「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 俳句作品と配列の関係――齋藤愼爾句集『永遠と一日』から 添田 馨

2015年04月30日 | 日記
 俳句を語るためには、俳句そのものについて語ろうとしてはならないのではないか? いきなりこのような前置きから始める訳は、前回にふれた短歌表現と同様に、俳句表現においても五七五という音節の基本的組合せが、表現の自由度を形式面から制約する結果には必ずしもなっていないと思われるからである。
 短詩型文学のなかでも、音節数のもっとも少ないものが俳句であり、歴史的にみてもそれより短い音節での文芸的表出の痕跡が見当たらない事実は、俳句を織りなす十七音構成あたりが、日本語表現における文学の表現単位の短かさの限界なのではないかと、私に想像させる。
 だが、すでにこうした判断のなかにも真相を曇らせる先入観は知らず知らずのうちに紛れ込んでいるのかもしれない。私などは俳句作品という場合に、あまり意識せずにその一行形態、すなわち五七五の十七基本音節からなる作品単体をつい思い浮かべてしまう。だがそのことは、俳句の表現単位がその一行形態そのものにあると、私が何の根拠もなく思い込んでいるからに過ぎないのではないか。
 例えば百個の俳句をおさめた句集があったとき、それを個々に独立した百の作品が構成する単なる集合体として読むべきなのか、あるいは百の詩行をもつ行分け詩のようにそれを何らかの〝まとまり〟として読むべきなのか、あるいはそのいずれでもあって、又そのいずれでもないのか等々――原理面からそれを明解に言い当てることは、実は思いのほか難しい。だが、俳句作品のなかにつねに個々の作品体(記述体)を超出しつづける妙味を見出すことがしばしばの私にとって、この問題は一度きちんと考えておかなければならない主題であった。
 齋藤愼爾の『永遠と一日』(思潮社 二○一一年)は、私のこうした問題意識とは関係なく、それ自体の強固な作品時間を展開する句集であることを言わずもがなの前提としたうえで、私は俳句のみならず、詩文学全体にも関わってくるだろうところの、ある本質的な問題にかんする考察の糸口を、齋藤氏のこの秀逸な句集から掘り起こしていきたいと願う。それを許すだけの質と度量をこの句集は具備していると思うからである。

(父)
山頂に父裁かるる芒かな
鷹の眼をもつ父のゐて枯木山
父いまも羽毛のこころに雲を漕ぐ
芒原出てより父の流離譚
引力に父は浮身の花野かな
狐火に声挙げ父の青の時
山冷えの空気を組み立ててゐる父よ
冬空の切っ先蒼む父の鬱
父の鬱はじまる水草の生ふところ
父の鬱柿色の柿地に落ちて
父死後の寒夕焼を楯とせり
亡父来て切り揃へたる寒の餅


 齋藤氏の句集から、まず「」という語を含んだ作品をすべて拾い出してみた。ただし、ここに並んだ順番は句集に収められているものとは違い、私が勝手に編集しなおした配列によっている。いったい私はこの操作によって何をしたかったのか?
 一言でいえば、実際にこの句集を読むさいに自分が脳のなかで無意識に行っているある精神の作業を、目に見えるかたちで取り出したかったのである。どういうことか?
 『永遠と一日』には全部で七四一句の作品が収められており、またその内部は四十六の小タイトルを持つユニット群から構成されている。各ユニットには少ないもので五~七句、多いものだと百句以上の作品が包含され、それぞれが緩い段落を形成している。
 だが実際に私はこの句集を、そうしたことにはほとんど無頓着に読み進んでいった。そして印象により強く残った個々の作品を記憶にとどめながら、それらの内容に応じてそれらの記憶からなる複数の小宇宙(時間と空間の像)をみずからのうちに形成していったことに気づく。
 先の「」をテーマにした一連の作を例にいえば、私はこれらの作品からぼんやりとではあるが齋藤氏の描く「」の全体的像(イメージ)を受け取り、それが私自身の「」の記憶像と共有されることによって、ある表現的な価値として私のなかに鮮明に残り続けるという循環が、そこに生じたことを確認できるのである。
 同様に「ちちはは」もしくは「父母」の語句を含んだ作品をすべて選んでみる。

(ちちはは/父母)
ちちははを容れてしまへば春の道
ちちははを辿り十三夜無月なり
ちちははと宿る次の世また雪か
父母の世のやうに鳥引きをへぬ
父母と過ぐ年の港の時雨れけり
父母を弑す冬の芒に逢ふために
ちちははも山また山もねまるなり
百越えて父母は木苺熟るる側
父母の世に露けき産衣を賜はりし
ちちははと一炊の夢春永し
百日紅父母未生より仮住ひ
死にたれば父母にこにこと端居せり
ちちははあにいもうとのやう桃の花
亡き父母が露の藜を運びをり
瞑りては父母をはなるる螢宿
父母未生以前原子炉の蛍
かいつぶり父よ母よとくぐりけり
母なくて病葉父なく破蓮
茅草を刈りふせ父も母もなし
花芒ちちはは永劫に隠れたる


 ここでもまた、私はこれらの句を私が受け取ったイメージの流れに沿って配列し直している。そのことの意味について述べておきたい。
短歌や俳句などの短詩型文学は、フォルム(形式)とフォーマット(型式)で成り立つ。ただフォルム(形式)については可視的であっても、フォーマット(型式)については元来不可視なものであって、それがうまく了解できるかどうかにより、個々の作品の受け止められ方も当然変わってくる。フォーマット(型式)は個々の作品にとってはその隠れた背景(散文構造)の示唆であり、本句集においては各ユニットの小タイトルの表象機能がその役割を担わされていると言っていい。
 しかし、実際に私がこの句集を読み進める内部過程においては、これらの小タイトルが示唆する作品の背景像はほとんど影響を与えることがなかった。齋藤氏の本句集はそれだけ、個々の作品記述(詩文)の自由度が相対的に大きく、逆にそれの非記述構造(散文構造)の拘束性が小さかったことを意味している。
 とは言っても、フォーマット(型式)つまり作品の非記述構造へまったく依拠せずに表現間の価値連関を呼び起こすことはきわめて難しいので、読む者はそこで自らの印象だけを頼りに事後的に自分だけのフォーマット(型式)をつくりあげながら、同時進行で作品を読み進まなければならない事態が起きてくる。
 その結果、「」や「ちちはは/父母」を謳った作品が句集のなかにばらばらに散在していても、読む者はみずからの記憶においてそれらをある〝まとまり〟として受容することになり、それが彼のオリジナルな共感の輪を無意識につくりあげていくのであって、こうした精神の作業が幾重にも介在することではじめてひとつの句集の全体的な価値は、読む者の意識へと刻印されるにいたる。
 私が先に齋藤氏の作品の配置をじぶんで勝手に並べ替えて示したのは、実をいえば、私がつくりあげた自らのフォーマット(型式)にそれらを落とし込んだ結果なのだ。普段は無意識に行っている内面の作業を、敢えてわざと眼に見えるように、こうして書き出したのである。すると、ここできわめて奇妙な事態が招来されることになる。
 すなわち、本来ならば同一であるべきフォルム(形式)とフォーマット(型式)の帰属先が、分裂を余儀なくされてしまう事態が起こってしまうのだ。どういうことか?
 当然のことながら個々の作品(記述体)のフォルム(形式)は作者の創出になるもので、ここは変わりようがない。読者が介在することで変ってしまうのはフォーマット(型式)のほうである。
 句集に収録されたもののうち、ある一群の作品が読者によって強い〝まとまり〟として受認され、記憶され、その結果として共感がシェアされるということは、すでに作者が当初企図したフォーマット(型式)からそれらが引き剥がされ、読者がみずから創りあげた別のフォーマット(型式)へと転写されてしまった新たな事態を意味している。言い換えれば、フォルム(形式)は作者の側に帰属したままでも、フォーマット(型式)だけは読者の側に帰属するものへと、ここですり替わってしまうのだ。
 ここまできて私はあの最初の問い、すなわち「百個の俳句をおさめた句集があったとき、それを個々に独立した百の作品が構成する単なる集合体として読むべきなのか、あるいは百の詩行をもつ行分け詩のようにそれを何らかの〝まとまり〟として読むべきなのか」という問いに対する回答の、ようやく端緒に立つことができたとの感触を持つ。
 人はふつう他人の手になる百の俳句を読んでも、それらを全部記憶することはほぼ不可能だし、同時にそれら全部から均等に感銘を受けるなどということもまずないだろう。一番ありそうに思われるのは、百の作品のなかにとりわけ強く魅力を感じる作品がいくつかあって、ちょうどそれらを飛び石のように記憶することで、百の作品の総体的な印象を自分なりに練りあげていくケースである。
 今回、私が述べたかったのは、このようなありふれた体験を、批評の言葉に普遍化して言い表わすことだった。
 さらに想像を膨らませるなら、読者たる自分がとりわけ強く魅力を覚えた作品だけを取り出して一覧化できれば、それらはすでに私だけのフォーマット(型式)に書き写された〝まとまり〟すなわち〝百の詩行をもつ私だけの行分け詩〟に極めて近い実質を帯びてしまうのではないか。
最後に、齋藤氏の『永遠と一日』から私が半端ならぬ魅力を受け取った作品だけを、以下に抜粋してみる。

たましひに閂(かんぬき)かける冬構え
わが死後の雪美しき昔かな
螢火は戸籍抄本燃す火種
身ひとつを遺失物とし十三夜
天地(あめつち)の間に喪服を掛けておく
鬼女二人三人死人紅葉山
前の世の客が来てゐる曼珠沙華
重力にすこし引力月見草
白魚を啜り此の世にかかはれり
原子炉の火の消えぎはに花の種
真つ白な犀が来てゐる春の風邪
マント着てみみづくよりも老成す
なきがらを排泄したり青山河
鰯雲いづこに身捨つるほどの国
露の世の無明の奥処に原子の火
チェルノブイリ以前大和で土筆摘み
白文の一行となり瀧涸るる
疫(えやみ)星(ぼし)詩歌かたぶきつつあるか
春月の周りは四億年の海
青天に巨いなる眼ありて風花す
障子貼り水の惑星疎くせり
銀河まで青葉の地球を過ぐるのみ
原子の火黄泉の子らも影踏むや
蛇の穴もうこの世へは誰も来ぬ
白椿この世の時間と虚の時間
日月と水の惑星春隣
遠き星の爆発吾を的にして
酉の市マントの中のカフカかな
天心に月瓦礫のごとくあり
家系図の始めに螢墨書され
親ひとり子ひとりに原子炉の蛍


 やはりこれらも句集への収録順序を全部無視して、私のイメージに合わせ再配列しなおしたものだ。どの作品も私が好きなものばかりを選んでいる。だが、全体を概観すると、何故か一篇の行分け詩を読んでいる気分に捉われてしまうのは気のせいだろうか。
 ただ、こうした些細な発見に何か特別な意味があるのかどうか、即座には判別できないにしろ、私自身の俳句作品の楽しみ方が、実はこうした無意識のプロセスに拠っているということだけは、ここで白状しておかねばならないだろう。
 本当なら、こういう不埒な隠し事は公表すべきではないのだろうし、何より作者にも作品にも失礼だということは重々承知である。だが、私にとって齋藤氏の『永遠と一日』が与えてくれる魅力の一端は、およそこのような眺望になるだろうということを仮説として投げかけるために、敢えて公表した次第である。(齋藤さん、ごめんなさい。)
(続く)

俳句評 腕前の上りし春は八重桜――「三詩型」とその成長戦略 森本孝徳

2015年04月27日 | 日記
 「詩型」なるもののいわば「越境」にしろ「融合」にしろ、僕のようなビギナーには頓と不明かつ神韻縹渺たるものだが、そうした「越境」なり「融合」なりをめぐる饒舌ぶりがこの国の(当然ながらこの国一国[以上二文字、傍点]でしか口の端にも上らないだろうことがらだが)現在に存在するとして、この[以上二文字、傍点]饒舌さのさ中、日本近現代文学の中でもきわめてケッ出した歌いぶりで「三詩型」とやら(短歌、俳句、そして詩的散文?)の「融合」と「越境」をじつに華麗に、いささか華麗過ぎるほどに演じてみせた深沢七郎の下記散文がほぼ[以上二文字、傍点]誰の口の端にも上らない事実はいっそう僕のようなビギナーには頓と不可解かつ神仙縹渺たるものだ。

 その時、横で、さっきの老紳士が、
「皇后陛下の辞世のおん歌は」
 と言って読み始めたのだった。
   磯千鳥沖の荒波かきわけて
    船頭いとほしともしび濡るる
 そう読みあげて頼みもしないのにまた歌の解釈をするのだ。「磯ちどり沖の荒波かきわけて船頭いとおしともしび」までは「濡れる」の序で、歌の意味はただ「濡れる」というだけだそうである。
「濡れるって、ただ濡れるでは、何がどんな風に濡れるだかわからないじゃないですか?」
 と私は昭憲皇太后が逃げては(困る、困る)と思いながら、両股で首をはさんだまま老紳士の方を見上げてそう聞いた。
「なにが濡れるって、そこまで、はっきり言ってしまわないで、遠まわしに言うのが歌を作る者の心得だ。しいて、くどく税明すれば涙に濡れる、〝なんと悲しいことではありましょう〟ということです」
 と教えてくれた。
「つまり、なぞなぞみたいに作ればいいですね、和歌は」
 と私は言った。
「いや、なぞなぞとは少しちがうようだ」
 と老紳士は教えてくれた。昭憲皇太后はまた足をバタバタ暴れてわめいた。
「てめえだちは、誰のおかげで生きていられるのだ。みんな、わしだちのおかげだぞ」
 と言うのだ。

(深沢七郎「風流夢譚」、『中央公論』一九六〇年十二月号)


みんな」が「生きて」饒舌で「いられる」のは「わしだちのおかげ」だとする「昭憲皇太后」のこの言葉は、「詩型」の「越境」ないしは「融合」を語り[以上二文字、月並だが「騙り」とルビ]ながらも、ほぼ短歌なるものに中心化していく現状を目視するに(詩人はかくもほがらかに「定型」化した時事詠への撤退をこころみ、あるいはあらゆる[以上四文字、「たった三つの」とルビ]詩型を承認して均質化するふるまいにあたかも「自由」が存するとでもいうかのように[以上五文字、傍点]彼の利き手で「短歌」を詠み、歌人は短歌の趣を平然と残してこれもまた彼の利き手で「自由詩」を書き、俳人は七七に限らぬ[以上三文字、傍点]形式で下の句が補完されることでますます「豊穣」になる五七五に向かって黙って彼の利き手を振っているばかりではなかろうか)、「風流夢譚」事件/嶋中事件から五十四年後の(そしてこれは言うまでもなかろうが、現実の昭憲皇太后はこの短篇小説の発表当時既に鬼籍に入って四十五年が経過している)現在を以てしてもまさに正鵠を射ているといえるが、その詳細を論じている紙幅はここにはなかろう。僕のようなビギナーにはその知恵もない。ただし、この「わしだち」の饒舌の「真ん中」に居座る「ナカゾリの様な丸いハゲ」を発見して怯み、ついに「わーっ」と叫ぶしかなかった(深沢得意の「音引き+促音」の組合せ)深沢の「私」の狂騒的な沈黙[以上二文字、傍点]を、この現在の「わしだち(わたしたち……僕たち……)」の、「定型」への同意も敵意もさして持たずしてそこへといささかの瑕を負うこともなく傾斜してゆく日本語の快適な環境に(「偶然短歌bot」でも参照すればよい)およそ全身を任せているおしゃべり[以上五文字、「三詩型」とルビ]の主体[以上二文字、「やつ」とルビ]に何くれとなく想起させてみたらどうかと僕は思うものだ。むろん「風流夢譚」について誰もが知る「皇太子殿下の首はスッテンコロコロ」「美智子妃殿下の首がスッテンコロコロ」の「金属性の」七音をここに招来してみたとて、それこそ「雛人形」のように整然と並列するだけで終わろうが。

(あゝ、これで、思い残すこともない、死んでもいい)と思った。そうして、私も腹一文字にかき切って(死んでしまおう)と、私は辞世の歌を作ったのだ。
   ちはやぶる神のみ坂にぬさまつり
    祝ふいのちはおもちちがため
 歌の意味は武運長久を神に祈るのは自分のためではなく父母のためなのだ。私はもう今は父も母もないから死んでもいいというのである。横で老紳士に、
「それは、万葉の防人の歌にあるではないか」
 と言われてしまった。
(あッ、そうだったか、まずかったなァ、ヒトの歌を自分の辞世の歌にして)と思ったので、
「あゝ、そうでしたねえ、うっかり、でした、もうひとつ」
 そう言って、私は辞世の歌をもう一つ作って大声で読みあげながらバーンとピストルでアタマを打った。(中略)
 ここで私は夢から覚めたのだが、甥のミツヒトに起されたのだった。
「おじちゃん、でかい声で、寝言を言って」
 と目を丸くして私を起しているのだ。
「あゝ、ミツヒト、俺は死ぐのだ」
 とミツヒトにしがみついた。
「でかい声の寝言だねえ、はっきり言う寝言だねえ」
 と言われて、
「俺は、なにか言ったのか」
 ときくと、
「夏草やつわものどもの夢のあと、と、はっきり言ったよ。俳句をはっきり」
 と言うのだ。
「アッ、それは、いま、俺が作った辞世の歌だ」
 と私はまだ夢のつづきだった。そうして、俳句だと言われて、
(あゝ、なんだ、俳句だったのか)
 と私は完全に目がさめた。


 この短篇小説の眼目は「左慾の人だち」によって斬りおとされた皇族一家の首が「スッテンコロコロ」と「転がってい」くといった珍奇なイメージをこの国の文学にもたらしたことにあるのではないし、そう信じている人間も今となってはおそらくはいまい。私見では、俳句とは短歌のある種の「緩和」であり、「緩和」の過程で斬りおとされた半身(胴体? それとも首[以上一文字、「シュ」とルビ])を夢みる現実的[以上三文字、「フィジカル」とルビ]な運動体の文学形式だが、「夏草やつわものどもの夢のあと」というニセモノの「辞世の歌」[以上十一文字、「俳句」とルビ]が遡行する全身的かつ一次的な[以上四文字、涙点強調]「夢」なるものの中で、他でもない「巨大短歌空間」の「真ん中」に居座っているはずの者が斬首されている「現実」、ここに深沢の「譚」=批評の骨子がある。あるいはこうもいえようか。短歌的夢の「緩和」であり二次的な俳句的現実こそが「夢のあと」を痕跡として記憶する。一次的なものは記憶せず、「〝アモーレ、アモーレ、アモーレ、アモーレミヨ[以上二文字、「御代」とルビ。ルビは筆者]〟」と歌い上げるばかりだ。記憶の存在しないところに時間は露も発生せず、永続的な現在において皇族一家の首は斬りおとされている。しかし、にも関わらず「完全に目がさめ」てみると、「俺が寝ると俺と一緒に寝てしまう」はずだったユニークな「腕時計の針」は、「眠ってしまってあの夢を見」る直前の「私の意識していた時刻」である「1時50分」から「2時かっきりを指」すという「涙が出そうになる程」の動きの痕跡を残しているのだ。「あの小説は、和歌というものに対する、私の抵抗感がつくらせたものだ。短歌の“風流”というものは、オセンチで、全くコッケイなしろものだ」と語った深沢が狙っていたのはおそらく俳句による短歌への「敵対」だが(※1)、まあしかし、そんなことはどうだってよろしい。問題は現在のおしゃべり[以上五文字、「三詩型」とルビ]の効果とその行方だろう。
 およそ六〇年前の「定型論争」において、深沢と同様「庶民」を鍵概念としていた吉本隆明は、「わたしは、短歌はいまの段階ではどんなにがんばっても思想や文学的内容を第一義とすることはできないだろうと考えている。そうするためには必然的に破調が必要である」と書き、この詩形式では「音数律のワク」が「複雑な内部世界」を屈折させるため、それを「前衛的な問題」として描出することは不可能だと言った。吉本の読み損ないはその後の前衛短歌の展開をみても明白だが、いま問うべきは短歌が「思想や文学的内容」の器たり得るかたり得ぬかではない。はたして深沢が半ば迂闊に指摘してしまったがごとく、短歌ないしは定型詩が「思想や文学的内容」のみならずあらゆる物事を詠み得るにも関わらず、それでもなお「オセンチで、全くコッケイなしろもの」であり、平たくいえばからっぽであり、永続的に(千代に八千代に)審美の領域で遊んでいることが問われるべきなのだ。そのことは二〇〇二年刊行の詩集に「俺の胸の中のプルトニウムに折れ曲がったフォークを投げ込め 投げ込め」と書き、二〇一三年刊行のそれにもまた「ところでわたしの言葉の/原子炉を廃炉するには/何年かかる/のだろう」と書く「定型」的なレトリックの使い手たる「自由詩」作者の和合亮一(※2)や、最終的に「明日戦争がはじまる」という主題に統合可能でありさえすれば東京新聞の見出しから保守速報のスレッドタイトルまで何であれ動員可能な「器」を形成した、これもまた「自由詩」作者の宮尾節子にも指摘し得るだろう。むろん、遊戯こそが「無力」な詩の本分だとするのもひとつの立場だ。しかし遊戯は容易に「わしだち(わたしたち……僕たち……)」を成立させる触媒へと横滑りし、「わしだち」の疎通をたやすくさせるものだ。そして、そうでありながらこの「わしだち」を組織する無垢と孤立を装った陋劣な「力」が何ものを利するかについてはほとんど考えられてはいないのがこのおしゃべり[以上五文字、「三詩型」とルビ]の現状ではなかろうか。「詩は無力である」とは藤井貞和と瀬尾育生との間を主戦場とした「湾岸詩論争」においてしきりと反復された「オセンチで、全くコッケイな」コピーだが、あれから約二十五年! ぐずぐずの紋切型と化した「無力」を偽装しつつ、その「無力」を手掛かりとして遊戯へと没入し、その遊戯への、いわゆる「アイロニカルな没入」によってつとめてコミュニケーションスキルの「力」を磨いているのが現在の詩の姿ではないか。
 ひとことで言えば「詩型」なるものの「越境」にしろ「融合」にしろ、それらは畢竟各詩型の成長戦略に他ならない。ちなみに僕は「越境[以上二文字、"Ec(ky)o"とルビ]」や「融合[以上二文字、"mix/-ics"とルビ]」の語を述語とするところの「三詩型」の名をおよそ二年ほど前から「三本の矢」と渾名しているが、ところで「三本の矢」の故事の通用する範囲がこの短歌の国一国であることは論をまたない。そして誰もが常識的に知る通り、矢は一本きりで放たれなければむなしく空を切るだけなのである(※3)。

※1 深沢に倣って僕も和歌と短歌を混同している。
※2 綿野恵太「谷川雁の原子力」(「現代詩手帖」二〇一四年八、九、一〇月号)、大澤南「えせ詩人は、死の灰を湿潤地帯から掘り出して言う、『これを新しい燃料にして、えせ詩を書けえ』、そして、『えいくそ』、とクソ詩を書く――いわゆる「震災詩」について」(「子午線」Vol.3、二〇一五年)を参照のこと。
※3 当初は「俳句評」として、「風流夢譚」をいわばマクラにして、深沢七郎におよそ一年遅れて誕生した、今年生誕百年を迎えた小島信夫が、今から二五年前に上梓した一冊の評伝が扱った現在の出雲市に産まれた俳人の、深吉野や東京で培ったその神道への深い帰依と、それが極まったためのほとんど不敬性のようなものを炙り出している点で目を瞠る岩淵喜代子『二冊の「鹿火屋」――原石鼎の憧憬』(邑書林)について書くつもりだったが、マクラのほうがふくれてしまった。

俳句評 2000句の必然 〜北大路翼句集『天使の涎』を読む〜 田村元

2015年04月27日 | 日記
 楽しみにしていた北大路翼句集『天使の涎』(邑書林)がついに出た。2000句収録と聞いていたので、どんなに分厚い本だろうと思っていたのだが、1ページに13首組み、ページ数は170ページほどのソフトカバーの1冊だ。
 朝の通勤電車で読み始め、帰りの電車までで半分。家に帰って残りの半分。もっと時間がかかるかと思ったが、1日で一気に読んでしまった。

 熱燗のコップを握つたまま眠る

 句集の冒頭近くに、こんな句がある。よくある酔っぱらいの姿だが、眠ってしまっても熱燗のコップを握って離さないところに、ユーモアとペーソスがにじむ。季節は冬。ぴくりとも動かない男の背中には、きっと隙間風が吹きつけていたことだろう。

 蛤を灰皿にして立ち飲み屋
 マスターとヒーターだけの立ち飲み屋


 立ち飲み屋の句である。一句目は、酒蒸しか何かの蛤の貝殻を灰皿にして、煙草を吸いながら飲んでいる場面だ。隣の客と肩が触れ合うくらいの立ち飲み屋の狭い店内と、貝の中では大きめの蛤の貝殻とが、句の中に狭さと広さを同時に生んでいるところが面白い。二句目は、「マスター」と「ヒーター」が韻を踏んでいるのは見てのとおりだが、やはり広くはない店内に、「マスターとヒーターだけ」と言われてしまうと、なんだか妙に納得させられてしまう。いやいや、ホッピーの瓶とか、つまみのタコさんウインナーとかもあるでしょ、と言いたくなるのだが、俳句の省略の力と、押韻によるマジックなのだろうか、句を読み返すほど、私の脳裏には「マスターとヒーターだけ」しか浮かんでこなくなる。

 それにしても、夜中に原稿を書きながらこれらの句を読んでいると、どうにも飲みたくなって仕方がない。(書き終わったら、菊正宗の熱燗をつけることにしたい。)

 倒れても首振つてゐる扇風機
 寝たままで扇風機まで行く方法
 扇風機がいやいやまはるのがわかる
 木刀で入れるスイッチ扇風機


 扇風機を詠んだ句にも面白いものが多かった。どこか作者の思いが投影されているような一句目と三句目。二句目と四句目は、暑さを和らげてくれる扇風機も、人生の気怠さの方はちっとも和らげてくれないことを物語っているようだ。

 夕立にオッズが少しずつ動く
 長雨やワンタンメンにンが三つ


 激しく降り続ける夕立と、少しずつ動いていくオッズとの対比。湯気の立つワンタンメンの器と、ラーメン屋の外に降る長雨。こういう句を読むと、雨の匂いが感じられたり、風景の奥行きが感じられたりするのはなぜだろう。

 わたしから抜け出た蛇が動かない

 どう解釈するか難しい句だが、季語の「蛇穴を出ず」をもじったものだろうか。二日酔いなどで伸びている様子を比喩的に描いたとも取れるし、自分の内側ばかり掘り下げてみても、出てくるものはせいぜい動かない蛇くらいのものだ、という意味にも取れる。歌詠みにとっては「私」は大きなテーマなので、ちょっと考えさせられる句でもある。

 便座冷ゆわが青春の歌舞伎町

 飲み屋でひとりトイレに入ると、客席のざわめきが遠のき、ふとわれに帰る瞬間がやってくる。その瞬間を初句の「便座冷ゆ」が、皮膚感覚を通して読者に思い起こさせてくれる。

 この句集は、歌舞伎町の風物を詠み込んだ句が多く、読んでいるとネオンきらめく雑踏に迷い込んだような気分になるが、歌舞伎町という街の雑多な雰囲気を真に伝えているのは、描かれている個々の風物というよりも、この句集の桁外れの収録句数のほうなのではないかと思う。2000句という圧倒的なボリュームこそが、『天使の涎』の必然なのである。