ベトナム戦争中、ソンミ村虐殺事件を報じてアメリカの隠蔽体質を暴いた伝説的なジャーナリストであるシーモア・ハーシュが今年2月に彼自身のブログで「いかにしてアメリカはノルドストリームパイプラインを破壊したか」(※1)と題する記事を公開した。ノルドストリームの爆破は2021年から計画されており、ロシアに代わる天然ガス供給源となることで利益を得るアメリカとノルウェーの共同作戦だったという内容だが、単一の匿名情報源による曝露とされるもので信憑性が無く、矛盾点も多く指摘されている(※2)。
私自身はロシアの自作自演だと考えている。なぜなら、結果的に利益を得ているアメリカ(ロシアがウクライナに侵攻すればノルドストリーム2を「終わらせる」と発言したバイデン)の策謀であるように演出すれば、対NATO戦争というプロパガンダを強めることができるし、なによりもロシアにはパイプライン爆破の前科があるからだ。
今世紀のヨーロッパにおける最初の戦争は現在進行中のウクライナ戦争ではなく2008年のグルジア戦争だった。8月戦争、5日間戦争とも呼ばれるほど短期間で停戦したが、これは紛れもなく戦争であり、ロシアによるグルジアへの侵攻である。この侵攻が始まる2年前にロシアからグルジアへの天然ガスパイプラインが爆破され、グルジアのインフラが麻痺した。NATOに加盟しようとしていたグルジアへの警告だったと見られている(※3)。
統計グラフを見れば明らかなように、ロシアが2008年、2014年、2022年と数年おきに近隣の旧ソ連構成国へ侵攻する度、プーチンの支持率は急激に上昇した(※4)。このデータが意味するのはロシア国民の汎スラブ帝国主義的性格だろう。モスクワ在住の反体制派タタール人カミル・ガレエフによれば多民族国家ロシアは非植民地化されなかったヨーロッパ最後の植民地帝国であり、植民地支配を受ける少数民族が、マジョリティのスラブ系白人よりも優先的に戦争へ動員されているという(※5)。
このように民族浄化を推進し、家庭内暴力さえ合法化する国(※6)に併合されることが何を意味するのか、ウクライナ人にはよく分かっている。だから彼らにとって領土の妥協はあり得ない選択で、たとえ核兵器が使われようとも、百年前のアナキスト、ネストル・マフノが率いたウクライナ革命反乱軍のように最後まで抵抗するつもりだろう。ウクライナの数千万人を遺棄して得られる「平和」か、ウクライナ敗北を防ぐためのNATO軍介入=第三次世界大戦か、どちらを選ぶのが倫理的なのだろうか。
これは実質的な植民地である沖縄と天皇制の関係を考えたとき、他人事では済まされない。ソ連はロシア帝国を滅ぼせなかったし、ソ連が崩壊しきれていないのと同じように、大日本帝国もまた『顔のないヒトラーたち』として生きのびている。そしてこの状況はフランクフルト・アウシュビッツ裁判のようには自国の過去を精算できていないことに起因する。
昭和は敗戦と同時に終わるべきだった。元号そのものを廃止するべきだった。天皇は数千万人を殺した罪を償うべきだった。だがそうはならなかった。極東のヒトラーたちは自殺どころか失脚すらせず、昨日の敵に掌返しで服従し、象徴天皇制という似非カルトを護持している。
憂国の戦中派青年たちはそういった戦後を否認しただろう。その怨念は時として『英霊の聲』の台詞「などてすめろぎは人間となりたまひし」のように現れる。三島由紀夫と同じく旧仮名遣い旧字体表記という文化闘争を生涯続けた塚本邦雄は海外旅行を好んだが、彼がその目で茸雲を見た原爆を落としたアメリカに足を踏み入れようとはしなかった。そして高柳重信は、前回の記事(※7)で論じたように、彼の多行形式俳句の出発点において天皇を処刑した。
彼らの文学に共通する命題は、戦前の超克と戦後の否定だと言えるだろう。高柳重信の多行形式が天皇処刑の句から始まったのはある意味で必然だった。前回も述べたように「虹の絶巓/処刑台」句は東京裁判の最中に発表されている。法学部出身の高柳重信が裁判を注視しなかったはずはない。そして恐らく「処刑台」という語彙が詩句の中で使われたのは短歌にしろ俳句にしろほとんど初めてのことだったのではないか。処刑される対象として念頭に置かれているのは、今まさに裁かれている戦犯や天皇だったと考えても不自然ではない。
彼が処刑したのは天皇だけではなく、天皇の権威のもとに受け継がれてきた伝統文学そのものだった。歌会始の中継を見れば分かるように、和歌というものは詠まれること即ち発声を前提にしている。これは俳句でも同じことで、一行の俳句は朗読できる。だが単なる行分けではない多行形式俳句ならばどうか。「虹の絶巓/処刑台」の句を音読で表現しようとしても不可能だろう。和歌から俳句へと連なる伝統文学の中で、多行形式俳句とは、詠まれることを拒絶した最初の異端者である。
高柳重信はなぜ多行形式を選んだのか。多行形式で俳句を書くということは、戦前でも戦後でもない、ここではないどこか(anywhere out of the world)、即ち超現実へと至る手段、天皇制を内部から侵食するためのサイレントストライキ、「行為によるプロパガンダ」なのではないか。「シュルレアリスムがはじめてはっきりと自分のすがたを見いだしたのは、アナキズムの黒い鏡のなか」だったとブルトンが書くように(※8)、高柳重信はかつて自らが信奉した天皇を処刑することではじめて、多行形式という超現実の道、彼が言うところの「黒弥撒」に参入することができたのかもしれない。
※1
How America Took Out The Nord Stream Pipeline
※2
Blowing Holes in Seymour Hersh's Pipe Dream
※3
Timeline of Putin's approval and aggression abroad
※4
Putin's approval rating soars since he sent troops into Ukraine, state pollster reports
※5
Kamil on Nukes and Civil War in Russia
※6
ロシアで「平手打ち法」成立か、家庭内暴力容認の流れに懸念
※7
俳句時評159回 多行俳句時評(5) 多行形式試論(3)──アクティビズム、ナショナリズム、マゾヒズム
※8
手製銃から超現実へ アナキズムとシュルレアリスムから考える現在
私自身はロシアの自作自演だと考えている。なぜなら、結果的に利益を得ているアメリカ(ロシアがウクライナに侵攻すればノルドストリーム2を「終わらせる」と発言したバイデン)の策謀であるように演出すれば、対NATO戦争というプロパガンダを強めることができるし、なによりもロシアにはパイプライン爆破の前科があるからだ。
今世紀のヨーロッパにおける最初の戦争は現在進行中のウクライナ戦争ではなく2008年のグルジア戦争だった。8月戦争、5日間戦争とも呼ばれるほど短期間で停戦したが、これは紛れもなく戦争であり、ロシアによるグルジアへの侵攻である。この侵攻が始まる2年前にロシアからグルジアへの天然ガスパイプラインが爆破され、グルジアのインフラが麻痺した。NATOに加盟しようとしていたグルジアへの警告だったと見られている(※3)。
統計グラフを見れば明らかなように、ロシアが2008年、2014年、2022年と数年おきに近隣の旧ソ連構成国へ侵攻する度、プーチンの支持率は急激に上昇した(※4)。このデータが意味するのはロシア国民の汎スラブ帝国主義的性格だろう。モスクワ在住の反体制派タタール人カミル・ガレエフによれば多民族国家ロシアは非植民地化されなかったヨーロッパ最後の植民地帝国であり、植民地支配を受ける少数民族が、マジョリティのスラブ系白人よりも優先的に戦争へ動員されているという(※5)。
このように民族浄化を推進し、家庭内暴力さえ合法化する国(※6)に併合されることが何を意味するのか、ウクライナ人にはよく分かっている。だから彼らにとって領土の妥協はあり得ない選択で、たとえ核兵器が使われようとも、百年前のアナキスト、ネストル・マフノが率いたウクライナ革命反乱軍のように最後まで抵抗するつもりだろう。ウクライナの数千万人を遺棄して得られる「平和」か、ウクライナ敗北を防ぐためのNATO軍介入=第三次世界大戦か、どちらを選ぶのが倫理的なのだろうか。
これは実質的な植民地である沖縄と天皇制の関係を考えたとき、他人事では済まされない。ソ連はロシア帝国を滅ぼせなかったし、ソ連が崩壊しきれていないのと同じように、大日本帝国もまた『顔のないヒトラーたち』として生きのびている。そしてこの状況はフランクフルト・アウシュビッツ裁判のようには自国の過去を精算できていないことに起因する。
昭和は敗戦と同時に終わるべきだった。元号そのものを廃止するべきだった。天皇は数千万人を殺した罪を償うべきだった。だがそうはならなかった。極東のヒトラーたちは自殺どころか失脚すらせず、昨日の敵に掌返しで服従し、象徴天皇制という似非カルトを護持している。
憂国の戦中派青年たちはそういった戦後を否認しただろう。その怨念は時として『英霊の聲』の台詞「などてすめろぎは人間となりたまひし」のように現れる。三島由紀夫と同じく旧仮名遣い旧字体表記という文化闘争を生涯続けた塚本邦雄は海外旅行を好んだが、彼がその目で茸雲を見た原爆を落としたアメリカに足を踏み入れようとはしなかった。そして高柳重信は、前回の記事(※7)で論じたように、彼の多行形式俳句の出発点において天皇を処刑した。
彼らの文学に共通する命題は、戦前の超克と戦後の否定だと言えるだろう。高柳重信の多行形式が天皇処刑の句から始まったのはある意味で必然だった。前回も述べたように「虹の絶巓/処刑台」句は東京裁判の最中に発表されている。法学部出身の高柳重信が裁判を注視しなかったはずはない。そして恐らく「処刑台」という語彙が詩句の中で使われたのは短歌にしろ俳句にしろほとんど初めてのことだったのではないか。処刑される対象として念頭に置かれているのは、今まさに裁かれている戦犯や天皇だったと考えても不自然ではない。
彼が処刑したのは天皇だけではなく、天皇の権威のもとに受け継がれてきた伝統文学そのものだった。歌会始の中継を見れば分かるように、和歌というものは詠まれること即ち発声を前提にしている。これは俳句でも同じことで、一行の俳句は朗読できる。だが単なる行分けではない多行形式俳句ならばどうか。「虹の絶巓/処刑台」の句を音読で表現しようとしても不可能だろう。和歌から俳句へと連なる伝統文学の中で、多行形式俳句とは、詠まれることを拒絶した最初の異端者である。
高柳重信はなぜ多行形式を選んだのか。多行形式で俳句を書くということは、戦前でも戦後でもない、ここではないどこか(anywhere out of the world)、即ち超現実へと至る手段、天皇制を内部から侵食するためのサイレントストライキ、「行為によるプロパガンダ」なのではないか。「シュルレアリスムがはじめてはっきりと自分のすがたを見いだしたのは、アナキズムの黒い鏡のなか」だったとブルトンが書くように(※8)、高柳重信はかつて自らが信奉した天皇を処刑することではじめて、多行形式という超現実の道、彼が言うところの「黒弥撒」に参入することができたのかもしれない。
※1
How America Took Out The Nord Stream Pipeline
※2
Blowing Holes in Seymour Hersh's Pipe Dream
※3
Timeline of Putin's approval and aggression abroad
※4
Putin's approval rating soars since he sent troops into Ukraine, state pollster reports
※5
Kamil on Nukes and Civil War in Russia
※6
ロシアで「平手打ち法」成立か、家庭内暴力容認の流れに懸念
※7
俳句時評159回 多行俳句時評(5) 多行形式試論(3)──アクティビズム、ナショナリズム、マゾヒズム
※8
手製銃から超現実へ アナキズムとシュルレアリスムから考える現在