「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 俳句について 小峰 慎也

2017年06月20日 | 日記
 この俳句についての連載、「ない」と思っていた3シーズン目に入ってしまった。
 俳句入門書を試す→句集を読む、と来て、次は俳句論を読むかと思わないでもないが、そこまでに興味がいたらない。
 先日、たまたま読んでいた『現代俳人文庫 4 阿部完市句集』に収録されていた「あべかんの難解俳句入門」という「俳論」が、とてもつまらなかったというのもあるかもしれない。いくら面白い俳句を作っていても、面白い考えで作っているわけではない、ということはわかったのだが。
 俳句という短いものに関して、ものをいいすぎると、いわなくてもいいことにまで踏み込んでしまうのだろうか、ぼんやりした神秘主義(自覚しているようだけど)になってしまっている。中国詩の韻律との比較検討に関しても、誰かがいったことを持ってきてもっともらしく仕立て上げているが、説明が不足していて、これもまたそうであるともそうでないともいえるような感じ。総じて、だらだら長く、ほとんど「一部の人」しか読んでない意識から来る甘さで書いているとしか思えない(と、自分自身の文章に関していっている気がしてきた)。
 が、同じ本に収録されている高野ムツオの解説を読んでいたら、阿部完市の評論活動の活発さに触れて、「気分」「共幻覚」「言葉の自然」「精神の季節」だとか、「現瞬間」「観念感覚」「断念」「定型感情」「自己律」といったふうに、キーワードとして「あべかん語」をくくりだしていたので、おやっと思った。続く飯島晴子も〈もっと孤を〉〈もっと個を〉〈主体へ向かう主体〉〈自己律〉〈精神の季節〉といった「テーマ」をキーワードとしてあげている。阿部完市の評論が、たしかめようもないことに、何かいろいろなものがあるようにいいはるだけのものとしたら、興味はないのだが、これらのキーワードが、「書くこと」や「読むこと」にきっかけを与えるようなものだとすれば、一応、確認だけはしておいたほうがいいと思えてきた。
 阿部完市は、「イメージ」について書いた、「わが《イメージ》論」(初出『俳句研究』1970年10月。『俳句幻形』(1975)所収。引用は単行本から)の中で、いちまいの葉を例に挙げ、まず、視覚よって得られる〈知覚〉と、葉を思ったときあらわれる〈表象〉とを対比する。「表象は、模像的で、不定の輪郭をもって、細部は部分的にしか分明でない。表象は、浮動し、溶け去り、たえず新たに産出されねばならない。意志に左右され、任意に生ぜしめられ、変化せしめ得る。そして、能動性の感を与え、結局は、知覚のごとく完全ではなく、不完全である。」。そして、〈イメージ〉を、「表象に、むしろ、ひどく近く位置し、「感覚のあとにのこされるもの」であり、それは知的心理操作ではなく、情動作業のひとつに近いと考えるべきものである。」とする。なぜ、「表象」と「イメージ」をことばとして分けているのだろうか。  
〈イメージ〉は、言葉の微光である。イメージとは、言葉と言葉との衝撃の発火である。だから、それは、かっきりしていることなく、明瞭でなく、完結するものではない。ひとつの思いに近くて、ひとつのかたちに、その色と動きと、それに人間の情動、気分とを加えた一定のニュアンスであり、ゆらめきである。」と続く。「言葉の微光」などということになってくると、たしかめようのない比喩に踏み込んだな、と思えるが、とりあえず置いておいて、「ひとつの思いに近くて」の「近くて」がまた気になるわけだ。近いとわざわざいうからには、それと同じようだが、微妙に違うということをいいたいのだろう。それとはちょっと違うんだけど、というとき、そうではない、いわれていることにぴったりくるわけではない、という感じが本人にあることは間違いないのだろうけど、と思ったが、これは一般論になりすぎるか。ただ、ここでも、なぜイコールで結んでしまわないのか、よくわからない余地を生んでいるだけではないのかと思ったりもするのである。
 さて、続く部分で、俳句につながる。「そして、このニュモンス〔ママ〕を、ゆらめきを、その不完全性を書き、本来的にある人間の精神作業の不安定さ――不安――を定着させる作業。これが一句を作(な)す、創る、ということになる。/イメージとは、存在のひらめきであり、気分であり、はぐらかしであり、だまくらかしであって、それを書き切ること、その不穏と微動とを書き切ったときに生成される一種のたしからしさ――リアリティ――、それを書き切ること、それが一句を書き、完成させるということである。」というわけだ。これは、ある程度、わかること、書く上でまあ一応感じとれるようなことを書いていると思えるが、「存在の」といわれると、また「向こう側」に入られた気がして、境界で行きつ戻りつしているのかなあと思えてしまう。理屈としての甘さが出てきてしまっているだけなのか判断に迷いもするが、理屈でわりきれないことをいおうとした結果なのだということも、続けて読めばわかるのだけど。
風を見るきれいな合図ぶらさげて」という自句に関して、こう書く。

 「風を見る」と書き、つぎに、なにを書くか、今、目の前にゆれ動いているものよりも確かなもの、私にとってより私の心のものとしての確定的なもの、を探す。探すために書く、言葉として、私の在り方の隙間から洩れ出てくる言葉を書く、いろいろ書く。風、吹く、見える、風立つ、きれいに吹く、淋しく吹く、林が動く、信州、野分、風が曲る、道を吹く。見る、ふらりと立って見入る。手にもって見る、ぶらさげてみる。風を見る、ぶらさげてみる。「風を見る、ぶらさげて見る」、このとき、ひとつの質感、なにかの影が私に見える。イメージがちらりと形を見せ、残りたい、在りたい、と言う。私は、その言葉を信用する。つづいて書く、ぶらさげる、紐、人間の絆、悪心、嘔気など、ぶらさげる、きれいにぶらさげる。もの、命名されることのないないかが手にある。なにか、風のなにからしい。信号だ、風への知らせだ、風からの知らせだ。風の合図だ、私の合図だ、きれいな合図だ。そして、私が、ここに在るようだ。在ることができる。ふしぎに在る。きれいな、合図をぶらさげて、風を見ている。それが、いま、私が在るということだ。風の中に在る、私、だ。

 頭がおかしい人のつぶやきのよう にも思える書き方だ。書かれていることは、そのとおりなのだろう。普通そこに立ちどまって、そこを「厳密に」書かないだけだ。だいたいの人が、ここを書いても無駄だと思う、その場所で書いている。すごいとは思わない。思わないが、ただの無駄ではない、なんだかいろいろに思わせる手がかりにはなっている。
 阿部完市は、「イメージ」を、「在る」ということのからみで書くのだが、その「在る」ということが、よくわからないのだ。「在る」ということ自体は、定義できるものではなく、俳句を作ることによって、「本来的にある人間の精神作業の不安定さ――不安――を定着させ」たときに、「在る」ということが少し見えるかたちになる。というようなことなのだろうけど、「在る」とか「存在」とかいう必要があるのかどうか。それをいうから、不必要に話がわからなくなっている気がするし、そここそ、どうとでもいえる、たしかめようのない部分なのではないか。
 常識感覚から素朴につっこめば、こんな程度で話が終わってしまい、それこそ指摘する必要もないとことにも思える。ただ阿部には、「在る」というしかない、いらだちがある。不安としてあらわれている人間の不安定さを定着させる、ということに、そういっただけではおさまらない、その行為をしているときの、定着に至る前のいらだちが、だから、とかとにかく、とかいいたくなる気持ちを残存させ、「在る」という「調子だけが高まっている場所」を設置させたのだということかもしれない。