「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 俳句鑑賞における時間の止め方と流し方について 沼谷 香澄 

2021年04月20日 | 日記

 短歌にあるのが一次元を移動する思考上を流れる詩情だとすると、俳句にあるのは膨張する点として存在する、次元で言えばゼロ次元にも二次元にも三次元にもとらえうる詩情だと思います。名詞に着目したとしても、それぞれの詩形で果たす役割が違っていて、短歌上の名詞はパーツとして機能します。たとえ名詞の羅列だけで一首が成立していたとしても、歌の中の名詞は前後につらなるものから受ける力を一緒に鑑賞するもので、俳句に現れる名詞のように存在そのものから放射される力をそのまま鑑賞するのとは違うと思います。

 

 と、ここまでが、まともに俳句を読まずに頭で考えた、私の俳句に対する先入観です。

 

 苦手意識を取り除くために、手近にある冊子のなかの俳句を読んでいくと、俳句の中で名詞は予想した様な権力を持っていませんでした。しかし読み解くときの心の動きや読後感において短歌と異なっており、俳句を読むとき意識が絵画を鑑賞するときのように移動していることを自覚しました。

 

  老猫の分の賽銭花手毬    奈良比佐子 「ねうねう」創刊号(2016.12)

 

 上に挙げた句はたしかに名詞に満ち溢れた句ですが、なんというか、それぞれを愛でることができるようにディスプレイされている、そんな感じがします。それは一句を読むときもまとまった作品を読み進めるときも同様で、この作品は亡くなった愛猫をテーマにした十句連作から引いたものですが、追憶や別の猫や人がたくさん登場して互いとかかわっていることがわかるように、語が置かれているようでした。鑑賞する私は、作品中に置かれた語句をいったりきたりして、それぞれの語にまつわる時間を進めたり戻したりして、ひとしきり句の見せる世界を味わってから、読後という現在へ戻ってくる、そういう経験をしたように思います。

 短歌だと上から下へ読んで文章構造を理解してから、よりよく理解するためにそれぞれの語句を吟味したりしますが、俳句を読むときの心の動きはもっと自由で恣意的に感じます。俳句は短いから文章構造が存在しない(ことが多い)のがその理由だと思います。

 花手毬は花壇やプランターに植え込まれる花ですが、置かれた場所に鮮やかなピンクや赤のはっきりした色を与えると思います。俳句における名詞は、庭に置かれた園芸種の花のように、風景に色を与えるために探しあてられ、そして大事に植えられるものだろうと思います。

 

  猫の恋響く携帯電話より     堀田季何  同

  猫去りし廊下のぬくみ踏み夕立  鈴木陽子  同

 

 絵画の様だというのは鑑賞者の意識の話であって、俳句が視覚描写に特化されるという意味ではもちろんありません。むしろ、聴覚情報や、空間や、温度など、絵にならないものを描きえた作品のほうが、俳句鑑賞の楽しさをより実感できるといえます。

 

  みづうみのあとがきにおほつぶの雪  宮本佳代乃  「オルガン」8号(2017.2) 

 

 少し読んで回って、かっこよかった句を紹介して終わりにします。「あとがき」は付帯情報くらいの意味でしょうか、行く冬という言葉はないかもしれませんが冬を惜しむ感情がにじんでいるようです