東日本大震災から二年余りが経った。俳句雑誌には震災や原発を扱った幾多の俳句が見られたが、時間の経過につれてそうした句が句集というかたちでまとめられふたたび世に出るようになったのは、それがたとえ表層的な現象にすぎないとしても、この二年間におけるひとつの変化であったように思われる。そしてこのことはまた、あの二年前にほとんど痙攣的と言っていい速度でつくられた俳句を僕たちが再読できるような状況がやってきつつあるということでもあろう。だがその時に問われることになるのは、必ずしもその作品の表現としての良し悪しだけではあるまい。
たとえば震災直後に角川書店の『俳句』誌は「被災地にエールを!」と称して俳人の手になる「励ましの一句」を大量に掲載したが(二〇一一年五月号)、この「励ましの一句」のような作品群に対して、いまさらその表現の出来不出来をあげつらうことにあまり意味はあるまい。思えば、それらの句の表現の大部分がマンネリズムに陥っていたのはいわば当然であった。むしろ「励ましの一句」の表現に多様性があったとしたらそれは企画として失敗だったのである。「励ましの一句」という人道的な企画においては、個々の句の表現の凹凸は均され、それらがおよそ一義的な解釈が可能な「群」として展開されていてこそ意味があるのであった。そうしてまた、「励まし」とは何か、人道的とは何か、と問うこともあるべきではなかった。あるいは五・七・五に基づく美しい韻律とステレオタイプの詠嘆とを求める心性は否定されるべきではなかった。でも僕は、こうした「励ましの一句」で励まされたり励ましたりすることを読者の怠惰だとは思わないし、表現者の怠惰だとも思わない。「励ましの一句」で励ましたり励まされたりすることを否定するのはあまりにたやすい。そのようなたやすい批評は所詮たやすい批評精神に基づいていると思う。
ただ問題なのは、「励ましの一句」で励まされることがありうる僕たちが、一方でそうした句では救われないこともあるということだ。そして僕たちがこうした自身の二面性を肯定しつつ、それでも後者をまなざしていく道を選びとろうとしたとき、震災以来なされてきたいくつかの仕事が、いわば救われないままひとりで留守番をしている僕たちに向けられたそれとしてふいに立ち現れてくることもある。
今年二月、二〇〇四年から始まった『石牟礼道子全集 不知火』(藤原書店)の刊行がついに完結となったが、僕たちの頼りない心性を思うとき、石牟礼の仕事もまた多分に示唆的なものであった。全一七巻・別巻一からなる同全集のうち、昨年末刊行の第一五巻には俳句作品(句集『天』、句集未収録作品「玄郷」「水村紀行」「創作ノートより」)が収録されている。「苦海浄土」をはじめ、幾度となく水俣をテーマに作品を書き続けてきた石牟礼であるが、彼女の著作に散文や詩だけでなく俳句があることはあまり知られていないのではあるまいか。
『天』(一九八六、天籟俳句会)は石牟礼道子唯一の句集である。発行元の「天籟俳句会」からうかがえるように、同書は穴井太や『天籟通信』との関わりのなかで生まれた句集であった。一九六五年に句会案内のハガキ版として創刊された『天籟通信』は、もともとは横山白虹の主宰する『自鳴鐘』の戸畑支部句会の案内状のようなかたちであったが、翌六六年の十一号からは冊子の形態へと変わった。『天籟通信』創刊以前の穴井の足跡を振り返ると、穴井は一九五四年に二八歳で『自鳴鐘』に入会し、翌々年には『自鳴鐘』入会をすすめた益田清が創刊した同人誌『未来派』の発行所を引き受けている。さらに五八年には益田らと戸畑俳句協会を結成、五九年に九州同人誌会議を開催し、ここから「九州俳句作家協会」が誕生する。また六四年には現代俳句西日本地区会議も発足している。つまり『天籟通信』とは、北九州を中心とする俳人のネットワークを創出しようとする試行錯誤のなかで、新たな一手として生まれたものであった。冊子化された十一号以降「句会研究誌」を名乗っていたことからもわかるように、『天籟通信』は句会を土台とする俳誌であった。この句会は『自鳴鐘』の支部句会から始まったが、やがて青年たちや自鳴鐘会員以外の者が加わっていくなかで、句会だけでは消化できないことがらをより深く追求していく場として設けられたのが十一号以降の『天籟通信』であった。
この『天籟通信』が石牟礼道子と直接の関わりを持ったのは一九七一年のことである。この年、穴井は自宅で六回にわたって「天籟塾」を開講している。講師は第一回から順に河野信子、前田俊彦、松下竜一、岡村昭彦、石牟礼道子、上野英信。俳誌での企画でありながら俳人は講師として招聘されず、むしろ九州という風土に対峙して仕事をしてきた人たちの名が多く挙がっている。このうち、筑豊炭田に住みながら炭鉱の記録文学を書き続けた上野英信は『天籟通信』創刊以前から穴井と親交があり、同誌にも幾度となく文章を寄せていた。上野はまた『サークル村』(一九五八~六一)を発行していたことでも知られている。この『サークル村』には石牟礼も参加していた。
『サークル村』は、谷川雁、上野英信、森崎和江、石牟礼道子ら、九州を拠点として活動した著名な知識人が参加したことで知られる。しかし、『サークル村』はインテリ作家による同人誌としてではなく、サークル誌として創刊された。しかも、『サークル村』は、全国各地で発行されていた無数のサークル誌の一つには留まらなかった。『サークル村』は、様々なバックグラウンドをもつサークル運動家を結合し、九州・山口に「巨大サークル」を生みだすことを企図して創刊された。こうした『サークル村』の試みは、『サークル村』創刊に先立って各地に存在した多様なサークルをネットワーク化することによって実現した。(水溜真由美「サークルネットワークとしての『サークル村』」『北海道大学文学研究科紀要』二〇〇九)
一九五〇年代半ばは水溜のいうようにサークル活動のピーク時であったが、同時に穴井が俳人としての活動を本格化させていった時期でもあった。『天籟通信』創刊に至るまでの穴井の試行錯誤の背景にはこうしたサークル活動の隆盛という状況もあったのである。
さて話を天籟塾に戻せば、『天籟通信』では石牟礼を次のように紹介している。
一九五三年水俣病第一号患者発生以来、「水俣病はわたしたち自身の中枢神経の病い」と宣言、以後十余年にわたって、患者一人ひとりからの克明な聞き書きを記録し、人間の生命に加えられた耐えがたい汚辱を告発しつづけ、未だ立ち迷っている“死霊・生霊”たちにかわって、現代の“語部”として土語による“文闘”を執拗にくり広げている。(恒成巧「石牟礼道子・聞書Ⅰ」『天籟通信』天籟塾 一九七二・七)
土着語を意味する「土語」とは当時の『天籟通信』のキーワードであり、穴井の句集名にもなった言葉であった。つまり石牟礼の招聘は、サークル活動の隆盛とネットワークの整備、そして自らの負う風土を表現として昇華しようとする『天籟通信』の試行とが交差したときに生まれたのであった。
ところで、石牟礼はこの天籟塾のなかで次のように発言している。
いつも皆様方の雑誌を見せて戴いておりまして、今日は皆さん方から俳句を教えてもらおうかと思って参りましたんですけども、この頃俳句が大好きになって、ちょっと書いて一人で喜んでおりまして、(以下略)(前掲「石牟礼道子・聞書Ⅰ」)
全集にもこうした発言のあった一九七〇年代の俳句が収められているが、それにしても不思議なのは、かつて短歌との訣別を経験したはずの石牟礼が「苦海浄土」を経て短詩型に戻ってきたことである。
井上洋子は石牟礼について、
狂へばかの祖母のごとくに縁先よりけり落とさるゝならむか吾も
という歌を含む連作「血族」に詠まれたような「〈自己を流れる血の色〉を確かめたいという短歌に託した願望」があったことを指摘している(「五〇年代サークル誌との共振性」『石牟礼道子全句集 不知火』第一五巻栞)。
そこゆけば逢魔ヶ原ぞ 姫ふりかえれ
鬼女ひとりいて後ろむき 彼岸花
薄原分けて舟来るひとつ目姫乗せて
前の世のわれかもしれず薄野にて
石牟礼のこうした句は、かつての短歌への願望が俳句形式をかりて再び現出したもののようにも思われる。だが、石牟礼にとって短歌は自らの願望を託す形式であり続けることのできない形式でもあった。
短歌そのものについて、私にとってにがへしくもいとおしいのは、ともすればえたいの知れない詠嘆性だ。これは、でもこわい。短歌は結局、詠嘆にはじまり詠嘆に帰結するのではないかしらと云うしごく当り前のことに対する疑問、詩人の民族的権威をもって詠われた詠嘆の時代はもうすぎ去ったのか。(略)
架空の小市民的団欒、それをもって芸術的であると思い込んでいた理科教室の標本箱の雲母のようにうすい幻想。永久に生活に根づくことのないサロンへの憧憬。そのような中間性から生れる限り短歌はついに文芸でしかあり得ない。(「詠嘆へのわかれ」『南風』一九五九・三)
井上洋子はこの「詠嘆へのわかれ」について「歌友の自死や進行する水俣病の惨状を〈心中深い短歌の挫折〉と受け止めて、短歌の詠嘆性への訣別を告げた評論」であるとしている。かつては「短歌は私の初恋」と言って憚らなかった石牟礼だが、ここでは短歌の「詠嘆性」(あるいは歌人を取り巻く環境)と自らの志す表現(あるいは表現者としてのありかた)との間に齟齬が生じている。とすれば、石牟礼がこの短歌との訣別の十年余り後、俳句をつくり始めた石牟礼が「この頃俳句が大好きになって、ちょっと書いて一人で喜んでおりまして」というような、いかにも楽しげな様子であるのは何故だろうか。
石牟礼には句集名と同じ「天」を詠んだ句もある。
祈るべき天とおもえど天の病む
石牟礼は震災後の藤原新也との対談で震災後の僕たちの行く末について運命論的な見解を披瀝しているが(『なみだふるはな』河出書房新社、二〇一二)、そのような認識は、「天の病む」と詠んだかつての石牟礼と地続きのものであったろう。そして石牟礼の句は「天の病」んだ世を生きる人間の姿をうつしだしている。
わが酔えば花のようなる雪月夜 『天』
さくらさくらわが不知火はひかり凪 『天』
童んべの神々うたう水の声 「水村紀行」
坂道をゆく夢亡母とはだしにて 「水村紀行」
女童や花恋う声が今際にて 「水村紀行」
花ふぶき生死のはては知らざりき 「水村紀行」
わが耳のねむれる貝に春の潮 「創作ノートより」
わが干支は魚花みみず猫その他 「創作ノートより」
石牟礼は「後生の桜」のなかで、水俣病で肢体不自由となった娘がやがて花の精と化してゆくさまを描いたが、とすれば「花ふぶき生死のはては知らざりき」とは決して悲劇的な意味合いの句ではあるまい。石牟礼は死者と交感しながら「天の病」んだ此岸を肯定していくのである。ともすれば〈心中深い短歌の挫折〉へと繋がるものであったはずの不知火も、それを「わが不知火」として引き取ろうとするとき、そこに「ひかり」が見え、踊るような「さくらさくら」のリズムとともに導き出される「不知火」となりえたのではあるまいか。そしてそれは、救いがたい「不知火」の救済であるとともに、そこに生きる自らを含めた人間を救済する言葉であったようにも思われる。「苦海浄土」を経過した石牟礼はそのような言葉を口寄せることのできる場所にたどり着いていたのである。
たとえば震災直後に角川書店の『俳句』誌は「被災地にエールを!」と称して俳人の手になる「励ましの一句」を大量に掲載したが(二〇一一年五月号)、この「励ましの一句」のような作品群に対して、いまさらその表現の出来不出来をあげつらうことにあまり意味はあるまい。思えば、それらの句の表現の大部分がマンネリズムに陥っていたのはいわば当然であった。むしろ「励ましの一句」の表現に多様性があったとしたらそれは企画として失敗だったのである。「励ましの一句」という人道的な企画においては、個々の句の表現の凹凸は均され、それらがおよそ一義的な解釈が可能な「群」として展開されていてこそ意味があるのであった。そうしてまた、「励まし」とは何か、人道的とは何か、と問うこともあるべきではなかった。あるいは五・七・五に基づく美しい韻律とステレオタイプの詠嘆とを求める心性は否定されるべきではなかった。でも僕は、こうした「励ましの一句」で励まされたり励ましたりすることを読者の怠惰だとは思わないし、表現者の怠惰だとも思わない。「励ましの一句」で励ましたり励まされたりすることを否定するのはあまりにたやすい。そのようなたやすい批評は所詮たやすい批評精神に基づいていると思う。
ただ問題なのは、「励ましの一句」で励まされることがありうる僕たちが、一方でそうした句では救われないこともあるということだ。そして僕たちがこうした自身の二面性を肯定しつつ、それでも後者をまなざしていく道を選びとろうとしたとき、震災以来なされてきたいくつかの仕事が、いわば救われないままひとりで留守番をしている僕たちに向けられたそれとしてふいに立ち現れてくることもある。
今年二月、二〇〇四年から始まった『石牟礼道子全集 不知火』(藤原書店)の刊行がついに完結となったが、僕たちの頼りない心性を思うとき、石牟礼の仕事もまた多分に示唆的なものであった。全一七巻・別巻一からなる同全集のうち、昨年末刊行の第一五巻には俳句作品(句集『天』、句集未収録作品「玄郷」「水村紀行」「創作ノートより」)が収録されている。「苦海浄土」をはじめ、幾度となく水俣をテーマに作品を書き続けてきた石牟礼であるが、彼女の著作に散文や詩だけでなく俳句があることはあまり知られていないのではあるまいか。
『天』(一九八六、天籟俳句会)は石牟礼道子唯一の句集である。発行元の「天籟俳句会」からうかがえるように、同書は穴井太や『天籟通信』との関わりのなかで生まれた句集であった。一九六五年に句会案内のハガキ版として創刊された『天籟通信』は、もともとは横山白虹の主宰する『自鳴鐘』の戸畑支部句会の案内状のようなかたちであったが、翌六六年の十一号からは冊子の形態へと変わった。『天籟通信』創刊以前の穴井の足跡を振り返ると、穴井は一九五四年に二八歳で『自鳴鐘』に入会し、翌々年には『自鳴鐘』入会をすすめた益田清が創刊した同人誌『未来派』の発行所を引き受けている。さらに五八年には益田らと戸畑俳句協会を結成、五九年に九州同人誌会議を開催し、ここから「九州俳句作家協会」が誕生する。また六四年には現代俳句西日本地区会議も発足している。つまり『天籟通信』とは、北九州を中心とする俳人のネットワークを創出しようとする試行錯誤のなかで、新たな一手として生まれたものであった。冊子化された十一号以降「句会研究誌」を名乗っていたことからもわかるように、『天籟通信』は句会を土台とする俳誌であった。この句会は『自鳴鐘』の支部句会から始まったが、やがて青年たちや自鳴鐘会員以外の者が加わっていくなかで、句会だけでは消化できないことがらをより深く追求していく場として設けられたのが十一号以降の『天籟通信』であった。
この『天籟通信』が石牟礼道子と直接の関わりを持ったのは一九七一年のことである。この年、穴井は自宅で六回にわたって「天籟塾」を開講している。講師は第一回から順に河野信子、前田俊彦、松下竜一、岡村昭彦、石牟礼道子、上野英信。俳誌での企画でありながら俳人は講師として招聘されず、むしろ九州という風土に対峙して仕事をしてきた人たちの名が多く挙がっている。このうち、筑豊炭田に住みながら炭鉱の記録文学を書き続けた上野英信は『天籟通信』創刊以前から穴井と親交があり、同誌にも幾度となく文章を寄せていた。上野はまた『サークル村』(一九五八~六一)を発行していたことでも知られている。この『サークル村』には石牟礼も参加していた。
『サークル村』は、谷川雁、上野英信、森崎和江、石牟礼道子ら、九州を拠点として活動した著名な知識人が参加したことで知られる。しかし、『サークル村』はインテリ作家による同人誌としてではなく、サークル誌として創刊された。しかも、『サークル村』は、全国各地で発行されていた無数のサークル誌の一つには留まらなかった。『サークル村』は、様々なバックグラウンドをもつサークル運動家を結合し、九州・山口に「巨大サークル」を生みだすことを企図して創刊された。こうした『サークル村』の試みは、『サークル村』創刊に先立って各地に存在した多様なサークルをネットワーク化することによって実現した。(水溜真由美「サークルネットワークとしての『サークル村』」『北海道大学文学研究科紀要』二〇〇九)
一九五〇年代半ばは水溜のいうようにサークル活動のピーク時であったが、同時に穴井が俳人としての活動を本格化させていった時期でもあった。『天籟通信』創刊に至るまでの穴井の試行錯誤の背景にはこうしたサークル活動の隆盛という状況もあったのである。
さて話を天籟塾に戻せば、『天籟通信』では石牟礼を次のように紹介している。
一九五三年水俣病第一号患者発生以来、「水俣病はわたしたち自身の中枢神経の病い」と宣言、以後十余年にわたって、患者一人ひとりからの克明な聞き書きを記録し、人間の生命に加えられた耐えがたい汚辱を告発しつづけ、未だ立ち迷っている“死霊・生霊”たちにかわって、現代の“語部”として土語による“文闘”を執拗にくり広げている。(恒成巧「石牟礼道子・聞書Ⅰ」『天籟通信』天籟塾 一九七二・七)
土着語を意味する「土語」とは当時の『天籟通信』のキーワードであり、穴井の句集名にもなった言葉であった。つまり石牟礼の招聘は、サークル活動の隆盛とネットワークの整備、そして自らの負う風土を表現として昇華しようとする『天籟通信』の試行とが交差したときに生まれたのであった。
ところで、石牟礼はこの天籟塾のなかで次のように発言している。
いつも皆様方の雑誌を見せて戴いておりまして、今日は皆さん方から俳句を教えてもらおうかと思って参りましたんですけども、この頃俳句が大好きになって、ちょっと書いて一人で喜んでおりまして、(以下略)(前掲「石牟礼道子・聞書Ⅰ」)
全集にもこうした発言のあった一九七〇年代の俳句が収められているが、それにしても不思議なのは、かつて短歌との訣別を経験したはずの石牟礼が「苦海浄土」を経て短詩型に戻ってきたことである。
井上洋子は石牟礼について、
狂へばかの祖母のごとくに縁先よりけり落とさるゝならむか吾も
という歌を含む連作「血族」に詠まれたような「〈自己を流れる血の色〉を確かめたいという短歌に託した願望」があったことを指摘している(「五〇年代サークル誌との共振性」『石牟礼道子全句集 不知火』第一五巻栞)。
そこゆけば逢魔ヶ原ぞ 姫ふりかえれ
鬼女ひとりいて後ろむき 彼岸花
薄原分けて舟来るひとつ目姫乗せて
前の世のわれかもしれず薄野にて
石牟礼のこうした句は、かつての短歌への願望が俳句形式をかりて再び現出したもののようにも思われる。だが、石牟礼にとって短歌は自らの願望を託す形式であり続けることのできない形式でもあった。
短歌そのものについて、私にとってにがへしくもいとおしいのは、ともすればえたいの知れない詠嘆性だ。これは、でもこわい。短歌は結局、詠嘆にはじまり詠嘆に帰結するのではないかしらと云うしごく当り前のことに対する疑問、詩人の民族的権威をもって詠われた詠嘆の時代はもうすぎ去ったのか。(略)
架空の小市民的団欒、それをもって芸術的であると思い込んでいた理科教室の標本箱の雲母のようにうすい幻想。永久に生活に根づくことのないサロンへの憧憬。そのような中間性から生れる限り短歌はついに文芸でしかあり得ない。(「詠嘆へのわかれ」『南風』一九五九・三)
井上洋子はこの「詠嘆へのわかれ」について「歌友の自死や進行する水俣病の惨状を〈心中深い短歌の挫折〉と受け止めて、短歌の詠嘆性への訣別を告げた評論」であるとしている。かつては「短歌は私の初恋」と言って憚らなかった石牟礼だが、ここでは短歌の「詠嘆性」(あるいは歌人を取り巻く環境)と自らの志す表現(あるいは表現者としてのありかた)との間に齟齬が生じている。とすれば、石牟礼がこの短歌との訣別の十年余り後、俳句をつくり始めた石牟礼が「この頃俳句が大好きになって、ちょっと書いて一人で喜んでおりまして」というような、いかにも楽しげな様子であるのは何故だろうか。
石牟礼には句集名と同じ「天」を詠んだ句もある。
祈るべき天とおもえど天の病む
石牟礼は震災後の藤原新也との対談で震災後の僕たちの行く末について運命論的な見解を披瀝しているが(『なみだふるはな』河出書房新社、二〇一二)、そのような認識は、「天の病む」と詠んだかつての石牟礼と地続きのものであったろう。そして石牟礼の句は「天の病」んだ世を生きる人間の姿をうつしだしている。
わが酔えば花のようなる雪月夜 『天』
さくらさくらわが不知火はひかり凪 『天』
童んべの神々うたう水の声 「水村紀行」
坂道をゆく夢亡母とはだしにて 「水村紀行」
女童や花恋う声が今際にて 「水村紀行」
花ふぶき生死のはては知らざりき 「水村紀行」
わが耳のねむれる貝に春の潮 「創作ノートより」
わが干支は魚花みみず猫その他 「創作ノートより」
石牟礼は「後生の桜」のなかで、水俣病で肢体不自由となった娘がやがて花の精と化してゆくさまを描いたが、とすれば「花ふぶき生死のはては知らざりき」とは決して悲劇的な意味合いの句ではあるまい。石牟礼は死者と交感しながら「天の病」んだ此岸を肯定していくのである。ともすれば〈心中深い短歌の挫折〉へと繋がるものであったはずの不知火も、それを「わが不知火」として引き取ろうとするとき、そこに「ひかり」が見え、踊るような「さくらさくら」のリズムとともに導き出される「不知火」となりえたのではあるまいか。そしてそれは、救いがたい「不知火」の救済であるとともに、そこに生きる自らを含めた人間を救済する言葉であったようにも思われる。「苦海浄土」を経過した石牟礼はそのような言葉を口寄せることのできる場所にたどり着いていたのである。