「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 言葉は〈世界〉たりうるか?  添田馨

2015年07月28日 | 日記
 世界が失われているところで、言葉は世界たりうるのか――青春期に抱えこんだいくつもの解決不能の問題を、気がつけばいまだに自分がそのまま引きずって生きていることに、しばし愕然とすることがある。このテーゼも私にとって、そうした問題群のひとつだったことに、今回あらためて気づかされることになった。
 文学表現のもたらす価値は、ひとつにその自由さそのものに固有の意味が宿っている。そして、そうした表現(行為)の自由さは、実生活上におけるさまざまな不自由さの表現内部における解放というテーマ性へと、いやおうなく継ぎ木されていく性質のものである。
 むろんテーマそのものの切迫性や強度などは、作者個々人によっておのずと異なるし、またおなじ作者においても経過した年月によっては変化もする。ただ、自身の出発を不可避的に規定していたその切迫的経験の強度は、その後の環境変化をまってもかんぜんに消滅してしまうことは多分ない。
 文学作品をその作者の名前において読む、言い換えれば、作者の固有性によってアイデンティファイされながら享受するという行為の、これは前提的な了解事項でもあり、また作品評価のもっとも重要なベースの部分でもある。

 大道寺将司の全句集『棺一基』(太田出版/2012年)をここで取り上げることは、私にとって、文学におけるこうした根本的な問題群に対し、ひとつの明快な回答を提供するに違いないと信じさせる何かがあるからなのだ。

 棺(かん)一基(いっき)四顧(しこ)茫々と霞みけり
(2007年)


 これは句集タイトルにもなった2007年の作品だ。彼岸と此岸とのあわいで、周囲は霞がかかって何も見えないなか、ただひとつ強烈な磁場をはなつ「」のイメージだけが鮮明である。これは誰の「」なのか。おそらく、これは何よりも、鏡に映しだした自分自身の言語表現上の暗喩なのに違いない。その作風は峻厳で、あたかも緑の山塊をつき破り万年雪をその頭頂に抱きつづける孤高の自立峰さえ思わせる。だが、なぜこの作品の場合、遺骸や遺骨ではなく、その容れ物である「」こそが最終の自己表象たりうるのか。いわばこのささやかな疑問に引かれるようにして、私は本句集の頁を繰っていたと言っていい。

 春雷に若きゲリラの死を悼む
 過激派と呼ばるる今も青嵐(あおあらし)

(以上、1997年)

 革命歌小声で歌ふ梅雨晴間(はれま)
 反骨に徹し自適の枯葎(むぐら)

(以上、1998年)

 君が代を齧(かじ)り尽(つく)せよ夜盗虫(よとうむし)
 革命をなほ夢想する水の秋

(以上、1999年)


 作者の大道寺氏は、よく知られているように、確定死刑囚である。彼は1974年の連続企業爆破事件をひき起こした東アジア反日武装戦線の元メンバーであり、1987年にはその刑が確定している。そして、2015年現在も東京拘置所内で拘留が続いている。
 ここに引いた作品は、そうした彼の矜持をなおも現在へと伝える、いわば筋金の入った意志を露わにしたものだ。だが、こうした作品がある一方で、拘置所生活のなかから否が応もなく絞りださざるを得なかったような、苦悩をありありと垣間みさせる系統の作品も数多い。

 凍蝶(いててふ)や監獄の壁越えられず
(1998年)

 極月(ごくづき)の囚(とら)はれの身の独りなり
(1999年

 蜻蛉(とんぼう)やあすの命は不明なり
(2000年)

 麦秋(ばくしゆう)や倚(よ)るべき椅子の見当たらず
(2007年)


 大道寺将司の句集『棺一基』に特徴的なのは、一見したところ何の変わったところもないようなその編年形式である。1996年から2012年まで17年間の俳句作品1,094句がここには収められている。だが、全体の構成ともいえる程のものは、その編年形式いがいには何もない。網羅的であることが要求される全句集とはいえ、この姿は私にはいささか殺風景で奇異なものに映る。
 というのも私は詩であれ短歌・俳句であれ、作品に内在する時間性が外的な時間の流れから隔離され、非在化されることで虚構の現実性にいたるプロセスを、文学が歴史的現実と交錯しうる唯一の機制だと考えてきたからである。そのことはこの句集においてもなんら変わらないはずだった。だが今回は、なぜかそうした実感がとても希薄に思えたのだった。
 個々の句を成り立たせている作者の凝縮された生命時間は、むしろ言葉の隅々に充溢しているのに、それらがほんらい指し示すはずの世界内でのポジションが言葉の背後にどうにも見えてこないのである。ある意味、この印象はこれら一連の俳句作品を読みすすむうえで、決定的なものだった。何故、私はそのように感じたのだろうか。
 それは大道寺氏が確定死刑囚として、つまり未来時間を国家によって奪われた存在としてこの世にあらねばならぬという、その極限的に矛盾した自らへの統覚に根差すもののように思えてならない。
 ということは、その句集において1997年、1998年、1999年、2000年……2012年という年号の列挙的な括りは、彼が拘留されている無機的な物理時間をそのまま指し示す符牒いがいではないということではないのか。拘置所内の独房という幽閉空間のなかでしか、作者もその俳句作品もみずからの生命時間を維持するすべがないという現実の、これは構成面における必然的な反映だったのだと思う。つまりこれらの年号は、じつは透明な檻としての〝時間の棺〟でもあったのだ。

 私はたんなる情報として確定死刑囚としての作者の背景を知ってはいたが、それ以上に、大道寺氏との人間的な関わりといったものはない。あくまで、本句集一巻を通して彼とその作品を知るのみの人間である。
 ただ、その一方で、私は現在の死刑制度への関心から、文献等で一度ならず確定死刑囚の拘置所内での日常というものに想像力をめぐらせる機会があった。そのさい特に私が強く焼きつけられたのは、確定死刑囚となった人間が等しく抱くという処刑の〝恐怖”についてだった。
 いったん死刑が確定した者にとって、いつ自分の刑が執行されるかは極めて重大な意味をもつ。刑の執行は本人へ事前に予告されることはなく、ある日、突然にやってくる。しかも、執行時間は深夜から明け方などが多く、そうしたイレギュラーな時間に当直看守が独房へ自分を呼び出しにくるようなことがあると、それはいよいよ刑が執行されることのサインである場合が多く、そのとき受刑者は大きな絶望と底知れぬ恐怖をいだくという。
 確定死刑囚のこうした境遇とは、娑婆での暮らしの可能性をほぼ完全に奪われると同時に、未来にむけてのいかなる生涯ビジョンをも描くことを禁止された、いわば個人の自由な生活感覚が丸ごと剥奪された特異環境なのだといえる。つまり彼には、生存世界そのものがあらかじめ失われてしまっているのだ。

 夏深し魂消(たまぎ)る声の残りけり
(1997年)

 死はいつも不意打ちなりし十二月
(2002年)

 明日知らぬ身とな歌ひそ青葉木菟(あおばづく)
(2007年)

 寒の朝まず確かむる生死かな
(2008年)

 縊られて世はこともなし実南天(みなんてん)
 刑死者のゐぬ歳晩(さいばん)の夕日かな
(以上、2009年)


 私はこれまで詩のなかでも、特に短詩型文学の短歌や俳句において、その一定の音節からなる形式(フォルム)を背後から統べているところの非記述構造たる型式(フォーマット)の実在性について言及してきた。
 例えば、おなじ確定死刑囚の坂口弘氏の短歌作品においても、強制された環境である〝拘置所〟という背景野の存在が、彼の作品のリアリティをまちがいなく支えている姿を検分しえたと思っている。
 だが、その一方で、大道寺氏の俳句作品には、坂口氏の短歌作品ほど顕著にその非記述構造たる〝拘置所〟の影が前面に露出してはいないものの、逆にそれは一歩背景に退いたうえで、表現の質を背後から全的に制約しているような印象を受ける。
 おそらく、そこには俳句という表現スタイルに特有の構造が、陰に陽に作用しているのだと考えられよう。短歌に比べても、より圧縮された音節数によって全円的な言語宇宙を創出しなければならない俳句は、手法そのものの内に一層高い抽象度と直覚的な冴えとがまちがいなく要求されてくるように思われるからである。

 最後に銘記しておかなくてならないのは、本句集の誤った性格づけといったものに私たちは最後まで手を染めるべきではないということだ。本句集にはたしかに作者自身に固有の拘禁環境が一定程度いじょうの陰翳をなげかけてはいる。だが、だからといって、これらの作品を特殊な境遇にいる人間の、特異なサンプリングのように読むという愚を犯してはならないのではないか。なぜなら、逆にそうした特性こそが、彼の俳句作品のレベルを文学としての普遍性へ届くところまで押し上げてもいるからである。
 ここまできて、私はようやくあの最初の問いに戻ることを許されるような気がする。世界が失われているところで、言葉は世界たりうるか――3・11を経験した私たちにとって、日常生活つまり〝世界〟が失われるということはまぎれもない現実であって、詩的な比喩では完全になくなった。誰もが、その現実に拮抗しうる言葉をもとめ、もがき、そしてなお癒えぬ傷跡をかかえて逡巡し続けているように見える。
 世界がそうやって失われているからこそ、逆にそこで実在性を増していくもの。それは死んでいった者たちの濃厚な不在性である以上に、詩の表現の回復過程としてなによりも私たちの言葉のなかに希求されてきた何かであるように思う。言葉が世界たりうるとは、仮に世界のほうが消え失せてしまったあとでも、消え去らずに厳然と残りつづける〝表出行為〟の痕跡いがいの一体何だというのか。

 身のうちの虚空(こくう)に懸(か)かる旱星(ひでりぼし)
(1998年)


 生きるに値する世界の没落後においても、私たちがなお生きるに値する何者かとして存在できるかどうかは、この一句が指し示す「旱星(ひでりぼし)」のように、なにも寄りすがるものがない無限の空虚のなかでも自ら光を発しつづける言葉、その欠片を手にできるかどうかにかかっているのである。

※引用中の丸括弧はルビです。

俳句評 四季の俳句逍遥、短歌へ道草 中家菜津子

2015年07月28日 | 日記
 まさに目、そして視覚によって生きている人間がいて(あなたと私もその数に入っています)──ほかの感覚はどれも、この五感の王様の家来に過ぎないのです。
「カメラ・オブスクーラ」ウラジーミル・ナボコフ


 少し唐突だが、最初にこのテーマに触れておこう。最近、短歌界では服部真里子が「角川短歌4月号」に発表した

 水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水

という短歌が難解だと話題になりいくつもの時評で取り上げられている。この短歌が難解とされるのは、「水仙」と「盗聴」という名詞を並列で並べたことに原因があると考える。もしも、「水仙は盗聴している」や、「水仙と盗聴している」であれば、水仙の擬人化として受け入れやすい。しかし単語が並列された時、一首の中で解釈の幅がかなり広がってしまう。短歌読者に手渡すには意味が曖昧模糊としてしまうのだ。
 だが、これが詩として発表されたならどうだろう。意味の限定しにくさは、一切、問題にはならないだろう。短歌では疑問点であった花と耳のかたちが似ていることから盗聴へ連想が飛躍されることは、寧ろ好ましいものとして詩人の目に映るだろう。歌人はそれを読みとれないわけではない。短歌の文脈としてわからないと言っているのだ。現代詩は文脈が断絶し対立し矛盾することが、詩の構造として当たり前であり、作品全体として主題が具体にしろ、抽象にしろ、回収されればよい。服部の作品は修辞が詩型を越境しているのではないだろうか。鮮やかに景が浮ぶことを尊ぶよりも時には凝縮されたポエジーを、という声が聞こえてくる気がした。服部の作品には短歌にも詩の風を送り込もうという意志を感じる。
 では、作者には大変申し訳ない乱暴な行為だが俳句として、「水仙と盗聴わたしをめぐる水」としたならば。俳句読者は水仙と盗聴の部分をどんな省略として読むのだろうか。最近、句集や句評をまとめて読んだが「省略」を読む力は。俳人がずば抜けて秀でいている。同じ作品を発表される「場」を変えて読むと、その詩型が持っている理想や骨格がはっきり見えて実に興味深い。

 さて、はじめから話が逸れてしまったが本題に入る。本棚からお気に入りの句集や詩誌に掲載された俳句をいくつか挙げ、四季をつくりながら、俳句と短歌を比較しながら、ゆるやかに鑑賞してみたい。門外漢である私の、俳句への私的で詩的な干渉でもある。

 今回取り上げた俳句の引用先は

『十七音の海』 堀本裕樹
「ガニメデ60号 どろばう」 林和清
『赤き毛皮』 柴田千晶 
「ネットプリント 彼方からの手紙vol.10 外科病棟」 宮本佳世乃 
「ガニメデ59号 彼岸への旅」 関悦史 
「現代詩手帖2013年9月号 庵庵」 御中虫
『点滅』 榮猿丸 
「角川俳句2015年1月号 川のうすさ」 堀下翔

である。


*春*

 雀落ち天に金粉残りけり  平井照敏

 花冷えや骨のどこかが磁器となる 林和清

 一句目を読んだとき

 三月の真っただ中を落ちてゆく雲雀、あるいは光の溺死  服部真里子

という短歌を真っ先に思い出した。両作品とも、春、その生と性を謳歌する「雲雀」を輝きとして捉えているが、服部の短歌ではそれは「雲雀」の飛んだ軌跡であるのに対し、平井の俳句は定点カメラのように空を写して動かない。服部の作品では急降下する落雲雀は滞空時間を生き、死という着地点を与えられることで、誰もに流れる生から死への時間の流れを感じ取れる。しかし平井の俳句の中心に描かれているものは、「雲雀」の不在と残響としてのひかりだ。切り取られているのは綺羅の瞬間であり瞬きが強いほど東洋的な虚無、無常観を感じる。
 堀本裕樹は著書『十七音の海』で、天にはまだ囀りの残響のようなものが残っていると作者は感じたのでしょう。それを「天に金粉残りけり」と表現したのです。と読み解く。作者は景として音を視覚化し、読者は景を聴覚を使って読む。省略の中に圧縮された可能性を読者自身が展開していくのだ。

 二句目
 真冬の悴んで痺れるような寒さとは違い、花冷えの寒さは五感を鋭敏にする。研ぎ澄まされた感覚は身の内の骨を意識し、そのどこかが目の前の冷たいなめらかな磁器に置き換わった。どこかは作者自身にもわからない。身体全体が部分であり、部分が全体であるような、或いは内側と外側が入れ替わるような不思議な感覚。霞のように桜咲く季節に倒錯の幻視は美しい。

 てのひらの骨のやうなる二分音符夜ごと春めくかぜが鳴らせり 永井陽子

という短歌を思い出した。冷たさと温かさ、静寂と音楽、骨が置き換わる感覚を二つの作品は好対照に捉えている。


*夏*

 七月や地下鉄で読むサリンジャー 柴田千晶

 レントゲンまでの散歩や熱帯魚 宮本佳世乃

 一句目

 サリン吸い堕胎を決めたるひとのことそのはらごのことうたえ風花  鈴木英子

という短歌を思い出した。地下鉄サリン事件に居合わせ堕胎を余儀なくされた妊婦、そして人知れず散ってゆく胎児の命を晴天に降る雪に祈る。

 一方柴田の句は、事件自体からは遠ざかった日常の一句だ。7月に地下鉄で「サリンジャー」を読んでいるというだけなのだが、地下鉄と「サリンジャー」が結びつくと、サリンという言葉を意識してしまう。あの事件の後、「サリンジャー」からサリンを連想せずにはいられない日常へと世界は一変してしまったのだ、年月が経っても。一句が時代を鮮やかに切り抜いている。この句には何を読んだかまでは書かれていないが、サリンジャーといえば誰もが思い浮かべるのは「ライ麦畑でつかまえて」である。俳句の中に連想として組み込まれ省略されているのではないだろうか。
 地下鉄とサリンという闇を遠ざけ、黄金に輝くライ麦畑で崖から落ちそうな者たちを救ってくれるキャッチャーの存在を作者は希求しているのかもしれない。

 二句目
 「外科病棟」の連作からは、肩を手術し入院中であることが読み取れる。
 病室からレントゲン室までの歩行を散歩と呼ぶ。術後を病室で過ごしている体は、距離として廊下を歩んでいるのだ。散歩と呼ぶことでささやかな気晴らしとして行為を受け止める。一歩一歩への実感がひしひしと伝わってくる。レントゲン写真の透きとおるモノクロと対比された水槽越しの鮮やかな熱帯魚。前向きな明るさとその影の哀しみを表裏一体に感じられる。

 敢えて「僕」のさみしさを言う 雪の日にどこかへ向かうレントゲンバス  兵庫ユカ

という短歌を思い出した。俳句と短歌の中の人物が一瞬すれ違ったように感じたのだ。
 「レントゲン」という自己の内部を写し出す機械を意識するとき、熱帯魚と雪は季節も色彩も逆だが、淋しい浮遊感がある。


*秋*

 月光がガソリンスタンド跡地にゐる 関悦史

 花が咲く銀河ほかにもありますか 御中虫

 一句目

 駐車場のコンクリートがひび割れてどこまでも届きそうな月光  加藤治郎

という短歌を思い出した。「駐車場のコンクリート」の罅割れに「月光」は差し込みどこまでも地底深く光が潜っていくようだ。地層に届く月のひかりを作者は心の目で見上げ、そして最深部へと見送る。服部の歌でもあったがやはり短歌は光の軌跡を描いている。どこまでも進んでゆく光、それは光の本質を言い当てている。
 関の俳句は「月光」がゐるとひかりを存在として扱う。「ガソリンスタンド」のコンクリートに跳ね返された光の粒子が質量のない密度として集まり亡霊のように像を浮かび上がらせる。震災で廃業したのだろうか。「ガソリンスタンド跡地」はこの時代を象徴する一番新しい廃墟だ。この作品では、光を存在、すなわち留まるものとして扱うことで直進を止め、そのことが、一瞬を切り取るというよりは、時間を無化し、はじまりもおわりもない永遠を感じとれる。

 二句目、
 「ありますか」というのは、反語ともとれるが、そうだとしたら「銀河」ではなく惑星とするだろう。自分の居場所を天の川「銀河」(私達の銀河)と大きく捉え、他にも無数にある「銀河」に思いを馳せる。無限の可能性に対する純粋な好奇心が疑問として表れたのではないだろうか。そしてその無限の可能性の中にわたしたちの星は「花咲く銀河」として、まさに咲くように浮かび上がる。

 サンダルの青踏みしめて立つわたし銀河を産んだように涼しい 大滝和子

という短歌を思い出した。銀河に宿る生命力の銀河のような美しさよ。

*冬*

 この森にまだ奥のある冬帽子 掘下翔

 X線検査器通過す読初の『檸檬』と鍵 榮猿丸

 一句目、森の奥にいて、視線を遠くへ向けるとまだ「」はずっと奥へと続く。ここまでは、わたしの知る世界であり、その奥は未知の迷宮である。「冬帽子」は気温と体温の両方を表し、「」のこんもりとした姿や帽子の奥の暗闇を連想させる。実景でありながら季語が効果的に置かれ、マグリットの絵のような不思議な世界の入り口に読者を立たせることに成功している。
 
 夕ぐれといふはあたかもおびただしき帽子空中を漂ふごとし 玉城徹

という短歌を思い出した。帰宅を急ぐ人々の群れは夕暮れの陰影に沈み込み「帽子」だけがはっきりと存在感を増す。まるで雲のように「帽子」が漂うのだ。森のような「帽子」、雲のような「帽子」。被るより眺めていたい。

 二句目、『』で括られた「檸檬」とは言うまでもなく梶井基次郎の「『檸檬』」である。梶井は「檸檬」を爆弾に見立てた。

 丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉こっぱみじんだろう」
 そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩いろどっている京極を下って行った。

梶井基次郎「檸檬」より


 この句では本の中の「檸檬」という爆弾を儀式のように空港の「X線検査機」に通す。鍵は爆弾を検査機へ通すための道具であり、リアリティから小説の世界への扉を開けるメタファーでもある。「檸檬」はやすやすと検査機を通過する。梶井が丸善を爆破するように、作者は新しい年の初めに飛行機を爆破する、虚構の中で。視覚で景を切り取りながら、17音にここまで多くの情報を含ませ、背後に物語を浮かびあがらせることができることに感嘆し、俳句を読む喜びの一端に触れた気がした。

 こうして二つの詩型をあわせて読んでみると、俳句と短歌はモチーフへの連想やポエジーを共有しつつも、表出の仕方が異なる。今までは一瞬を切り取っていると思っていた短歌には滞空時間や物語があり、俳句は徹底した省略の中で静止した一瞬を切り取っている。互いの詩型の違いに目を向けることは、島を出て外から故郷を眺めるような新鮮な驚きがあった。
 ある俳人と酒の席を共にしたとき、俳句とは舞台であると語ってくれた。連続する物語ではなく、役者の感情でもなく、季語に彩られた舞台がそこにあるのだと。短歌を並べて物語を生むことはできる。切れ字をもつ俳句を並べてできあがるのは、四季に彩られた一冊の写真集であり視覚で語られる五感なのだろう、散歩道でそんなことを、ぼんやりと考えた。

俳句評 キリストを轢きマルクスを轢き  平成のアナキスト「夜鳴きそば屋台詩人」青木辰男の俳句 平居謙

2015年07月23日 | 日記
0 はじめに
1 青木辰男とは誰か  
2 生命力の蠢動 
3 「死」を通して噴出する社会句  
4 キリストを轢(ひ)きマルクスを轢(ひ)き
00 あとがき



0 はじめに
 青木辰男の俳句が面白い。
 否、青木辰男の俳句に関するならば、面白いという言い方は余りにも薄っぺらに響く。読後、腹の底から突き上げてくるこの熱いものに比しては。最近出された遺作集の帯コピーに付された言葉通り、僕も「この人を見よ!」と言おう。青木辰男の衝撃を簡略に示すため帯コピーの横に小さく書かれた言葉を以下に写す。

 この国が方向性を大きく変えた昭和30年代から40年代、そして政治と社会構造の変革が遠のいてゆく以降の歳月を、市井の底に身を置き、屋台を曳きながら表現の持続によってのみ生きた青木辰男。遺された詩・俳句・短歌・評論等の作品は、当時最先端の詩文学・思想と全身で対峙し、真のラディカルさと、裂ぱくの気迫に満ちて余すところがない。没後5年余を経て刊行される注目の全表現集である。

 本稿を執筆している7月中旬、安保法案が強行採決された。だからこの帯の「この国が方向性を大きく変え」という言葉が、より一層リアルに、暗い預言書のような圧迫感を持って感じられる。中味も胸を圧するものだ。
 青木辰男の遺作集が刊行されたのはごく最近のことである。先日出たばかりの、同書についての論文「青木辰男『断声』論」(「京都教育大学 国文学会誌 第43号」所収)の冒頭を僕は次のように書き始めた。

 青木辰男遺作集『断声――ある夜鳴きそば屋の詩』(青木五郎編 2015年3月 牧歌舎刊)を読む。凄みのある戦後詩という印象が強い。しかし、反戦や戦争体験が声高に歌い上げられているわけではない。むしろ戦争によって傷つけられ、貧を極め、魂の重荷を引き摺り、絶えず死と向かい合う人生を余儀なくされた記録が淡々とある。怒りや絶望感は事柄と言葉とに深く潜行し、感傷に堕すことがない。

 以下、上記論文と多少重複するが同書巻末の年譜に沿いつつ青木辰男の生涯を紹介しておきたい。

1 青木辰男とは誰か
 青木辰男は1931年大阪に生まれた。31年と言えば谷川俊太郎と同年の生まれである。中学生の時、学徒動員で火薬工場での労働に従事。45年大阪大空襲で家屋全焼。6月静岡へ疎開。48年ころから潮汲み・製塩に従事。49年には離郷。製菓工・遊機工・旋盤工等の職業に就きながら神戸・大阪・名古屋を転々とした。45年父と弟、58年には姉が病死。その後も54年から74年にかけて母、妹、長兄を次々と失うなど家庭に不幸が続く。(前掲論文ではこの「母、妹、長兄の没年」に関し西暦と和暦の混在があったためここに訂正しておく。)62年頃から名古屋市昭和区・守山区などで夜鳴き蕎麦の屋台引きを始めている。屋台の仕事は一時期の中断を挟んで1995年、68歳になるまで続けられた。その後名東区で子ども相手の雑貨屋を開いた。
 創作に関しては、57年頃から短歌を「短歌」誌に、翌年から「つばき」誌に俳句を発表し始めた。詩については、63年『市民詩集』への発表を嚆矢として、若干のブランクを挟みながらも亡くなるまで継続して発表し続けた。屋台のおやじが極めて難しい詩を書き、気骨のある俳句をねじり、短歌を突き詰める。日本文化の何とも言えない底力を示す現象だと僕は驚く。
 2009年7月、名東区の自宅で、死後10日経過した時点で遺体が発見された。実弟の青木五郎(京都教育大学名誉教授)が警察からの連絡を受け、京都から駆けつけ現場に立ち会った。詩人は浜松市にある青木家代々の墓に埋葬された。
 
2 生命力の蠢動  
 思想家・辻潤を彷彿とさせる激烈な生涯とその幕引きを見せた青木辰男であるが、その作品からもまさに平成のアナキストと言う他ない骨太な印象を受ける。例えば以下に挙げる句は、1958年と59年のものである。今紹介した略歴で言えば、当時の「製菓工・遊機工・旋盤工等の職業」を転々とする生活と、それ以前の「学徒動員で火薬工場での労働に従事」した体験を重ね合わせながら描かれているのだろう。なお本稿に引用する
 句は遺作集『断声――ある夜鳴きそば屋の詩』中の「作品Ⅱ」に収められたもので、「俳句思考」に発表された14・15・34と、「早蕨」に発表された33の4句を除いて大半は句誌「つばき」に発表された。

 1 慣れぬ掌翳す火に少年工夫の顔      
 2 職のあてなく春塵に病癒ゆ
 3 破れ障子夜は悪魔のごとき蜘蛛      
 4 毛虫少年に刺され故なき不安
 5 寒い工場胎児を秘めた少女いて      
 6 春の太陽が欲しくつてと哭いた少年の瞳


 慣れぬ仕事に戸惑う少年工がいたり(1)、子を孕んでも働き続ける少女が登場したり(5)する。また、破れ障子の部屋に出る蜘蛛に怯える貧窮な生活が書かれる(3)。「毛虫」の句(4)は、「毛虫少年」という、他人に厭な思いをさせる少年が「語り手」に嫌がらせをするのか。或いは少年の心が「毛虫」を刺すほどにまでささくれ立っているというのか。解釈の幅はあるものの、読み手にとって文字通り「ちくり」と刺される思いの残る作品となっている。
 そんな中、僕が注目するのは「職のあてなく春塵に病癒ゆ」(2)である。普通の流れで言えば、「職のあてなく春塵に」と来れば、「病癒えず」であっても不思議ではない。しかし青木辰男の場合、職もなくあてどない春を過ごすうちに「身体に力が充満してくる」のだ。この好日性は恐ろしく強い。この頃の青木辰男の健康状態を実際に僕は知らないのだが、比喩的であったとしてもそのような健康さによってしか醸造されえない強靭なものを全作品の中から僕は思うのである。
 最後の「春の太陽が欲しくつて」(6)だけが1959年発表の作である。この句はややセンチメンタルな感じもする。しかし「太陽」という灼熱・頂点・輝き等を想起させるものを希求する少年の像に托して、抑えても抑えきれない生命力の蠢動を描いているという点で注目に値するものである。

3 「死」を通して噴出する社会句  
 上記のように、青木辰男の最初期作品群の中では、社会の中に生きる少年工に視点を置いた句が印象的である。少年や少女はその後もときどき句の中に現れている。最初の句が発表された時点ですでに彼は20代後半であり、句そのものが青木辰男を追って急速度に成長し始めた感が強い。少年の視点で語るには限界のある、もう少し広い視野から見た社会批判がそこには存在する。発表年は7が1962年、8・9が翌62年。10が66年で11が68年。12~15は1969年である。

 7 死塵 その原罪を封緘せよ        
 8 反戦詩 ひとすじの川涸れて黒し
 9 ふゆあおぞら 戦争の傷 子よ継ぐな   
 10 暗い演劇でしたね 人が人を殺すなんて
 11 斧砥ぐ男 昨日太陽を暗殺して      
 12 夜行列車 どこかで 呟(しわぶ)くはみ出されたひとり
 13  祖国喪失者(デラシネ)として眠る 夜は海に脚向け  
 14 死が重いとき全身を穴にして鳥墜つ
 15 真昼 宙吊りの兎 架橋に青年死ぬ
    

ダダイズムの詩人・高橋新吉は、シジンを「舐塵」と書いた。青木辰男は「死塵」と句で言う(7)。彼の目からは反戦詩の流れさえ、黒く涸れ上がって見える。並大抵の批評精神ではない(8)。戦争の傷への嫌悪は「ふゆあおぞら」という季語と的確に組みあわされることにより一層深いものとして印象付けられる(9)。「人が人を殺す」演劇などざら(・・)にある。しかし、考えてみればそれは確かに恐ろしいことである。我われは、あまりにも強い不感症に陥っているのだということを思い知らされる( 10)。「斧砥ぐ男」の句(11)からは、社会に対する激しい怒りが伝わって来る。しかし、彼の句は告発・攻撃に終始するわけではない。「夜行列車」の句(12)のように「はみだされた一人」に目は常に向けられている。小さなものへの眼差しを忘れない青木の句はいつも優しい。「 祖国(喪失者(デラシネ)」の句(13)は「夜は海に脚向け」という結句の存在によって、観念性を回避しえている。行き場のなくなった人が、大の字になって浜辺で寝てしまっている。辛いけれどもユーモラスな場面を僕は想像しながらこの句を読む。「死が重いとき」(14)「真昼 宙吊りの兎」(15)の句は「」を主題とする。最初の「死塵」の句(7)も同様である。それは青木辰男が彼の詩作品の中で次のように死者を位置づけていることを考えれば極めて重要な作品であると考えることができる。

 わたしのなかを降ってゆくと死者に会える
 わたしのなかを遡行すると更に多くの死者に会える
 そこで死者は絶対だ わたしは不安になる
 わたしの書いている詩が験されるのはその場所、その絶対の場所だ
 その場所で死者はあまりにちいさくてあやうく見過ごしそう
 てのひらにのるほどに縮んだ死者
 母の父のその負の先の祖のずっと奥まった場所にも――
 自然死の死者も 不条理の死者も
 斉しくこちらをみつめている
    
(「路頭抄」二 冒頭 「市民詩集」に1985年発表 )


 青木辰男は、「」「死者」の視点から現実社会の問題を鋭く照射していったのだが、俳句の中にも同様の意識が色濃く流れていることに読者は気付かされる。

4 キリストを轢(ひ)きマルクスを轢(ひ)き  

 16 春夜屋台車が軋むキリストを轢(ひ)きマルクスを轢(ひ)き
 17 車曳き車停め原点に冬と立つ


 遺作集『断声』裏表紙の帯に、1962年に発表された「キリストを轢(ひ)きマルクスを轢(ひ)き」(16)の句が載せられている。この句を帯に選んだのは編者の青木五郎である。このことを僕は、刊行後編者・版元とともに持った酒席で知った。この句を選んだことは編者の慧眼を示す。上記「」の問題意識を具体的に現し、なおかつ辰男その人のユニークな職歴をも知らしめる文字通り彼の代表作というに値するものだからだ。
 最初僕はこの句を「青木辰男が夜な夜な引っ張る夜鳴き屋台の中に、さりげなく聖書やマルクス関係の書籍を潜ませている」と読んでいた。実際に本を屋台の引き出しに入れている訳はなくとも、彼が読み漁ってきた思想そのものを「背負うように」引っ張りながら屋台を曳く、夜鳴きそば屋台のおやじが持つ気骨のようなものを想像していた。
しかしふと気付けば、「引く」「曳く」ではなく「轢く」なのだ。どうしてこんな簡単なことを見逃したかと恥ずかしく思ったが、それは遺作集『断声』の解説などを読み「青木辰男はそばの屋台を引いて(曳いて)いた」という類の言辞に何度も触れる中で、自然に「轢く」が、僕の頭の中で「引く」「曳く」に同化してしまっていたのかもしれない。 
 「キリストを轢(ひ)きマルクスを轢(ひ)き」という時、屋台を「引く」というよりもむしろ車輪でもって轢き殺すというような惨烈なイメージが付け加わる。「キリストを引きマルクスを曳き」に比べて、はるかに強い緊張感が漂うのだ。立場の違いはあれども、世界観の「核」の典型のような「キリスト」と「マルクス」。これらをともに「轢(ひ)く」以上、「それではお前はどこに思想の根拠を置くのか」と問われることは必然で、必然孤高の生を貫くことを要求される。青木辰男はそれをこの句の中で宣言しているのだ。「宣言」と書いたが、声高に叫ぶのではなく自分自身に対して確認するとでも言うほうがいいかもしれない。それはちょうど1964年発表の「車曳き車停め」の句(17)における「原点」を探る行為だということができる。
 青木辰男が「キリストを轢(ひ)きマルクスを轢(ひ)き」得るとすれば、それは「キリスト」「マルクス」について自分なりの踏み込みを行うという前提が当然のことながら必要とされる。というのも、「キリスト」「マルクス」がどこに存在するかを認識しない限りにおいては、その上に屋台を移動させ彼らを「轢(ひ)く」ことも出来ないからである。もっともすでに前節までで見たとおり「社会構造の矛盾」を体験的に句に作り上げてきた青木にとっては、「マルクス」は当然、親近感を感じる視点だったはずである。以下、5句加えておこう。18が1959年発表。その他は60年のものである。

 18 マルクス生る日居酒屋に労働論沸騰
 19 死の公園更けて漂泊者の焚火
 20 中道ゆく民衆でで虫のたしかな歩み
 21 酔えばプロレタリアの虚しさ夏夜はまだ明けない
 22 過酷なノルマ少年工星座逸れてより


 もう一方の雄である「キリスト」に関して、『断声』に収められた句を見る限りにおいては直接に触れたものは16の句以外には1963年「早蕨」誌に発表された「キリストのように痩せた男・青葉の翳り」の一句のみが見られる。しかし、この句の「キリスト」は、貧相な男の様相に関する比喩であって、この一句だけでは「キリスト」が青木辰男の中でどのような意味合いを持つのかはよく分からない。しかし、キリストの周辺あるいは「」というところまで目を広げれば、意外なまでに言及は多い。最初の3句は1959年、26~28の3句が60年。29~31が63年のもので、最後の32のみ64年発表である。

 23 神との約束なしビールに酔う休日
 24 汗し異教徒鉄挽きつつも無き聖痕
 25 枝豆たぶ神に近づき難き日も
 26 原罪意識募らせている寒夜の古壁   
 27 ノアの箱舟沈め冬河の虚しい流れ
 28 創世紀の扉をひらく鉄臭い掌をして
 29 無神の五指熱し聖夜の一市民
 30 神をもたない貌(かお)の冷たさも聖夜と思う
 31 枯野さながら黙示の言葉拒みつゞけ
 32 地下に眠るマリア・泥の手 遠太陽

 
 「神に近づき難き日」(26)を意識するということは「神に近づこう」という思いが裏にあることを示している。また「原罪意識」を持ち(26)「創世紀をひらく」(28)というように、キリストへと接近する様子が皆無という訳ではない。『旧約聖書』最初の「創世記」は「記」であるから、句中の「創世紀」を『旧約聖書』と短絡してはならないが、そこにその匂いを嗅ぐことは充分根拠のあることだろう。
 しかし、聖書的な世界への関心を片方に持ちながら、底流するのは「神との距離を保つ」態度である。「神との約束なし」(23)、「鉄挽きつつも無き聖痕」(24)、「ノアの箱舟沈め」(27)、「地下に眠るマリア」(32)等の言葉にそれは強く感じられる。さらには、「無神」(29)、「神をもたない」(30)、「黙示の言葉拒みつゞけ」(31)のように意識的な拒絶を明確に示す句も見られる。
 しかし、青木辰男のキリストへの距離をほんとうに指し示すのは以下の3句に尽きるのだと言える。「神へ石へ」の句(33)は実のところ、はじめ読んだ時情景がよく浮かんでこなかった。しかし、発表時期に2年の隔たりを持つ「女もっとも美しくなる」の句(34)や「神の言葉の裏側」の句(35)と合わせ読むとき、「神へも石へも」すなわち絶対神に帰依するとも石の石像(偶像)へ走るともなく夏野をさ迷う少女の危うさとそれゆえの美しさを絶賛するのである。発表は33が1963年、34が64年、35が69年である。

 33 神へ石へ危うくて美しい夏野の少女
 34 女もっとも美しくなる 神不在の刻   
 35 神の言葉の裏側の虫の自然死よ


 神がいない時刻や神の言葉の裏側。そういう場面でこそ、青木辰男の少女は、或いは「」はもっとも美しく生きられ、自然に生を終えることが出来るのである。
 キリストやマルクスに共鳴する。社会の矛盾を見据えそれを克服しようと喘ぐ。しかもキリストにもマルクスにも、その他なにものにも囚われることなく日夜蕎麦の台車を軋ませながら進んでゆく。キリストを「轢き」マルクスを「き」、孤立無援の生と表現を貫いたのが青木辰男という詩人であった。

00 あとがき
 俳句時評第2弾は青木辰男の俳句に触れた。
 青木辰男は大学時代のわが恩師のお兄様であり、そのご縁で遺作集を頂いたのだった。頁を開いた途端衝撃が走った。それで自分の中に挙げていたいくつかの候補をキャンセルし、本稿を書いた。
 ここでは触れることはしなかったが、青木辰男における俳句は彼の創作を考えるうえで極めて重要である。どの作者にも「重要ではない作品」なんてものはありえないが、彼は短歌・俳句・詩の順で創作をはじめ、ある一定期間全てを並走させたばかりか、1970年以降文芸誌への発表を詩に一本化した以降も、俳句や短歌の形式が彼の詩の重要な一面を担っているからである。本稿でカバーしきれなかったこれらのことについては稿を改めて別の場所に書きたいと思う。