「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評 第108回 片山蓉第一句集『羊水の。』を読む 廣島 佑亮

2019年04月13日 | 日記

 片山蓉第一句集『羊水の。』(ふらんす堂)は平成三十年十二月の刊。序文は「円座」主宰武藤紀子氏、選句は「韻」同人小笠原靖和氏。著者略歴によれば、平成二十三年より俳句を始め、平成二十六年六月「中部日本俳句作家会」に入会、同年十月「円座」(武藤紀子主宰)、平成二十七年六月「韻」(後藤昌治代表)に参加した。平成二十九年、中部日本俳句作家賞を受賞した。俳句歴六年での受賞は異例のことだ。中部地区での彼女の活躍と期待のほどがうかがえる。
 私が「韻」に参加し始めたのが、平成二十九年二月だ。毎月の句会に同席し、彼女の句を初めて読む幸運に恵まれている。この句集には、私がいただいた句が少なからず掲載されている。それらを中心に読み進めていきたい。

 

第一章 うすうす

 句集の構成は四章立てて、第一章が春というように季節ごとになっている。句の配置は時系列ではなく、型やモチーフが連続しないように考慮されている。私が気になったのは、新年が一句もないことだ。片山蓉氏が参加した以降の「韻」誌、過去の句会報をすべて調べたが、やはり一句もなかった。興味深いところだ。


  かひやぐらボクを返してくれないか

かひやぐら」(蜃気楼のこと)という古風な季語から、下五の口語的表現まで一気に読ませる。「ボク」が片仮名であるため、男か女か、子供か大人なのかさえわからない。「返してくれないか」という懇願が、自分の実体の不確実さを感じさせる。生きていくことへの不安、人生の不透明感を見事に表現し、作者の苦悩が読み手の心の奥底に響く。作者の代表作。


  囀りや見るとはなしに非常口

囀り」に気づき、「見るとはな」く顔を向けると、「非常口」が目に入った。「囀り」と「非常口」の取り合わせの意外性。「見るとはなしに」の現実感。「非常口」は非日常への脱出、心の解放の象徴だ。平成三十年三月二十五日の韻句会に出句、七点の高得点を得た。参加者十二名のうち半数以上が選句したのだ。日常と非日常をたゆたうように詠む作風は、魔法のように魅惑的だ。


  風落ちて蝶の屍梱包す

風落ちて」という繊細な表現に心引かれ、「蝶の屍」を「梱包す」ることに驚かされる。「蝶の屍」が落ちるのではなく、「」が落ちるのが眼目だ。句会では「梱包す」を実景として読むかイメージとして読むかで意見がわかれた。「風落ちて」の詩的な導入によりこの句が写実を超越し、自然の摂理の残酷さを浮き彫りにしているものとして捉えたい。

 

第二章 ひたすら

 片山蓉氏は大学卒業後フリーライターとなり、その後食品関係の業界新聞社の記者になった。平成十六年に独立し、取材で知り合ったフードコーディネーターの中越美子氏とともにダイニング・バー「DUO(デュオ)」を名古屋の栄にオープンした。そして平成二十三年、俳人の中出智恵子氏と知り合い、彼女の俳句人生が始まる。


  みんな泣くので柩夏野におくか

 広い「夏野」に「」を置こうという、作者の心象表現がより悲しみを誘う。この句は平成二十九年四月二十二日の韻句会に出句され、原句は〈みんな泣くので柩花野におくか〉だった。私はいただかなかった。「」と「花野」が近いと感じたからだ。「」から「」に季を変えることで、感傷的な俗っぽさがなくなり、説得力が増した。見事な推敲だ。


  みおぼえのある虹みおぼえのない死

 すぐ消えてしまう「」に「みおぼえ」があり、やがて誰にも訪れる「」に「みおぼえ」がないという。破調を感じさせないリズムが素晴らしい。平成三十年六月二十四日の韻句会では、〈みおぼえのない虹みおぼえのない手〉だった。「」と「」の関係がわからず、作者の意図も不明瞭だ。「」を「」にかえ、さらに「ない虹」を「ある虹」とすることで、対比構造が明確になり、句が安定した。命のかなしみを感じ取ることができ、読み手の心を引き込んでいく。


  母から逃げた滝は空から逃げた

 芭蕉の時代から「」は夏の代表的季語で、名句が多く詠み尽くされた感がある。「空から逃げた」という措辞には舌を巻くしかない。作者のあくなき表現の追求に心底驚く。「」と「」の取り合わせも鮮烈だ。平成三十年四月二十二日の韻句会では、〈母から逃げる滝は空から逃げる〉だった。過去形にかえることで、様々な執着を断ち切り、一人の人間として独立したことを感じさせる。「逃げた」の繰り返しが、すさまじい孤独でありながら、それでも生き続けようとする強い意思を表している。

 

第三章 そろそろ

 パートナーの中越美子氏も俳句を始め(現在は円座同人)、さらに常連客からの要望で、初心者向けの俳句教室を店で開催するようになった。句会での得点句は短冊にしてトイレの壁に張り出してある。


  死ぬのなら芒をうまく折つてから

「死」はいつも身近にあるが、「芒をうまく折つ」たら死ぬ、そんな冗談のように軽く考えることで、平穏に暮らしている。「」は柔らかいために、折るのが難しい。ましてや「うまく」折るのはなおさらだ。だから死ねない、これからも生きていく。作者の謙虚で毅然とした人生観が読みとれる。


  十六夜や墓のひとつが見当たらぬ

 夜空の月から墓地へカメラがクローズアップしてゆく、映画のワンシーンのようだ。ひとつの墓ではなく「墓のひとつ」とすることで、広大な墓地に林立する墓石の間を作者が彷徨っているのを想像させる。十五夜が過ぎて「十六夜」になった淋しさと、大切な人の「」を見つけられない悲しさが響き合っている。


  くちづけを知らぬとはいへみの虫は

みの虫」は、姿や生態の面白さで俳諧的な雰囲気がある。だが本意は、はかなげに鳴いて父を乞う虫とされる。雄は蛾になるが、雌は一生袋から出ない。「くちづけを知らぬ」のも当然だ。「とはいへ」それでも「みの虫」は生きていかなければならない。散文的な表現でありながら、解釈を読み手に委ねている。読み手の「読み」が試される句といっていい。

 

第四章 ざらざら

 片山蓉氏の経営するダイニング・バー「DUO」は口コミで評判となり、毎週土曜日には句会終わりの俳人たちが集まる、名古屋でも有数の文壇バーとなった。私も月に一度は店に顔を出し、居合わせた常連の俳人たちと俳句談義で盛り上がる。


  しばらるる白菜笑ひ止まりません

 地面に生えた白菜の上の部分をひもなどで縛る「頭縛り」により、糖度が増しておいしくなる。「白菜」の「笑ひ」が「止ま」らないという比喩が大胆だ。句会では上五が文語、下五が口語の是非についてかなり議論になったが、この形でないと句の独特の面白さが表現できないという意見が大半を占めた。


  大霜野どこかで釘を抜く音が

」が降りた「」きな「」の「どこかで釘を抜く音が」するという。「釘を抜く」のは建物の解体のためだが、平和な日常の終焉、社会秩序の崩壊を暗示する。五感でとらえる現実の情景を自分の内面で再構築するのが、作者の手法の特徴だ。「大霜野」が作者の淋しさ、孤独感を鮮明にする。


  枯野の終点わが影を鋲でとむ

 荒涼とした「枯野の終点」に「わが影を鋲でとむ」のは、誰もが何かしら不自由であり、生きてゆくことの困難さを抱えていることを示唆する。平成三十年一月二十八日の韻句会では〈わが影を鋲で止む枯野の終点〉で、三点を獲得した。作者はそこで満足せず、推敲を続けた。上下を入れ替えただけであるが、原句に比べ格の大きい芸術世界を展開している。一句にかける作者の執念は、俳句を通して命そのものに向かっている。

 

私はいったい何を求めているの? 私の句はどこへ行こうとしているの?」とあとがきにある。これは彼女だけではなく、総ての俳人が抱える問題である。ある意味、生きていくことを立証するための苦悩といっていいだろう。彼女が今後どのような方向へ進むにせよ、常に我々の一歩前を歩み続けるに違いない。
 最後に、推敲前の原句掲載を快く許可くださった片山蓉氏に感謝申し上げます。

 

廣島佑亮(ひろしま・ゆうすけ)
『韻』同人。東海地区現代俳句協会青年部長。