雨月茄子春です。
湊圭伍さんからバトンを受け取り、川柳時評を担当することになりました。
今回のバトンは二分割で、もう一方は西脇さん。時評は1年間、全4回、テーマは自由だそうです。
まず相手の西脇さんの紹介をしますと、「海馬万句合」大賞句の
川を見てたらなにもかもおれだった 西脇祥貴
(題「たちあがると、鬼である/中村冨二」)
であったり(名前はよしたか、と読みます)、
発火少年ずるる天地を投げ明かす
大陸交換絵日記 ここに眠る
最高のねぐせは麦の島である
流刑地の流刑うどんと流刑そば
といった句を作っていて、WEBメディアsaloonsや『川柳スパイラル』で連載も持っている方です。博覧強記で朗らか、弁も立つ新進気鋭の川柳作家さん、といったところです(4句はササキリユウイチのnote「川柳句会ビー面」記事から)。
課題意識や観測範囲など、共通するところは多いと思いますので、お互いの時評を見比べて楽しんでいただければ嬉しいです。
(ここまでは西脇さんと打ち合わせして、お互いの他者紹介をするという導入にしました。雨月はどんな紹介をされてるのか。良い句引いてくれ!)
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現代川柳は二種類の「私」の仮構が鍵になると思っています。
一つ目は、前句的セルフプロデュースをされた「私」の仮構です。アイコンや名前、言動、他の自作品が持つ前句としての機能は避けて通れません。逆に言えば、高い精度でこれらを統御することで、前句として効果的に機能させることが可能になります。
正直川柳それ自体、川柳一句というものの力を信じるのであれば、この観点はかなりしょうもないものだと思います。しかし、個の「川柳作家」として自身を立ち上げる場合、想定される/されない読者へのはじめましての扉として、この点はちゃんと検討していかないといけないと思います。
二つ目は、言語運用の主体たる「私」の仮構です。語彙のクローゼットから言葉という洋服を選び出し、思考というコーディネートをした結果として、言語運用主体が見えてきます。より簡潔に言えば「語彙の選択の範囲」をどうするかという問題で、前句的セルフプロデュースを商品のパッケージだとすれば、商品の原材料をどこまで絞れるか、というところになります。
この観点から、前句的セルフプロデュースで仮構されたパーソナリティーに頼らない作家性の検討が可能になります。直観ですが、これは絞れるだけ絞った方がいい。今後重要になるのはこちらだと思います。
これらは明確に分かれてはおらず、相互に関わり合って川柳はできあがっている。
それで、この二つの観点、「前句的セルフプロデュース」と「言語運用主体」をもとにサラリーマン川柳について考えてみます。
サラ川ではもともと「共有されたサラリーマン像」という看板を前句的に扱って読みやすさを担保する、という方法が採られていましたが、現在は看板を掛け替えて「時事詠」的な、もっと広い共感の川柳を募集するようになっています。
2025年5月29日に公開された「2024年サラっと一句! わたしの川柳コンクール」では、投票によって決まる1位から100位の川柳と併せて「家庭」「職場」といったカテゴリーに分けたものや、「あなたのふくおか自慢(福岡県)」など全国の自治体がテーマを設定して募集するものもありました。この看板の構築を個人単位で行うことが前句的セルフプロデュースに当たると思います。
一方で、言語運用主体についてはどうでしょう。サラ川は多行書き・わかち書きで、ほとんど句またがりがありません。これによるリズムの統一や、公共的な語彙の活用は、ある種サラ川的な言語運用の主体像を構築していると思います。「サラ川」にはなにかしらのルールが働いていて、それが切り捨てているものを見つめたときに、この言語運用主体の輪郭が見えてきそうです。ルールの設定の核は、内部の構築ではなく外部の遮断にあります。これは個人の名を冠した作品を鑑賞する際、あるいは句集を作る・読む際に意識されるものです。
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んで、いちばん聞きたかった暮田さんの言ってたことで印象にのこったこと。
・川柳はサラリーマン川柳のイメージが強く、以前はそれが嫌だったけど現代川柳を説明するときに「サラ川とぜんぜん違う」って言ってもらえるから、その恩恵をうけてた。
(公共プール「記念シンポジウム「詩歌の未来を語る―越境の時代に」を聴いてきたよ」note、2025/5/26)
2025年5月24日に日本現代詩歌文学館で催された第40回詩歌文学館賞贈賞式の記念シンポジウム「詩歌の未来を語る―越境の時代に」での暮田さんの発言にある、「「サラ川とぜんぜん違う」」とはどういうレイヤーでの違いなのか、を考えています。
現代川柳において「思い」の時代から「言葉」の時代に遷移したと言われています。「思い」の時代では、感情や思いを表現する道具として言葉を使い、作者の感情に見合う言葉を探していく形で川柳が作られています。一方で、「言葉」の時代では、言葉をいったん表現する道具という役割から解放し、言葉の組み合わせによってまったく新しい世界を作り上げる形で川柳が作られています。
(暮田真名「現代川柳界、期待の新星は早大院生 句集『ふりょの星』出版」早稲田ウィークリー)
「言葉の組み合わせによってまったく新しい世界を作り上げる」ということ。逆に「言葉の組み合わせによって世界を作り上げられていない」ものは何なのか。私は暮田さんの句を読むと、ほとんどのときに小学校の教室っぽい場所が景として浮かびます。この景は「新しい世界だ」と思うけど、「サラ川とぜんぜん違う」と言えそうだし、同じとも言えそうです。
ああ、でも学校って、何かから切り離されているものだから、そうなのか。
二人を見ていると、いままでに誰も言っていないことしか言ってはいけないのだとわかった
(暮田真名 ネットプリント「石になったの?」vol.1)
※二人は我妻俊樹、平岡直子のこと。
暮田さんは「新しい世界の会話」を目指しているのではないか、と近ごろの作品を見ると思います。
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2023年の「川柳を見つけて―『ふりょの星』『馬場にオムライス』合同批評会―」で印象的だったことを思い出しました。
「……下手だよね」
(川合大祐 上記批評会にて)
私は笑っていましたが、それはあまりにも褒め言葉すぎるからで、時間が経ってもずっと記憶に残っています。
ここで用いられた「下手」という尺度は、作品の強度がありつつも、批評の言葉が足りていないために私たちがその魅力を引き出せていないということを感じ取った川合さんのもどかしさから出てきたものである……。
「作品の強度がありつつも」というところが重要です。
これは俳句における季語、短歌における七七に対して川柳が持っている前句という特性、もっと言えば「川柳における私性」に関わっていると見ていて、結局は言語運用主体の話につながると思います。
「下手」に関する提起は、川合さんの第三句集の前にした私たちをギラギラと照射しているようにも思います。
解剖台ビスケットGO! GO! GO!
削除して牛乳時代
とどめに紫式部かさぶた式部のリビドー
(川合大祐『ザ・ブック・オブ・ザ・リバー』書肆侃侃房、2025年)
『ザブザリ』は膝をポンと打つような表現であったり、目の覚めるようなポエジーだったりというものを志向してはいない印象。挙げた句はその中でも比較的他者に紹介しやすい句だと思います。勢いとか必殺技感が重要なのかな。
しかし、現状「これだ」という批評の立場や用語はまだできていないように感じています。
ところで、ササキリ句集を「下手」と言った折に、良かった句として川合さんが挙げた句は私も好きでした。
このあいだ〈現実公園〉で寝てた
(ササキリユウイチ『馬場にオムライス』私家版、2022年)
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ところで好きな句を百句挙げるのってすごくいい。
最近郡司さんがブログ内でこの試みをやっていて、なんだかカードゲームのデッキづくりみたいでした。
つまり、よく目にするミーハーな句が並びます。つまり、規模のある媒体に載った句や友人知人の句が多く並びます。抜いている句は書店で買えた本(雑誌、個人句集、アンソロジー)と、観測できた範囲の同人誌、各自がネットで発表したブログなどから。
(ぐんじ「現代川柳、と聞いて特にひねらず思い出す自分にとってベタな100句を、思い出すままに書いていく(2025年4月時点)」遠い感日記 2024/4/28)
これを受けて、nesさんも百句をまとめていました(nes「私にとっての現代川柳100句」note、2025/5/30)。
秀句観が強化されることにもつながっていますし、「この傾向の人が選ぶ・作る句」という形が独立性の高い川柳には合っているのではないかと感じました。それこそ「柄井川柳選が良いよね」みたいな風に、川柳の発端にも通じるところがあるかと思います。
ていうか川柳ってそれぞれがアンソロジーを作ってナンボでは?
みんなのアンソロジーを集めたアンソロジーを読みたい。
ひとまずはこの辺で。
西脇さんの第一回と、バトルだ!
判者は、もちろん、あなたです。
ラビュー。