「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 伊藤信吉の風に吹かれて 新井 啓子

2023年09月11日 | 日記
 群馬上州と言えば空っ風。冬期北西の山から吹き下ろしてくる乾燥した冷たい風のことだ。その空っ風吹く上州前橋に、詩人伊藤信吉は生まれた。そして風の使いのごとく、季節を忘れた頃に伊藤信吉から著作が届けられた。詩集『上州おたくら 私の方言詩集』(思潮社)『私のイヤリング』(青娥書房)『老世紀界隈で』(集英社)。上州方言集『私の村ことば』(群馬県立土屋文明記念文学館)『マックラサンベ 私の方言 村ことば』(川島書店)。エッセイ『監獄裏の詩人たち』(新潮社)。それらの著作には「伊藤信吉」と、カクカクした独特の文字で著者の署名が書かれていた。あるいは元三大師の魔除けの御札(降魔札)が挟んであった。それは送り主伊藤信吉が自書の一冊一冊に心を込めて対峙し、送り先ひとりひとりの無事を願った証のように思われた。そして、そのなかには時折、自作の句も記されていた。
 
穂波ゆるる何のうれいぞ麥の秋 信吉
ひとり飲む珈琲の香よ秋の灯よ 信吉

 私は俳句には疎く、このような文章を書くにふさわしい者ではないのだが、この二つの句からは、きりっと姿勢を正して季節の感慨と文学への自負のようなものを詠む信吉の、白髪の姿が浮かんでくる。

 1906年前橋生まれの伊藤信吉は、俳人である前に、詩人であった。『島崎藤村の文学』(第一書房)『現代詩の鑑賞』(新潮文庫)の文学評論家であった。また、『私の詩的地帯』(弥生書房)のエッセイスト、『詩のふるさと』(新潮社)『詩の旅』(弥生書房)の紀行写真家作家、『群馬文学全集全20巻』(群馬県立土屋文明記念文学館)の立案企画者という多彩な活躍も残されている。『室生犀星 戦争の詩人・避戦の作家』(集英社)は、準備しつつ未完となった渾身の遺作評伝。このように、文学者としての多様な充実ぶりは96歳で亡くなるまで途切れることがなかった。
10代の頃から詩を書き始めた信吉は、郷里前橋の詩人萩原朔太郎に知遇を得、後に『萩原朔太郎全集』(創元社)(新潮社)(筑摩書房)を編集することになる。前橋居住の草野心平主宰の「学校」に参加。室生犀星、高村光太郎と親しく交流。また、中野重治、萩原恭次郎、壺井繁治らと文学的活動を共にする。大正・昭和の、公私ともにまさに激動の時代を、文学を携えて駆け抜けたのである。

 さて、伊藤信吉の俳句に戻ろう。そもそもなぜ、信吉は俳句を物すようになったのだろうか。それは、信吉の父美太郎が、「渓雪」という俳号を持ち、養蚕業の傍ら農閑期の連座にも参加していた俳人であった背景が影響している。父がそのようであったため、かえって信吉は俳句には近づかなかったともいう。それでも、80代には前述のように自分の句を送付票に記載して贈るようになっていた。また、その後94歳で初めて、前橋の俳句誌「鬣TATEGAMI」に参加し、周囲の度肝を抜くとともに、郷里の風物を快活に詠む句風でみなにあたたかく迎えられている。
私の手元にある信吉の句集は、『伊藤信吉全句集 たそがれのうた』(鬣の会)と『三人句集』(煥乎堂)の二冊。どちらも逝去後の発行で、発行者の信吉への思いが偲ばれる。『たそがれのうた』は長年信吉の助手を勤めた龍沢友子が編年で編集したもので、信吉が自身で気に入った作品だけを残した「俳句ノート」を底本としている。それによると、前述の「穂波揺ゆるる……」は1975年6月作句。よほどのお気に入りなのだろう、降魔札に赤い「信吉印」を伴って、1992年発行の詩集『上州おたくら』に挟まれていた。「ひとり飲む珈琲……」は同年11月9日開催の前橋煥乎堂文藝講座のチラシに印刷されたもの。やはり降魔札がレイアウトされている。しかし、こちらは『たそがれのうた』には収録されていない。信吉の馴染みの珈琲店というと、前橋馬場川沿いの喫茶「小町」が思い出される。「ひとり」とあるが、「ひとり」の信吉を、詩人俳人仲間の暮尾淳や俳人仲間の林桂らが「ひとり」にはさせなかったはずだ。「ひとり」の暮尾、「ひとり」の林、「ひとり」の信吉、皆が「ひとり」を持ち寄って、秋の灯を明るくしていたのだろう。口に含む熱い珈琲、カップの手触り、馥郁たる香りがひろがるなか、珈琲の湯気ごしに見えたのかもしれない秋の日の灯。30年経た現代においても古びた感がない、カップに注ぐ音さえ聞こえてくるような、しみじみと五感に響く句である。

 また、信吉には「ひとり居」で始まる句が多い。

ひとり居に戻りて夕ゼミ途切れ鳴く   (1987年8月18日 妻を病院へ置き自宅に帰りて)
ひとり居のあの人この人いかに秋   (同年9月3日)

ひとり居の風ややにつめたし木瓜の花  (1987年句集『断章四十六』収録)
ひとり居の二月氷雨を木瓜の花     (1989年2月) 
ひとり居て春一番や木瓜の花      (同年3月)(2001年「鬣」創刊号に寄稿)
 
ひとり居や枯れし幾鉢庭の陰      (1989年2月)
ひとり居や幾鉢枯れし庭の隅      (同年2月)
ひとり居や枯れし幾鉢庭の隅      (2000年煥乎堂俳句展準備メモから上州望郷)
ひとり居の霜枯れ庭や朽葉のみ    (1989年11月)

10ひとり居の春燈侘びし宵の雨     (1990年)
11ひとり居のひとり言のみ年明けぬ   (1992年1月2日)
12ひとり居の風ややにつめたし秋の風  (1995年)

 最初の二句は妻ヨシヱを亡くした年のもの。次の三句は木瓜の花に因んで。6から9は庭に絡めて。それから後は間を開けて作られている。12「ひとり居の風ややにつめたし秋の風」は、3「ひとり居の風ややにつめたし木瓜の花」と似ているが、下五が異なる。こだわっていた「木瓜の花」から離れて、「」に移った。 しかも繰り返し「」が使われている。この風は、信吉の故郷上州の空っ風にしては、生ぬるい気がしないでもない。けれど、「ややに」と言っているので、さらにこの風は空っ風のように激しく吹きすさぶ可能性を孕んでいる。寄り来る老いのさびしみも感じさせる。

13風無きに風の声きくひとり居や   (1997年10月25日 保渡田納屋祭り)

 これは、下五に「ひとり居」が入っている。この日、信吉が館長に就任した群馬県立土屋文明記念文学館で「室生犀星・草野心平―風来の二詩人」の講演があり、そのあと近隣の塚越光行宅納屋で集いが催された。この「保渡田納屋祭り」は限られた人数のちょっとした宴で、信吉を囲んで歓談し、最後には信吉の好きな花火を打ち上げるという趣向まで付いていた。文学館館長就任より一年、多忙な日々を経て、『群馬文学全集』発行準備のなか、つかの間ほっとひと息つけたのだろうか。この「ひとり居」は決して孤独な「ひとり居」ではない。犀星・朔太郎・心平・重治・繁治らが遠くから信吉の来し方を見つめている。今は文学や言葉で繋がる創作者達が、信吉を囲んでいる。そして、風。「北風」「木枯らし」「野分」「疾風はやて」「つむじ風」「師走風」「空っ風」「青あらし」「みどり風」。作句の過程で、信吉はいくつ風を数えたのだろうか。風が無くても聞こえるような「風の声」に身を委ねる。そんな信吉の故郷でのつぶやきが、風となって聞こえるようである。

 もう一冊の『三人句集』には伊藤家の三人、信吉の父・美太郎、長男・信吉、三男・秀久の句が収められている。信吉の章の表題句は、1991年4月30日に作られた「西んのその子信吉からっ風」。「西ん家」というのは信吉の生まれ育った家の呼び名である。この句には自分の出自が、テンポよくはっきりと示されていて潔い。このような口調は、空っ風の吹く上州の風土に沿ったものであろう。強い風に吹き飛ばされないように、歯切れよく話さなければ言葉が聞き取れない。そんな風の中に立ち、自我を掲げ、自分を奮い立たせているような、反面いたずらっ子のはにかみのような信吉の姿がある。信吉の描いた風は表情豊かだ。

14今朝の秋ふるさとに似たる風ぞ吹く
15ふる里は風に吹かるるわらべ唄

16この年の吹き止まりかよ馬鹿ッ風
17上州着、やぁやぁからっ風、高架駅

18春の嵐あばれてくたびれて暮れ落ちぬ

 15「ふる里は風に吹かるるわらべ唄」の句は、風の国に生まれ育った信吉の代表句ともいえるもので、本人もよく揮毫した一句である。14に出てくる「ふるさとに似たる風」とはどこの風だろうか。明るい郷愁を誘う風が、全国を訪ね歩き、故郷を離れ住んだ、信吉の身辺に吹いていたことを喜ばしく思う。また16・17の威勢のよさはどうだ。上州の方言を収集し、詩篇に蘇らせた信吉が、俳句に見せた茶目っ気ぶりが微笑ましい。そして、擬人化で風ならぬ嵐を操り、ヒトの来し方行く末を暗示した句を前に、あっぱれ96歳の矍鑠たる姿を、いつまでもいつまでも忘れまいと思うのだった。