上げられてきた。今後もまた顔のある句を望むには個性ある作者を見つけ出す事が急務であると確信する。それには静物を意図的に歪ませ強調させたセザンヌのように、俳句にも統一感、同調性から外れた視点が必要だ。単体で見れば異質な視点もウイスキーや香水のように調合してみればいつしか欠くべからざる存在となる事もあるのだから。

 昭和二十五年十二月十五日、齢七十六の虚子は、

  去年今年貫く棒の如きもの

 を詠んだ。後に様々な解釈をされた名句は年の変わり目を比喩的に表すだけでなく、虚子晩年の揺らがぬ意志のあらわれと言ってよいだろう。ぼくはこれを敢えて曲解する。伝統は大いに尊重しながらもこの「詩客」こそは俳句、短歌、詩、美術芸術音楽というジャンルの壁を貫く存在たるべしと考える。斯界にはそれぞれ見巧者が存在する。過去作品を知悉し、守り、伝えゆく人々だ。彼らの存在あってこそぼくらは作品の価値を知る事が出来る貴重な存在だ。しかし見巧者だけにその価値を決めさせては直ぐに煮詰まってしまう事は自明である。「純粋読者」待望論が度々出てくるのはその証拠である。ぼくらは文芸を見巧者に独占させてはならない。その為にも多様な価値観で作品を観、議論する場を設けなければならないのだ。十九世紀パリのカフェには多くの芸術家や文筆家、文化人が集い口角泡を飛ばして美学や文化芸術を論議しそこから多くの新しい文化が生まれた事はよく知られている。SNS全盛の現代にあってもその重要性は言うまでもない。
 あらためて詩を、短歌をそして俳句を論じよう。拙くて何が悪い。間違いを羞じる事なかれ。今こそぼくらこそが貫く棒の如きものにならねばならないのだ。その場としてたとえ微力であろうと「詩客」が機能する事を願ってやまない。

里俳句会・塵風・屍派 叶裕