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「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評197回(自由律俳句時評第1回) 百年の刻を超えて 藤田 踏青(「豈」「きやらぼく」同人)

2025年05月09日 | 日記

 今年は昭和百年にあたるそうである。そして、自由律俳人・尾崎放哉の第百回忌にもあたる年でもある。放哉は大正十五(一九二六)年四月七日に小豆島で四十二歳で瞑目している。
 放哉を慕う人々により、本年令和七年四月七日に香川県小豆島の西光寺において、その百回忌の法要がいとなまれた。
 放哉は大正十四年八月二十日に西光寺の奥の院・南郷庵みなんごうあんに入庵したので、その縁で該寺にて法要がなされたのであろう。私もその百回忌に参列したのであるが、厳かな法要に続いて、御詠歌が朗唱された。それは「あけくれに 頼むこゝろの 深ければ いかで照らさん みなんごの月」というもので、小豆島の四十八カ所巡りが有名であることが御詠歌にも連なっている。
 法要の後は、近くにある放哉の墓参と尾崎放哉記念館の見学であった。

 放哉の南郷庵の滞在は約八ヶ月弱にすぎないが、その間に約二千七百句の俳句を作ったとある。そして、その短い期間に多くの代表句となる作品が作られたのである。

漬物石になりすまし墓のかけである
足のうら洗へば白くなる
入れものが無い両手で受ける
咳をしても一人
くるりと剃つてしまった寒ン空
月夜の葦が折れとる
墓のうらに廻る
あすは元日が来る仏と私
肉がやせてくる太い骨である
春の山のうしろから烟が出だした(絶句)

 放哉の俳句は、己の肉体を「モノ化」「無機質化」した見方が多く、自分の存在を、肉体という物質として表現している。
 放哉の友人であった住田無相は「彼は身体ごとのニヒリストであった。……彼は自分も他人もただ生きている物質としてのみ、眺めていただけであった。」と述懐しており、そこに放哉自身の生きている、実体というものの脆弱な不安定さ、はかなさを見つめていたのである。
 「墓のうらに廻る」においての、墓の「うしろ」ではなく、「うら」であることが示すものは何か。一人称の主体でありながら、墓と一体化したように、作者は風景化している。つまり、「墓のうら」には作者自身の意識が入り込んでいるのである。

 柄谷行人によると「主観(主体)・客観(客体)という認識論的な場は、〈風景〉において成立したのである。つまりはじめからあるのではなく、〈風景〉のなかで派生してきたのだ。」(『日本近代文学の起源』昭和六十三(一九八八)年)とある。しかし放哉の場合はそれ以前に遡行しようとしている。……たった九音の短律の俳句世界がもたらすものは、一句一律・体律として大きく脈打っているのである。
 それは同じ九音の「咳をしても一人」にも通底している。「セキヲ・シテモ・ヒトリ」と「3・3・3」と呟くように自己を客体化、沈潜化している。しかしそこには「社会化した私」というものは存在せず、「」と「一人」が一体化した存在となっている。

 また、「歩く山頭火、座る放哉」とよく比較されて言われているが、「座る」は静的な状態を示す「居る」に通じるものがある。
 宇多喜代子は〈何かが確かに「居る」という把握を、「をる」と書くか、「ゐる」と書くか(または読むか)は、公式的には何ほどの事でもないが、私にとっては「をる」とは、まさしくリアリズムであり、卑俗性であり、触れて納得する確認であって、嫋々とした生理や、触れずに写そうとする美意識からは生まれぬ表現であろう。〉と「居る」が導き出すリアリズムを認識している。
 放哉のつぎのような句にもそれらが表出されている。
 
釘箱の釘がみんな曲って居る
すばらしい乳房だ蚊が居る
壁の新聞の女はいつも泣いて居る
畳を歩く雀の足音を知って居る

 現代では「居る」とは意識的な表明であり、「ある」という無意識的な存在感とは区別されているように思われる。

 尾崎放哉に因んで毎年「尾崎放哉大賞」(「青穂」主催)の募集が行われている。参考に、最近の大賞句をみてみよう。

1回(平成三十(二〇一八)年)月の匂いの石に坐る       藤田踏青
2回(令和元年)       ひまわり咲いて疎遠の鍵を外す  増田眞寿子
3回(令和二年)       ネギ切る音がまっすぐな雨になる 井上和子
4回(令和三年)       だんだん空が大きくなる坂を上る 遠藤多満
5回(令和四年)       蝉時雨浴びて秘密基地の入り口  大川久美子
6回(令和五年)       母の内にあるダムの静けさ    田中 佳
7回(令和六年)       月を青くして誰もいないふる里  いまきいれ尚夫
8回(令和七年)       生家の栗の木は貉に任せてある  信 典

 私の作品も含まれているが、全体的に古色蒼然とした世界である。自戒を込めて言うが、迫ってくるような、ヒリヒリとした感覚や、眩いばかりの昂揚感に乏しい。これは放哉賞という俳句世界への意識からきているものなのか、はたまた選者の俳句観によるものなのかは判然としないが、まだ見ぬ俳句の世界からは程遠いものであるのは確かである。ここに現代自由律俳句の停滞が認められる。

 現代俳句協会が自由律俳句をその範疇に認めているとは言え、自由律俳句界自体での横断的な組織はかつて無かった。そうした中で、全国的に、自由律の各結社、同人誌、個人が、互いの立場を認めつつ、それぞれの作品の発表、比較、検討および懇親の場として、平成二十三(二〇一一)年五月に「自由律句のひろば」が設立され、各地での全国大会開催や機関誌発行など、暫く活動を続けていたが、自由律俳句の概念の相違か、寄り合い所帯の哀しさか、その後なかなか後継者が決らず、平成二十九(二〇一七)年三月に会は解散した。
 しかしそれを惜しんだ人達によって平成三十年三月に「自由律俳句協会」が設立され、会の運営も順調に進み、今日に至っている。
 自由律、口語、一行詩を標榜している結社、同人誌、グループは、平成には約五十誌ほどあったが、現在は三十八誌程度に減っている。これは現俳壇全体にも共通する会員の老齢化が主要因である。
 その「自由律俳句協会」によって令和六年に「第1回自由律大賞」が開催された。

大賞  老いた農夫が地球を抉っている             砂 狐
準大賞 後戻りできない舞台に立っている            童家まさゆき

 これらの作品も先の尾崎放哉大賞の作品同様、残念ながら古い感覚の意識の基に立っていると言えようか。

 なお、先の尾崎放哉大賞とともに毎年、「放哉ジュニア賞」が設けられており、その受賞作品が百回忌の法要後に発表、表彰された。

優秀賞  しおけがするな                   土庄小二年
     羊の上で 私は 寝る                土庄小四年
     花を ぬいでる とちゅう              豊島小二年
     ねたら明日                     修立小三年
 
 短律傾向が多いが、それは多分に放哉の俳句の影響があろう。しかしここには新しい感覚の芽生えも認められる。
 また最近の俳句甲子園でも自由律俳句が認められ、優秀句に選出されていることも新しい傾向を示していると言えよう。
  
 百年の刻を超えて、また新しい自由律俳句の世界を垣間見ることが出来るかもしれない。
 短詩型の世界は広い


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