「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 旅の中の水の音 カニエ・ナハ

2016年09月29日 | 日記
 東京は江東区、深川というところに住んでいるのですが、家から最寄の図書館へいく、自転車で5分ほどの道の途中、小さな川のほとりにある、小さな庵に、かならずいつも座って佇んでいるおじさんがいて、右手には杖、左手に笠。いつでも、いまにも立ち上がって、旅に出ようとしている、ように見える、そんな近所のおじさんだから、芭蕉さん。芭蕉、じゃなくて、芭蕉さん。と、自然と呼びたくなるのです。芭蕉さんはいまは銅像で、しかし銅像の独特の物質感が、周囲の時空を歪めるとでもいうのでしょうか。ここに300年以上前から彼はこうして座っていたようにも、ここだけ300年前から時間が止まったままでいるようにも、見える。とくにこんな明るい月の暗い晩には。ここから自転車で数十秒(歩いても1、2分)南へ道沿いに行けば、私のべつのおじさんの生家の跡もある。以前この「詩客」に書いたけど、私の伯父さんである小津さんの。この300年以上ずっと旅に出ようとしているおじさんのほうも、私の伯父さんになりつつある。


 おじさんの代表作は、たぶん、「古池や蛙飛びこむ水の音」で、たぶん、こどもでも知ってる。あるいはかえるでも知っているかもしれない。かえるのこどもが知ってるかどうかは、知らない。


 この句が先日、あるひとの声に乗って、豹変しました。
 先日ワタリウム美術館で開かれたイベントで、吉増剛造さんと、ローライ同盟(という謎の写真集団……ここではあえて詳述しませんが、)のメンバー(そこに私も入れていただいているのですが、)でご一緒して、トークとかなにやかやあって、さいご、吉増さんのパフォーマンスがあった。その日のスペシャルゲストとしてご一緒していた、俳人の高柳克弘さんから、さきほどのトークのなかで芭蕉さんの話がでて、それを受けて、ということだったと思います。吉増さんはパフォーマンスの中で、突然、「古池や!」と叫ばれた。怒号に似た、激しいシャウトで。「古池や!」


 あとで聞くと、それは蛙の目線で、蛙になって、読まれたのだという。蛙が全身全霊で古池と対峙している。このとき古池はほとんど全世界そのものかもしれない。蛙になって古池と対峙したとき、「水の音」はぽちゃんとかちゃぽんとかいったわびとかさびとかなんてものではなく、決死のスプラッシュで、世界の鼓膜を突き破る。


 シンガーソングライターの柴田聡子さんのライブに毎月くらい遊びに行ってます。毎日彼女の音源を聴いている。彼女が、「オリンピックなんてなくなったらいいのに」と消え入りそうな声でつぶやく、「ぼくめつ」という歌は、2020年に向けての私たちのアンセムと思う。
 そんな柴田さんがこないだ「東京グラフィティ」という雑誌の、「女子クリエイターが強烈に影響を受けた本・映画・音楽」という特集に寄稿されていて、「影響を受けた本」に、『芭蕉自筆 奥の細道』を挙げられていて、いわく、「芭蕉が景色や見るものに打ちのめされている! 淡々と形式と心情を綴る中で、ついに松島では「絶句」してしまう。生きているということをひしひしと感じる、こんな旅のように生きられたらいいなと思います。」……ああそうか、吉増さんの蛙、あるいは蛙の吉増さんのあの怒号は、古池に打ちのめされた怒号で、「水の音」は絶句の音……だったかもしれない。池の端から水面までの、それは一瞬の、永遠の、旅なのかもしれない。


 柴田さん、芭蕉さんのほかにも漱石の『草枕』について語っておられて、芭蕉と『草枕』を愛読している、このひとも、きっと旅の人なのだと思う。


 先日、正岡子規の命日に、岩波文庫の『子規句集』をぱらぱらめくっていたら、「旅の旅又その旅の秋の風」という句に目がとまって、離れられなくなりました。
(旅に出たいな。あるいは旅の旅に。あるいは旅の旅又その旅に……。)


 前述のワタリウム美術館でのイベントでご一緒した、高柳克弘さんの句集『寒林』を読んでいます。
 一頁に二句、見開きで四つの句が並ぶ、その句たちの立ち姿が、まさに寒林のようだと思う。
 高柳さんの、凜としていて、どこか非情な寂しさの、句の樹と樹の間を、その寒林を、旅するような気持ちで歩きました。


 馬と眠る旅をしたしよ沙羅の花  高柳克弘
 冬木立思考は馬の速度なす


 こんな句を書くひとと、ただ黙って、いっしょに旅をしてみたい、そんなことを一瞬思ったりしたけれど、そのひとの書いた本をもって旅をすることは、すでにそのひとといっしょに旅をしていることと、変わらないのかもしれません。


 芭蕉さんと高柳さんの句集、それから柴田さんの音楽と、『草枕』と、あと放哉の句集をもって、旅にでました。
 (あるいは旅の旅に。あるいは旅の旅又その旅に……。)
 なんとなく、思いたって、風に吹かれるように、小豆島に。
 放哉のお墓を訪ねてみたかったのです。

 そうして、たどりついた。
 私は放哉の、お墓のうらに廻りました。