「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評143回 多行俳句時評(2) 木村リュウジ ワレカラを懐にして      丑丸 敬史 

2021年11月30日 | 日記

(1)

  言語野の
  はなばかり見て
  秋の暮                           木村 リュウジ

  はらからの
  そのははからの
  波羅蜜多

  枯尾花
  或る辭失くして
  揺れ止まぬ

 木村リュウジ。本名、木村龍司。1994.8.8〜2021.10.21。突如、木村はこの世を辞した。彼を知る人はまだその事実をしっかりと受け止められずにいる。

 掲出三句は、木村がLOTUS 2018年10月句会に寄せた彼の多行形式俳句デビュー作である。以前、「俳句時評 第130回 多行形式俳句(4)月光魚は帷の淵に」に書かせていただいたように、彼はLOTUS同人の酒卷英一郎の三行形式俳句に魅せられて、LOTUS句会に参加して、自らも三行形式俳句を書き始めた。その記念すべき作である。<言語野の>は、この句会における最高点句であった。華々しいデビューである。筆者は句会が開かれる東京から遠方であるため、欠席投句での参加であったため、木村リュージって何者? 状態になった。

 ここで木村はすでに酒卷俳句の言語遊戯を咀嚼し、彼なりのポエジーの有り様を見出しつつあるように見える。言語遊戯を一段低く見る向きもあろうが、言語遊戯は作者の「はにかみ」であり、「てれ」であり、「矜持」である。言語野は、脳内の言語を司る領域であるが、ものを考える、俳句を作る、全てのことは言語を通して行われ、複雑な思考も言語が仲介する。その不思議な作用を司る言語野に立ち、その領域の端を見渡す。ススキが風に揺れてその太陽はすでに西に傾き最後の光芒を引く。遠くに山があっても良い。まさしく、虚子の<遠山に日の当たりたる枯野かな>の世界が目に浮かぶ。そのイメージを言語野という言葉から紡ぐ。

(2)

  行く秋の
  空に研がれて
  秋の逝く                        2018.12月句会

  花籠めの
  地天返しの
  眠りかな                        2019.4月句会

  花かつみ
  出づれば消ゆる
  祖語なりや                       2019.6月句会

  たなびくは
  夢のたびらの
  ゆかたびら                       2020.6月句会

  實を結び
  泡立ちさうな
  綺語を摘む                       2020.10月句会

  苅萱の
  喃語の我を
  刈るまじく                       2020.12月句会

  揚雲雀
  闇の上がりぞ
  病み深き                        2021.4月句会

 晩秋が渡り鳥のようには空を遠ざかってゆく。その秋を空が研ぎ澄ます。秋はさらに身を細く鋭くし冬の木枯らしのように厳しく冷たい光となって遠ざかりゆく。秋の終わりを地から見届けている。
 花かつみは、古歌に詠まれた花であるが、杜若、姫著莪、真菰、諸説あるが正体不明。「みちのくのあさかのぬまの花かつみかつみる人に恋ひやわたらん」(古今和歌集)、正体不明のところが詩心をよりくすぐるのであろう。能因法師や松尾芭蕉がわざわざ現在の福島県の安積の沼まで訪ねたほどである。祖語は、ここでは尊い師匠の言葉くらいの意味であろうか、口にすれば、口にした途端に消える祖師の言葉、それを幻の花かつみと見ている。
 タビラ(田平)とは鯉科タナゴの近縁種であるが、それをここに当て嵌めずとも、揺蕩うような言葉遊びに興じたい。たなびく湯帷子に混じり、たなびくタビラを想えば良いし、わざわざ「夢の」と断っているところに、タビラと湯帷子に何の関係があるのかと問うのは野暮というもの。
 揚雲雀の抱える闇と病み。「」と「病み」の駄洒落、「」、「上がり」、「深き」の対比だけのように見えるものの、揚雲雀の闇に思いを馳せた者がいたであろうか。雲雀が上がるに連れて、その闇も大きく深くなる。

 筆者は、三行形式俳句に形式美を強く感じる。酒卷のものには五七五を単に行分けにしたものが多いが、それだけに見せ方に凝っている。三行書きの必然性をいかに面白く感じさせるか、作者は心血を注いでいる。律を崩す面白さと断絶の凄みのある四行形式俳句に対して、三行形式俳句にも同様に気負いはあるはずだが、三行形式俳句の書き手はその気負いを感じさせず俳句世界に遊んでいる。木村はこの三行形式俳句の軽やかさ、遊びに惹かれていたのであろうか。

 コロナ禍でZoomを用いたリモート句会となった後は、筆者も画面越しではあるが木村と対面した。現在、俳句がどれだけ若者に刺さる詩型かと問われれば、現代詩や短歌に比べればそれは薄い。感情が溢れて溢れて仕方がない、言いたがりの若者にとって、「語らず」の文芸である俳句に己を嵌め込むことは難しい。まだ二十代ではありながらその俳句の骨法を理解し、古来よりの俳句に関しての博識とそれに裏打ちされた木村の俳句の読みの深さにも驚かされることが常であった。ゆくゆくは、俳句という詩型を刷新しゆく推進者になるであろうと、彼の俳句を知る誰しもが期待する俳人であった。

(3)

  言語野の
  あなたから
  われからを享く                      2021.10月句会

 木村が最後の句会に提出した三句のうちの一つ。言葉を、日本語を愛した木村にとって言語野はかけがえのない故郷であったことであろう。その原風景である言語野に彼は再び佇っている。ワレカラ(割殻、破殻)はヨコエビ近縁種の極小エビであり、移動する器官が著しく退化しその姿はとても小さく儚い。言語野の涯を見つめていた木村は、その言語野の彼方(あなた)から祝福としてワレカラを貰い受けた。その小さなワレカラをお守りとして懐に入れ、木村はこれからも詩歌の旅路を続けてゆく。


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2 コメント

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Unknown (ifuri36)
2021-11-30 05:52:33
突然すみません
文面どうりに伺うと、木村リュウジさんは亡くなられたと解されますが。まことでしょうか?
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Unknown (筆者)
2021-11-30 08:43:26
いまだに信じられませんが、その通りです。
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