「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評173回 川柳時評(9) 川柳のさまざまな場 湊 圭伍

2023年10月28日 | 日記
 夏から秋にかけて、川柳に関する話題が多かった。今回はとりあえずそれらを列挙してみる。

①暮田真名「夢み」(『文學界』10月号の「巻頭表現」)

 まずは、暮田真名による「夢み」10句が、『文學界』10月号の「巻頭表現」として発表されたこと。ここでは10句中2句を引用する。

言いなりになって瑪瑙のアップリケ      暮田真名
急に栄えるなんてひどいね

 一般の商業文芸誌の巻頭に川柳が登場したことはこれまであったのだろうか。ともあれ、ベトベトしない軽みがある作風のこの作家がいまの川柳の先頭を走っていることは大きい。

②『アンソロジスト』vol.6「【特集】川柳アンソロジー みずうみ」

 季刊誌『アンソロジスト』vol.6の「【特集】川柳アンソロジー みずうみ」は、全ページの半分ほどを使った力のこもった特集。川柳作品としては、なかはられいこ、芳賀博子、八上桐子、北村幸子、佐藤みさ子の6人の実力派作家が20句連作を披露している。特に、川柳の新しい領域を静かに切り開いていく佐藤みさ子の作品が、狭い川柳の世界の外の人々の目に入ったことが素晴らしい。

ゆくえふめいのかおのはんぶん        佐藤みさ子
「足よゆくな」とさざなみの声

 刊行元の田畑書店は〈ポケット・アンソロジー〉 として、お気に入りの作品をファイルしていくという新しい文学の楽しみ方をとして提示している出版社で、〈現在〉の文学に敏感にアンテナを立てているこうしたメディアが文芸川柳を 大きくとりあげるのは久しぶりのことだろう。
(noteにこの特集の鑑賞記事を書いたので、ご一読ください。
 「川柳とは何か―《川柳アンソロジー みずうみ》(『アンソロジスト』vol.6 より)」
 https://note.com/umiumasenryu/n/nfb097566a0dd
 また、この特集のスピンオフ企画として、ネット上で活動している川柳作家に呼びかけて開催した「#川柳みずうみ連作 大会」に集まった作品がこちら。
 「「#川柳みずうみ連作 大会」エントリー作品まとめ、および、〈みずうみ〉大賞投票」
 https://note.com/umiumasenryu/n/ndcf679433b10
 この特集は『アンソロジスト』vol.6としてだけではなく、ポケット・アンソロジーの作品リフィルセット《川柳アンソロジー みずうみ》としても購入可能なので、みのがした人はこちらからどうぞ。
 「作品リフィルセット《川柳アンソロジー みずうみ》」
 https://tabatashoten.thebase.in/items/78201255

③まつりぺきん編『川柳EXPO: 投稿連作川柳アンソロジー』

 いま全国の小書店で売れているのが、まつりぺきん編『川柳EXPO: 投稿連作川柳アンソロジー』。川柳作家まつりぺきんの呼びかけで、各作家が20句を寄稿、作品募集から2,3ヶ月というスピードで出版された。誰でも参加可能、ベテランもほぼ初めて川柳を書いたという人も完全にフラットな扱いで並べられ、出版後のTwitter(X)でのコメントや朗読投稿(#川柳EXPO)でも盛り上がった。1000句以上入ったアンソロジーだが、そのうち数句を紹介しておく。

道も違うしドライアイスのことでもない       おかもとかも
ぬめぬめの肌 めぬめぬの樹木葬          林やは
チャンピオンベルトは縦に切ってくれ         西沢葉火
コピーしといてと風船の束渡される         佐藤移送
手を下げる。夏を終わりにするために。       下城陽介

もうこの街と呼ぶには回りすぎた。
俺様は言つた尻の斑に嵌つた脱力のエスカレータ拭き
 ササキリユウイチ
 *二行の長律作品
三角に切って西瓜をはじめます           上崎
どの海もつながっているという嘘          下野みかも
また雨でミシンを棄てる日が延びる         小原由佳
棒人間不可避                   栫伸太郎
半減期に抗いたいんだよろしくね           雨月茄子春
停戦をラインに沿って切り取った          城崎ララ
お祭りで風を買ってもすぐ失くす          小橋稜太

 数句、と書いたのに、引いていたら多くなってしまった。好句が多い。連作として仕掛けがある20句もあるので、ぜひ手にとっていただきたい。Amazonでも購入可能。
https://www.amazon.co.jp/-/en/%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A%E3%81%BA%E3%81%8D%E3%82%93/dp/B0CF4LKW96/ref=sr_1_1?crid=ZOEL5BRRE2HY&keywords=%E5%B7%9D%E6%9F%B3Expo&qid=1698416571&sprefix=%E5%B7%9D%E6%9F%B3expo%2Caps%2C162&sr=8-1
(こちらの感想もnoteにまとめたので、以下をご参照ください。
 「『川柳EXPO』感想まとめ」
 https://note.com/umiumasenryu/n/n83a5106c10a4

④オンデマンド句集―雪上牡丹餅『降ってきたリンゴ』『川柳・ジュニーク句集 摘んできたいちご』、成瀬悠『川柳句集 序章あるいは序説もしくは序論』

 いま、Amazonでも購入可能、と書いたが、『川柳EXPO』は元々オンデマンド出版、Amazonでの販売が軸ではある。同様のかたちで川柳句集を作る試みも出てきている。雪上牡丹餅は第一句集を『降ってきたリンゴ』で出版して、すぐに第二詩集『川柳・ジュニーク句集 摘んできたいちご』を発表、成瀬悠も『川柳句集 序章あるいは序説もしくは序論』で続いた。

スマホからお知らせしますここ地獄          雪上牡丹餅『摘んできたいちご』より
この川柳はおとりなんだよ
てやんでえTシャツじゃねえ丁シャツだ
暗転しコオロギだけが粉となる            成瀬悠『序章あるいは序説もしくは序論』より
片耳を見られないよう泳ぎ切る
トーストを読み込むだけの白昼夢


 川柳作家は従来、句集を作ることに対して腰が重いところがあったが、それも簡便でスピーディな出版方法の登場で変わっていきそうだ。

⑤文学フリマでの販売―ササキリユウイチ『飽くなき予報』、南雲ゆゆ『姉の胚』、森砂季『プニヨンマ』、他

 こちらはこの記事を書いている時点では未来の話になるが、④のような簡便な装丁ではなく、ただし従来の自費出版とは違い、独自にこだわった造本で句集をつくり、文学フリマや個人通販で読者を見つけようとする動きもある。ササキリユウイチ『飽くなき予報』、南雲ゆゆ『姉の胚』、森砂季『プニヨンマ』、他、小野寺里穂も句集を準備中とのこと。11月11日、東京流通センターで開催の「文学フリマ東京37」では、川柳関連のブースにも注目していただきたい。

⑥月波与生・真島久美子『いちご畑とペニー・レイン』

 ④であげた雪上牡丹餅『川柳・ジュニーク句集 摘んできたいちご』は、西沢葉火考案の「ジュニーク」(7音+5音もしくは5音+7音の12音からなる形式)をフィーチャーした句集で、この「ジュニーク」に見られるように現在の川柳ではもっと新しい試みをやろう!という機運が高まっている。月波与生と真島久美子による『いちご畑とペニー・レイン』は、短歌で考案された「いちご摘み」(前の歌・句の一語をとって次の語をつけてつないでゆく)を川柳で試み、一冊にまとめたものである。川柳大会で鳴らした実力派作家2人だけあって、個々の句にも面白いものが多いが、連句的な、あるいは連句がむしろ避けるような句と句のつながりからくる楽しみも多い作品集になっている。川柳の提示の仕方として、これをさらに洗練させてゆくというのもありそうだがどうだろう。

⑦地域の川柳句会・大会

 以上は、これまで川柳がとりあげられなかった一般文芸商業誌、また、ネットや文学フリマ、オンデマンド出版など、川柳としては新しい媒体を活用した作品発表である。一方で、新型コロナウイルスでの自粛を切り上げて、対面型の川柳大会を再開する動きが出てきている。上であげた多くの作家たちが、2020年10月出版の小池正博編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)や、暮田真名がしかけた「川柳句会こんとん」(2021年10月1日から11月30日に、川柳初心者限定で投句を募集)以降に川柳を書き始めている。こうした作家は、従来の川柳の発表機会である川柳句会や川柳大会をまったく知らない(ただ、そもそも新型コロナウイルス自粛がなかったとしても、こうした作家たちが従来型の川柳の集まりに参加したとは到底思えないが……)。

 従来の川柳界での作品発表の主流は、〈伝統川柳〉(この説明をすると長くなってしまうので今回は省略)を中心とした句会や大会である。それぞれの地域の川柳会が運営を担いながら、全国のネットワークもあり、人気選者(例えば上に名前が出た真島久美子)は全国を飛び回りながら選を行っている。筆者は幸いこの世界にも選者として呼んでいただいたりして参加することがあり、今年7月22日に松山で開かれた「川柳まつやま 一朶の雲川柳大会」で、真島らと並んで選者をつとめさせていただいた。松山の川柳作家・松木慎吾がこの大会の様子をブログにくわしく書かれている。川柳大会の様子を知るのにぴったりの記事だと思うのでリンクを張らせていただく。
(松木慎吾ブログより、「第74回一朶の雲川柳大会開催される」
https://blog.goo.ne.jp/viviyori/e/361a1f09916b999de0b26766074e9bb0
 最近では川柳でも俳句と同じ互選、相互批評・コメント形式での句会が行われることが増えているが、従来型の「選者選」(選者が投句の中から指定された割合の句を選び、それを読み上げていく)がまだまだ主流である。松山では、11月3日に「愛媛県民総合文化祭・川柳大会」が開かれるが、こうした長年の地域での地道な活動を基盤にし、自治体の援助を受けるなどしてきた大会開催と、上で紹介した自分たちでメディアを開拓していくような新しい動きのあいだには、さまざまな意味で断絶がある。

 さまざまな場での川柳活動、川柳作品発表が以降、どのように交錯するか、もしくはこのままそれぞれの道を歩んでいくのか。それぞれの場での川柳を楽しみながら、たまには真面目に川柳ジャンルの広がりと、バラバラさ加減についても考える必要があるなと思う。

俳句評 俳句の鳩は十二季を飛ぶか?(俳句と川柳と短歌における語彙の比較) 沼谷 香澄

2023年10月24日 | 日記
 2023年に入って、俳句と川柳の実作を始めました。俳句は結社の会員になり、結社誌に句稿を出し、吟行やオンライン句会に実作を出しています。川柳は教室に通って一か月に一回の指導を受けています。自分の手を動かしてみて、できたものに対する意見や指導をもらいながらの形をとったおかげで、やはり予想しなかった気づきがありました。

●語に含ませる時空的なものの小さい順から大きい順に、川柳→俳句→短歌 となる。

同じ単語が、3詩形でどのように使い分けられているかを探ってみたいと思いました。

(1)シンギュラリティ(→失敗)

 最初に思いついたのが「シンギュラリティ」。技術的特異点と訳されて、物理学やITのジャンルで最近よく聞く言葉です。

白菜と鶏の水炊き シンギュラリティ                   暮田真名『補遺』2019
チョコワから真顔でこっちを覗いてるシンギュラリティ後のシンギュラリティ 榊󠄀原紘『セーブデータ』2021

 川柳と短歌です。どちらも食べ物とシンギュラリティが組み合わされていますが、この作者、お二人は一緒に活動されることも多い方たちなので、もしかしたらこれは偶然ではないのかもしれません。
 そして、俳句には、見つかりませんでした。人間側から見て結構思うところのある語だと思ったのですが。あと、ゆっくり読めば中七、早く読めば下五に収まる、使いやすい語だとも思ったのですが。ちなみに「シンギュラリティを使った俳句」でググると、AIが作ったという俳句が大雨のあとの側溝のように流れていって辟易しました。
 せっかくなので少しだけ鑑賞しますと、川柳の方は、読み終えてこれからこのシンギュラリティ(の語)に何をさせようかなと心が動き、短歌の方は、このシンギュラリティはここで何をしているのだろうと考えるかなと思いました。読後、すでに持っている情報量が、詩形の長さに比例しています。

(2)こおろぎ(→失敗)

 つぎに、「こおろぎ(こほろぎ、蟋蟀)」という語を使った作品を探してみました。

こおろぎを支配しすべて裏返す                     平岡直子『Ladies and』2022
こほろぎのこの一徹の貌を見よ                     山口青邨『庭にて』1955
同じをどこまでも鳴く蟋蟀こおろぎのわれのねむりにはぐれてゆきぬ       吉川宏志「叡電のほとり」2023.10.10

 なんとか三詩形そろいましたが、現代俳句に見つからないことに驚きました。私の持っている数少ない俳句関連の雑誌や句集には、なかったのです。、なかったのです。山口青邨の句はググって見つけました。掲載句が強すぎて、この句の後にチャレンジする人がいなくなってしまったと推測します。コオロギは堂々たる季語(三秋)ですが、あの姿かたちであの声(いや音)なのでいろいろと詩情を呼ぶと思ったのですが。これは困ったぞと思いました。
 ちなみに吉川さんの短歌はふらんす堂のウェブサイト連載記事からなので、新作だと思います。余談ですが、虫とボーカロイドは、歌うのに呼吸を使わないので、いくらでも伸ばせます。ずるいですね。
 平岡さんの川柳にいるこおろぎは、鳴いておらず、小さく無力な虫の代表としておかれているようです。山口青邨の俳句にいるこほろぎは、接写レンズ的な主体の目(というかにらみつける心情)を通して描かれています。吉川さんの歌の蟋蟀は、声だけが続く存在として限定されています。コオロギのビジュアルを思わせないので歌が美しいです。

(3)鳩

 次は「鳩」にチャレンジです。

母笑う鳩や汽笛をこぼしつつ                      なかはられいこ『くちびるにウエハース』2022
こんなときだけど鳩の脚ピンク 
鯉が来て鳩が来て広東語をしゃべる

よく動く駱駝の顎と鳩の首
一茶忌の朝日の橋を渡る鳩                       佐藤文香『菊は雪』2021
ふくらむ鳩アコーディオンの襞に塵
風に色なし像に聴衆めく鳩ら
微笑んでゐるのは春の三鷹駅けんけんぱつと鳩がゆきたり         睦月都『Dance with the invisibles』2023
白い鳩売るこの店の顧客名簿マジシャン含有率高し            田中有芽子『私(わたくし)は日本狼アレルギーかもしれないがもうわからない』2023
長閑のどやかな朝鳩達が車体ぎりぎりをるチキンレースをやめない

 鳩は少し句集歌集をめくったら出てきました。鳥は花鳥風月のメンバーで、鳥である鳩は、季節にあまり結びつかない、また、身近である故に好まれも嫌われもする微妙な立ち位置の生き物だと思います。
 なかはらさんの川柳句集には鳩の句が四句ありました。引用一句目がよいサンプルになると思います。これ、お母さんが、鳩や汽笛をこぼしながら笑っている、と私は読んだのですが、つまり、鳩は笑い声の比喩として使われているだけです。が、お母さんの笑う姿が周りに作り出す空気になにかすさまじいものを感じることができるのではないでしょうか。
 佐藤さんの俳句句集における鳩は、川柳の時のような道具としての単語ではなく、生きて動いている鳩としてそこにあり、その鳩をみている主体(人間)のまなざしを感じます。
 短歌の鳩は、探せばいくらでも出てきますが、最近の歌集から二人の作品を選びました。特に考えず、対極の作風と思って2歌集を選びましたが、睦月さんと田中さんは同じかばんの所属でした。改めてかばんの会の懐の深さ(または底知れなさ)を感じます。現代短歌の場合、そこで鳩が描写されても、実景とは限らないし、主体が心情的に寄り添っているとも限りません。
 睦月さんの作品において鳩は、春の三鷹駅前に置かれて目立つ演技をしていますが、読者がその鳩という語の意味や役割について、妄想をたくましくする余地はそれほど残っていないです。田中さんの一首目も同様で、というかさらに拘束度は上がっていて、手品用に店で売られる鳩の話になっています。二首目、ガラス窓や車にぶつかって死んでいく鳩は本当に多いので勘弁してほしいですが、ここの鳩たちも、初句の「長閑やかな」をひっくり返す役目を担っています。
 このように、川柳から俳句へ、短歌へと、詩形が長くなるにつれて、言葉が多く使われる分、抱える文脈が増えて、語の自由度と言うか解釈の余地が小さくなっていきます。理屈で考えてもその通りなのですが、短歌を作り慣れている身から、いざ俳句や川柳を、とやってみるときに、語に何を負わせるかが本当に違うのだなあと感じた次第です。

●まとめ 詩形が短いほど、強い語彙の選択が可能である。

 短歌は作者の生きる姿勢にまで影響すると言われ、それに反発する気持ちを持って創作する人は少なくないと思います(私もそのひとりです)が、文が書けてしまう長さで詩を書こうとすると、きちんとした物言いが求められるのかなと想像します。いえ、分別くさい文体をよしとするわけではありません。自分の内心に正直でないことは書きにくい傾向があるという意味です。

 俳句は、短くて文が書けるほどではないですが、川柳よりも芸術性が高いという位置づけで(発句の性質を踏襲しているため)、ということは、作者の美意識を載せることになるので、やはりあまり変なことは言えない感じです。しつこいようですがこれも客観的に言って荒唐無稽なことが言えないという意味ではなく、自分の美意識から外れたことは自分の名前を付けて発表しにくいというニュアンスだと取ってください。

 そして川柳は一番実験性を高めることができるように感じています。連句における平句がどういうものであるか考えると、そこまで巻かれてきた流れを受けて、季戻りや打越を避けて、句去りに配慮して、読んで面白いものを書く、というのは、パズルともゲームとも近いものがあります。いま目の前にあるこの場所にこのような言葉を置くことができるという提案は、間違いなく自分が行ったものですが、可能性の提案に作者の署名が付いた、という以上の詮索(詮索)は控えられると言っていいと思うのです。

 それで語彙の強さと今言ったことの何が関係しているのかと言いますと、短歌→俳句→川柳の順で、後ろの方が、より思い切った語彙の選択が可能になる、と私は感じています。責任、というのはあまり嬉しい言葉ではありませんが、使った語彙に対する責任の重さが、後ろに行くほど軽くなるという感じです。その軽さを使って、言葉に思い切った冒険をさせてあげられる。いま短歌・俳句・川柳の微差をみてきましたが、これが、短詩全般の実作のだいご味といえるかもしれません。


*引用作末尾の西暦年は句集・歌集の刊行年です。

俳句時評172回 令和の旅俳句ブームの可能性 谷村 行海 

2023年10月03日 | 日記
 短歌ブームというのはずいぶんと前から聞く言葉だ。軽く調べてみても、2015年12月22日にはNHKの情報番組「あさイチ」で短歌ブームが取り上げられていることがわかった。そして、その短歌ブームはコロナ禍を経てメディアで取り上げられる機会が加速した。ネットで短歌ブームと検索すると多数の記事が出てくる。そうした短歌ブームの記事では、その多くがSNS(特にX、旧Twitter)と短歌との関係性にふれており、そして、そこでは共感性という言葉が1つのキーワードのように繰り返し用いられている。
 だが、そうした短歌ブームというものを目にする・耳にするたび、ブーム自体の良し悪しはあるにせよ、俳句ではなぜそうしたSNSによるブームは起きないのか、そもそも俳句はSNSでブームになってはいないのかというものが疑問に感じられてしまう。
 そんなことを思っている折、『AERA』は 2023年10月2日号より、「SNSの短歌ブーム、なぜ俳句ではないのか? 短歌にあって俳句にないものとは」と題した記事(https://dot.asahi.com/articles/-/202223)を9月26日にウェブ上で公開した。詳細は元の記事を参照していただきたいが、記事の中で俳句と短歌の違いとして挙げられていたものを要約して挙げると次の通りになる。

①俳句では添削という行為が成り立ちやすく、そこに先生と生徒という上下関係が生まれる。
②俳句は芸術としての完成度を求め、短歌は他人に対する共感を求めて作られる。
③俳句には文語を使用したものが多く、また、七七がないことから、作者の思いは読者に汲み取ってもらう必要がある。
④俳句は人間ではなくもっと大きなものを詠むため、「私」はなくてもいい。

 これら4点のうち、短歌ブームの要因として取り上げられやすい共感性に強くかかわってきそうなものは③だろう。①は添削という行為を望むかどうかという作者の気持ちの持ちように関係しており、添削という行為を一切無視して俳句を作り続けることは可能であるし、また、短歌であっても添削を望む人はいることだろう。また②は、そのように大きくまとめてしまってもよいのかという疑問があり、④は作句姿勢に関係するため、「私」を前面に押し出して句を作りたいという態度もあることから、SNSにおけるブームとは別種のものとして除外しておく。したがって、俳句ブームが起きるためには③が重要に感じられる。
 元の記事を読んだ時、私自身③については納得する部分が大きかった。例えば助詞の「の」であれば、それが主格なのか連体格なのかを読み取ることができなければ、句の解釈が大きく変容してしまう恐れがある。また、俳句はものに仮託された思いを季語の知識等から読む必要もあり、一読して意味を解釈しきれない難解なものもよく目にする。だが、文字情報だけではその意を汲み取ることができなかったとしても、それが良いか悪いかは別として、その補足情報として写真を添付するなど工夫を凝らせば思いをより多くの人に伝えやすくすることは可能であろう。そう考えると、短歌ブームで取り上げられやすいXよりも、Instagramであれば俳句との相性は悪くない気がする。
 このように、俳句にも俳句ブームは起きてもおかしくないように思える。
 だが、仮にブームが起きた場合、そもそもそれが良いことか悪いことかを考えることは重要なことだ。共感性を求めることを否定しているわけではないのだが、より多くの人の共感を呼んだ作品が良い作品であるとは限らないだろう。また、その共感性というものを求めていくと、個々の作品に共鳴した人々が一か所に集う可能性もある。その場合、共感できない作品は切り捨てられてしまうという事態が起きかねず、それはなんだか勿体なく、また怖いことのように思える。
 何かの拍子にSNSでの俳句ブームが起きる可能性は十分あり得ることだと私は思うのだが、それが起きた時に何を考えなければいけないか。それが最も大切なことではないだろうか。