「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 俳句。3 小峰慎也

2015年09月24日 | 日記
 久保田万太郎は、俳句の入門書などを書いていないのだろうか。軽く調べてみたかぎり、どうもそういうのはなさそうだ。本人は、ずっと、俳句を「余技」だといい続けていたらしい。
 いわゆる俳人じゃない人が書いた、俳句入門書のようなものはないのか。というか、俳人ではない、俳句を作る人というのも、ほとんど語義矛盾のようなことになりそうだが、一定の範囲、そういう人が拾い出せそうな気がするところが、俳句の面白いところかもしれない。
 ほかのジャンルで活躍していて、俳句を作るだけでなく、句集も出しているという人として、たとえば、清水哲男、土屋耕一、川上弘美、長嶋有などがいま思いつく。あとは落語家とかに多いような気がする。
 岸田今日子に俳句エッセイ的な本があると知り(『あの季この季』)、少し読んでみたが、やはり俳句の作り方のコツみたいなのは書いていないようだ。やっぱり、俳人以外の人は、あまりそういうことは書かないものなのか、どうしよう。

 かいぶつ句会の本、『日本語あそび「俳句の一撃」』(講談社、2003)というのがあった。かいぶつ句会というのは、聞いたことがある。たしか詩人の八木忠栄が入っていた句会だ。目次を見ると、「俳句の考え方・作り方集」という章があって、各人が何かそれらしいのを書いているようであった。サエキ子覗けんぞうや千葉麗子(千ゑり)、山口椿ほかの名前も見え、いまここで書こうとしているテーマに適切であると思った。が、読んでみると、マニュアル的に書きかたとかコツを書いている人はほとんどおらず、また当てが外れてしまった。
 一応、その中の一人、榎本バソン了壱が、「俳句ストーリー」という作句法を書いている。自作解説の代わりに、「ストーリー」(短い小説的な、筋書きのようなもの)を書いてしまい、そこから俳句を作る。発表のかたちとしては、俳句→ストーリーという順番で提示。ストーリーを考えてから俳句を作るというのは、一応、方法として取り出せそうだ。それも、おぼろげにストーリーを想定するのではなく、テキストとして書いてしまい、それも同時に発表する。ただ、そこまで行くと、読むのがうっとうしい気もする。榎本バソン了壱の場合、一つのストーリーで、俳句を複数作、作っている。それなら、効率としては悪くはない。

  帰りにはろばで行こうよ足四つ
  地獄には充分すぎる小窓かな
  剣玉やこの市内には指10本
 
   8月分の国民年金をまだ支払っていない。昼すぎ、高島が来て、自分の足で、「今年、海行くんか」といっていた。
  「海もいいな」
  「けど今年の海はどうかな」
  「海は海だろ」
  「そうかもしれんけど」
   高島は帰って、エルミで野菜を見たり見なかったりしたらしい。
   次の日、また高島が来ていた。テレビを見て、そこに映っている番組を見ていた。常に一部しか見えないので、何が行なわ
  れているかわからなかった。
  「なにみてんの」
  「うん」
   高島田は
  「トイレ」
  といって、たぶんトイレのあるほうへ行った。
   高島田は、高校のころから、トイレには行っていたらしい。叔母の影響ということもきいた気がする。彼の叔母は、大学を
  業すると不動産会社に就職したが、すぐにやめ、書くことがないから書いておくが、剣玉をやらせると市内で10本の指に入
  るらしい。
   高島田が、ろばに乗って戻ってきた。なにかずいぶんもうけたような様子で、右の頬に「金」という刺青を彫り、ポケット
  から札束がはみ出している。どこの国の札だかはわからない。
  「おまえ、テレビ終わっちゃったぞ」
  「まあいいよ。ほとんど見てなかったから」
   その間にも、ろばは暴れていた。
   勉強すればするほど、虹が出る。

 ストーリーを作るのが面倒くさいが、それを作ってしまうと、俳句のほうは作りやすくなる、ということはあるかもしれない。ただ、ストーリーも創作物の一部として提出するのは、どうなのか。よほど突出したストーリーでないと、句に対して蛇足になる。ただ、こうもいえる。ストーリーをはじめから出さないつもりで書いていると、(ストーリーが)愚にもつかないものになりすぎる可能性が高い。発表の緊張感は必要かもしれない。

 ところで、素人(と仮に書くが)が俳句を作ったとき、俳人が作った場合と比べて、何か優位になる点はあるのだろうか。いや、優劣はおいて、何か違いはあるのだろうか。
 抽象的に考えれば、プロが意を注いでいるようなことを大胆に無視することができる、というイメージがわく。まあ、俳句に限らず、一般に素人の優位性をいう場合に用いられる、パターン化された素人のイメージである。
 しかし、そのような「素人」はむしろ特殊であり、普通は、前回前々回で取り上げた藤田湘子が書いていたような、いかにも陥りがちな「ダメ」にはまるものだろう、ということも想像がつく。
 入門書をチェックする、という、この連載から外れてしまいそうだが、素人の書いた「入門書」がいまのところ見当たらない以上、とりあえず、素人(ここでは、他のジャンルで創作活動をしているような人を念頭においている。なんだかこの説明が苦しいような気もしてきたのだけど)の作品から、「技法」を取り出してみようかといま思った。あるいは、違うことになるかもしれないが。



 塚本邦雄が編んだ俳句のアンソロジーといえる、『百句燦燦――現代俳諧頌』(1974)の、火渡周平の項で、「初、中、座の各句を別別に数多用意してアトランダムに組合せ、偶然の出会で一句を成立させるとみづから放言したとかいふ逸話」ということが書いてあった(引用に際して、漢字を現行のものに改めた)。これを試してみることにする。
 この方法は、たしか先日、NHKラジオ第一の俳句の番組でもやられていた(つぶやきシローや佐藤文香とかが出ている番組)。その番組内では、たしか、テーマ的なものが決まっていたと思う。それでも普通、一句の流れを考えないで、ばらばらに作った初、中、座を偶然組み合わせただけではただの意味不明になることも多かった。
 紙を30枚用意し、初、中、座をそれぞれ10個ずつ作り、裏返して、組み合わせてみよう。

 まず、初五を10個。

  ただたんに
  ほんとうの
  構造や
  窓あけて
  鳩吹くや
  むきだし屋
  虫送り
  抱きかかえ
  五十年
  蛇丸く

 正直、初五だけ10個なんて、どういうポイントで作ればいいかわからなかった。この五音だけで何か面白くする必要があるのかどうか。なんでも五音ならいいのかどうか。以下の中七、座五も同じである。七音はまだいいが、五音だけというのは、工夫の余地があるのか。これも何回かやらないとわからないことなのかもしれない。

 中七。

  楽な仕事で
  山ははじまる
  生まれているか
  犬乱れたり
  長いもの見た
  比べれば庭
  海高まるや
  雨・岩・府中
  板にのせたる
  道をくらべて

 座五。

  背を掻きぬ
  馬の足
  丘の上
  骨白し
  あんこかな
  鳳仙花
  例の人
  鴉かな
  占める秋
  出て群れる

 ここからは機械的に、裏返して組み合わせ、3句作ろう。

  抱きかかえ犬乱れたり丘の上
  窓あけて雨・岩・府中占める秋
  構造や比べれば庭骨白し

 2句目はつながりすぎて、駄である。この方式だと、やっぱりつながているかいないか微妙なところに落ちたときに思わぬものができるのかもしれない。使わなかったものは捨てます。



 寺山修司『寺山修司の俳句入門』(光文社文庫、2006)は、寺山修司の俳句に関する評論(および俳句)を集成したもので、俳句の作り方の入門書ではなかった。
 が、前衛俳句を、二様に分けて、挙げているのを見つけた(「前衛俳句批判」、『俳句』1958年3月)。

 その1。「意識世界のオートマチックな記述を、視覚を通してこころみたもの。

例)  暮れようとして焼芋の壷が深い 林田紀音夫
    呼吸する船腹過剰にだぶつく沖 大中青塔子
    腕時計群がり脹れ運河覚め 立岩利夫

 その2。「イメージを構成して一つの思考を形象化したもの

例)  ちびた鐘のまわり跳ねては骨となる魚 赤尾兜子
    えっえっ泣く木のテーブルに生えた乳房 島津亮
    固い産卵 黒革の辞書敵として (堀?本文中には記載なし)葦男

 補足的に引用すると、1のほうは、(ミシェル・ビュトールを引用した上で)「細分化された時間、日常の時間の一つずつを拡大化してオートマチックに記述していくとき、それの鏡となるのは意識である。」。意識にうつりゆくものを自動的に書いていく、ということらしい。これは、散文作品のほうでわりによくきく方法だと思える。「これは単に小説の方法の問題ではなく、生きている僕たちの日常の一面であり、この目が本来俳句のものに非常に近いことは疑う余地をもたない。」ということだ。
 2のほうがわかりづらい。一つのイメージを作って、そこにある一定の思いなり考えなりをこめるというようなことか。「この方法にあっては、読む側の脳裡にその映像がうつらないかぎり伝達は不能であり、更にイメージが読者のなかで抵抗作用を起して彼を変革することは一そう難しくなる。」とある。この方法の場合、イメージがはっきりしていなくては伝わらないというのは一応了解するとして、そのあとの読者のなかで抵抗作用を起して彼を変革するのがむずかしいといういいかたはどうもちょっとよくわからない。イメージに「思考」がこめられているという作りになっているために、その「思考」が問題ならざるをえないのに、どうにも、その段階にいたるのが困難、ということなのか。というより、ある思いのようなものが、鮮明なイメージを借りて示されているとして、その思いが通じるためには、読者のなかでの引っかかりを伴う必要があるのに、そうなるのがむずかしいということだろうか。いずれにしろ、作用が起こるためには、二段階を突破しなければならない、要するに、読者に届くには、ひねりすぎのつくりになっているということなのだろう。ここまででよかったのに、ひねりすぎて効果が消しあってしまうのだ。

 これらは、寺山修司も書いているとおり、前衛俳句が採用している方法ではなく、作品から寺山が導き出した手法である。寺山の議論は、とりあえず置いておいて、この二つの方法を、「技法」として試してみたい。

 2から行く。というのも、こちらのほうは、「技法」として使えるほどはっきりしてないように思え、不安だから先に解決しておきたいのだ。映像として読者に通じるものを考えるのはいいとしても、それが思考の産物でなければいけない。思考があって、それを示すために、鮮明なイメージを作る。

  さっきからあのおじさんは動いていない

 イメージが鮮烈でもないし、思考はどこにある。それに、自由律のようになってしまった。前衛俳句は、五七五も崩すみたいなので、考えることが多くなりすぎる。もう少し。

  わたしは脳がない 川であそぶ
  水が大好き飲むのも好き
  積極的な蜻蛉がやりすぎた
  石鹸に釘が刺さっている
  クリップどめの顔で散歩
  
 まったくうまくいかないので、この方法は、とりあえず記憶に少しとどめておいて、何かの折に思い出そう。

 1のほう。

  運動会の練習のなぎおばさんの声が通りすぎ

 「なぎ」がわかりづらい。運動会の練習と練習の間の静かな時間ということだが、ほかのことばが思いつかなかった。

  まだ使うかもしれないティッシュ返事がきこえる
  逆方向からおばさんの声「ぴっ」とかぶる
  おばさんではなかったかもしれないたぶん水は止めた

 面白いかどうかはともかくとして(まあ面白くないだろう)、1のほうの、意識の記述は「技法」にはなるのかもしれない。五七五をほとんど無視したかたちで思いついたこと(上記の場合は、見たり聞いたりしたことになっているが)を書いていくだけなら、けっこうできそうだ。いっぱいつくって、選べばいい、と単純ではないかもしれないが。

俳句評 俳句を見ました(4) 鈴木一平

2015年09月03日 | 日記
 これまでは俳句を読む経験をとおして得られた認識についての報告が中心でしたが、今回はすこし話を変えて、そうした認識が可能になるためには、鑑賞経験においてなにが必用とされているのかについて、考えてみたいとおもいます。俳句を読んでいてつよく感じるのは、制作者の存在を先取りしながら光景を仮構する手続きといいますか、私がその作品を読んで得た情景が可能だった場に、制作者がかつていたということ、そした、この作品を制作したという約束事のようなものが、俳句を読む際にはつよく意識されるのですが、こうした認識はいわば、私を作品に代入させて読むような感覚であるような気がします。

下坂速穂(「クンツァイト」「屋根」)
日本中いづこも朝や水を打つ
http://haiku-new-space-haikucho.blogspot.jp/2015_07_01_archive.html?m=1

 当たり前のようではありますが、「日本中いづこも朝」であるという認識は、朝という時間に付帯する性質が適用される領域を、「日本」に重ね合わせることで可能になります。こうした認識にまつわる同期の操作は、「日本」という語の使用においてなかなか避けがたいものですが、面白いのは、「いづこも」という語にはどこか帰納的なニュアンス、つまり計算過程があって、その時間が認識を裏打ちしているように感じるところです。「日本中すべてが朝である」とも「日本の朝」ともならない、漠然と日本中がたったいま朝であると考えるのではない、奇妙な手つきが、この作品には潜んでいる。それは「水を打つ」という動作と結び付くのではないかと考えられます。つまり、日本中の朝である場所を数え上げ、そこに水を打っていく像が、この作品から引き出される。ともすれば、「日本」のもつ包括的な大きさに対して、この作品に代入される「私」が生活の細部に身を落としてみるしかない対比の構図を繰り上げるようなイメージが、静かな朝の情景の上でふいに結ばれる。「日本」という語に飲み込まれないスケール感をこの作品は保持しているといえるのではないでしょうか。こうしたイメージの展開は幻想的なもの、想像のものというよりかは、短詩に区分されるジャンルにおいて不可欠なものだとおもいます。俳句を読むという経験のなかで、個々の単語が形式を土台にほとんど無根拠に並列されかねないなかで、にも関わらず一定の情景が結ばれるとき、そこには断絶を含む語のユニット間の連携に自己を代入して、想起の可能な空間を生起させる読み手が要請されます。そもそも、バラバラに入力される感覚を統合し、統合の結果として自身の生きる生活空間を成立させることが、私たちの生きるという行為にほかならないわけですが、複数の無関係な知覚をまとめあげて一定の光景を立ち上がらせてみること、もしくは与えられた光景からなんらかの情動を引き出すことは、イメージの自走といってもいいような状況と、ほとんど同一の条件において果たされるのではないかとおもいます。

依光正樹 (「クンツァイト」主宰・「屋根」)
水吸つてゆく土を見て日の盛り
http://haiku-new-space-haikucho.blogspot.jp/2015/07/blog-post_31.html?m=1

 先ほどの作品は水を打つという動作に対する注目が要点になっていましたが、こちらは打たれたあとの水に対する注視についての作品です。「水を吸っていく土」を「見て」、「日の盛り」を感じるという構図には、先ほどの作品と似通った静謐さがありますが、「水吸つてゆく土を見て」と「日の盛り」の関係は、そこに書き手を先取りするような私の代入を許す無関係な並置の論理と、代入の結果として喚起される情動ないしは情景があるようにおもえます。その並置と代入によって成立されるのは、土が水を吸っていく様態を見ることにおいて費やされる時間、つまり土が水を吸っていく時間に付き合う目の労働の感覚です。そして、その労働と連動するものとして「日の盛り」が選ばれているわけですが、順接によって結ばれるこの「日の盛り」という語には、単なる「日の盛り」には回収しがたい情動が引き出されるような気がします。端的に、それはうだるような暑さの感覚であると述べてみたいとおもいますが、その感覚を与えるのは、これらの語をひとつの同居する空間に位置するものとして享受する私の存在が、まさしく水を吸っていく土を見るという労働において経過する時間を想起することに伴う、言葉の字義通りの意味から逸脱するイメージの展開であるといえるでしょう。
 ここで、先ほど述べた「私の代入」について、もうすこし考えてみたいとおもいます。私を用いて「この作品を書いた」現実の視点を先取りし、想起可能なものとしてみなし、同時に、語と語の断絶を含んだ関係になんらかの意味を取り出す操作とは、言語がその部分に含まれる記号の秩序における「意味するもの」と「意味されるもの」の対には回収されない新たな秩序を、作品内に導入・発見する手続きであるといえます。言語芸術はほとんど字義通りに言葉を提示することができず、常にそれ自体から逸脱する意味を生み出してしまうものですが、その理由として挙げられるのは、作品があかじめ意味の確定されない領域、その意味作用の完了が決して約束されない領域として、まさしく私たちの目の前に与えられており、一方で、私たちはその作品に向かってなんらかの価値を仮に想定しながら、その価値を取り出すべく作品の内部を探索をしなければならないからです。私たちは作品にとってあらかじめ約束されたかたちで想定することのできない外部であるため、こうした水準は作品の内部でありつつ外部に位置しています。いわば、使い方のわからない道具とふれあうなかで、「この道具には使い道がある」という確信に支えられながら、あたらしい使い道を発見するような過程が、芸術が芸術であるための条件としてあるのではないでしょうか。

近恵
桜降るときどき追いついてしまう
http://haiku-new-space-haikucho.blogspot.jp/2015/07/blog-post.html?m=1

 先ほどの作品で取り扱った「暑さ」は、見るという行為においてしばしば忘れられがちな体の存在によって与えられたものですが、この作品も、そうした生きられる体を備えた私の存在を意識させます(以前も桜を通して「見る」という行為について考えたような気がします)。桜が降るという情景は、それが画像において享受される限りでは、桜と私のあいだに侵すことのできない隔たりがあり、だからこそ、桜を見るという行為が可能であるわけです。つまり、見られる桜の景色には、それを見る私の不在が前提になっている。しかし、私がいなければ私は桜を見ることはできないわけで、その意味で見られる桜のなかには私が埋め込まれているともいえます(それは私という存在を巡る抽象的な議論であると同時に、私の桜を見る視線に固有な視角という、即物的なものでもあります)。そうした、桜を見る過程においてネガのように見いだされる私が、地面に落ちる途中の桜に追いつくというかたちで視野にあらわれるという構図の発見が、この作品の主題になっている。そして、追いつくという行為にはそれ以前と以後とを分ける時間がすくなくとも想定されるわけですから、「桜降る」と「ときどき追いついてしまう」のあいだの断絶には、ふたつの両立しない状態をまとめあげる時間が要請されることにもなります。俳句が形式と折り合いをつけながら表現をおこなうジャンルであるということを、この作品からはつよく感じました。