「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評 第85回 石牟礼道子の俳句 外山一機

2013年03月28日 | 日記
 東日本大震災から二年余りが経った。俳句雑誌には震災や原発を扱った幾多の俳句が見られたが、時間の経過につれてそうした句が句集というかたちでまとめられふたたび世に出るようになったのは、それがたとえ表層的な現象にすぎないとしても、この二年間におけるひとつの変化であったように思われる。そしてこのことはまた、あの二年前にほとんど痙攣的と言っていい速度でつくられた俳句を僕たちが再読できるような状況がやってきつつあるということでもあろう。だがその時に問われることになるのは、必ずしもその作品の表現としての良し悪しだけではあるまい。

 たとえば震災直後に角川書店の『俳句』誌は「被災地にエールを!」と称して俳人の手になる「励ましの一句」を大量に掲載したが(二〇一一年五月号)、この「励ましの一句」のような作品群に対して、いまさらその表現の出来不出来をあげつらうことにあまり意味はあるまい。思えば、それらの句の表現の大部分がマンネリズムに陥っていたのはいわば当然であった。むしろ「励ましの一句」の表現に多様性があったとしたらそれは企画として失敗だったのである。「励ましの一句」という人道的な企画においては、個々の句の表現の凹凸は均され、それらがおよそ一義的な解釈が可能な「群」として展開されていてこそ意味があるのであった。そうしてまた、「励まし」とは何か、人道的とは何か、と問うこともあるべきではなかった。あるいは五・七・五に基づく美しい韻律とステレオタイプの詠嘆とを求める心性は否定されるべきではなかった。でも僕は、こうした「励ましの一句」で励まされたり励ましたりすることを読者の怠惰だとは思わないし、表現者の怠惰だとも思わない。「励ましの一句」で励ましたり励まされたりすることを否定するのはあまりにたやすい。そのようなたやすい批評は所詮たやすい批評精神に基づいていると思う。

 ただ問題なのは、「励ましの一句」で励まされることがありうる僕たちが、一方でそうした句では救われないこともあるということだ。そして僕たちがこうした自身の二面性を肯定しつつ、それでも後者をまなざしていく道を選びとろうとしたとき、震災以来なされてきたいくつかの仕事が、いわば救われないままひとりで留守番をしている僕たちに向けられたそれとしてふいに立ち現れてくることもある。

 今年二月、二〇〇四年から始まった『石牟礼道子全集 不知火』(藤原書店)の刊行がついに完結となったが、僕たちの頼りない心性を思うとき、石牟礼の仕事もまた多分に示唆的なものであった。全一七巻・別巻一からなる同全集のうち、昨年末刊行の第一五巻には俳句作品(句集『天』、句集未収録作品「玄郷」「水村紀行」「創作ノートより」)が収録されている。「苦海浄土」をはじめ、幾度となく水俣をテーマに作品を書き続けてきた石牟礼であるが、彼女の著作に散文や詩だけでなく俳句があることはあまり知られていないのではあるまいか。

 『天』(一九八六、天籟俳句会)は石牟礼道子唯一の句集である。発行元の「天籟俳句会」からうかがえるように、同書は穴井太や『天籟通信』との関わりのなかで生まれた句集であった。一九六五年に句会案内のハガキ版として創刊された『天籟通信』は、もともとは横山白虹の主宰する『自鳴鐘』の戸畑支部句会の案内状のようなかたちであったが、翌六六年の十一号からは冊子の形態へと変わった。『天籟通信』創刊以前の穴井の足跡を振り返ると、穴井は一九五四年に二八歳で『自鳴鐘』に入会し、翌々年には『自鳴鐘』入会をすすめた益田清が創刊した同人誌『未来派』の発行所を引き受けている。さらに五八年には益田らと戸畑俳句協会を結成、五九年に九州同人誌会議を開催し、ここから「九州俳句作家協会」が誕生する。また六四年には現代俳句西日本地区会議も発足している。つまり『天籟通信』とは、北九州を中心とする俳人のネットワークを創出しようとする試行錯誤のなかで、新たな一手として生まれたものであった。冊子化された十一号以降「句会研究誌」を名乗っていたことからもわかるように、『天籟通信』は句会を土台とする俳誌であった。この句会は『自鳴鐘』の支部句会から始まったが、やがて青年たちや自鳴鐘会員以外の者が加わっていくなかで、句会だけでは消化できないことがらをより深く追求していく場として設けられたのが十一号以降の『天籟通信』であった。

 この『天籟通信』が石牟礼道子と直接の関わりを持ったのは一九七一年のことである。この年、穴井は自宅で六回にわたって「天籟塾」を開講している。講師は第一回から順に河野信子、前田俊彦、松下竜一、岡村昭彦、石牟礼道子、上野英信。俳誌での企画でありながら俳人は講師として招聘されず、むしろ九州という風土に対峙して仕事をしてきた人たちの名が多く挙がっている。このうち、筑豊炭田に住みながら炭鉱の記録文学を書き続けた上野英信は『天籟通信』創刊以前から穴井と親交があり、同誌にも幾度となく文章を寄せていた。上野はまた『サークル村』(一九五八~六一)を発行していたことでも知られている。この『サークル村』には石牟礼も参加していた。

 『サークル村』は、谷川雁、上野英信、森崎和江、石牟礼道子ら、九州を拠点として活動した著名な知識人が参加したことで知られる。しかし、『サークル村』はインテリ作家による同人誌としてではなく、サークル誌として創刊された。しかも、『サークル村』は、全国各地で発行されていた無数のサークル誌の一つには留まらなかった。『サークル村』は、様々なバックグラウンドをもつサークル運動家を結合し、九州・山口に「巨大サークル」を生みだすことを企図して創刊された。こうした『サークル村』の試みは、『サークル村』創刊に先立って各地に存在した多様なサークルをネットワーク化することによって実現した。(水溜真由美「サークルネットワークとしての『サークル村』」『北海道大学文学研究科紀要』二〇〇九)

 一九五〇年代半ばは水溜のいうようにサークル活動のピーク時であったが、同時に穴井が俳人としての活動を本格化させていった時期でもあった。『天籟通信』創刊に至るまでの穴井の試行錯誤の背景にはこうしたサークル活動の隆盛という状況もあったのである。
さて話を天籟塾に戻せば、『天籟通信』では石牟礼を次のように紹介している。

 一九五三年水俣病第一号患者発生以来、「水俣病はわたしたち自身の中枢神経の病い」と宣言、以後十余年にわたって、患者一人ひとりからの克明な聞き書きを記録し、人間の生命に加えられた耐えがたい汚辱を告発しつづけ、未だ立ち迷っている“死霊・生霊”たちにかわって、現代の“語部”として土語による“文闘”を執拗にくり広げている。(恒成巧「石牟礼道子・聞書Ⅰ」『天籟通信』天籟塾 一九七二・七)

 土着語を意味する「土語」とは当時の『天籟通信』のキーワードであり、穴井の句集名にもなった言葉であった。つまり石牟礼の招聘は、サークル活動の隆盛とネットワークの整備、そして自らの負う風土を表現として昇華しようとする『天籟通信』の試行とが交差したときに生まれたのであった。
 ところで、石牟礼はこの天籟塾のなかで次のように発言している。
 
 いつも皆様方の雑誌を見せて戴いておりまして、今日は皆さん方から俳句を教えてもらおうかと思って参りましたんですけども、この頃俳句が大好きになって、ちょっと書いて一人で喜んでおりまして、(以下略)(前掲「石牟礼道子・聞書Ⅰ」)
 
 全集にもこうした発言のあった一九七〇年代の俳句が収められているが、それにしても不思議なのは、かつて短歌との訣別を経験したはずの石牟礼が「苦海浄土」を経て短詩型に戻ってきたことである。
井上洋子は石牟礼について、

狂へばかの祖母のごとくに縁先よりけり落とさるゝならむか吾も

という歌を含む連作「血族」に詠まれたような「〈自己を流れる血の色〉を確かめたいという短歌に託した願望」があったことを指摘している(「五〇年代サークル誌との共振性」『石牟礼道子全句集 不知火』第一五巻栞)。

そこゆけば逢魔ヶ原ぞ 姫ふりかえれ
鬼女ひとりいて後ろむき 彼岸花
薄原分けて舟来るひとつ目姫乗せて
前の世のわれかもしれず薄野にて


 石牟礼のこうした句は、かつての短歌への願望が俳句形式をかりて再び現出したもののようにも思われる。だが、石牟礼にとって短歌は自らの願望を託す形式であり続けることのできない形式でもあった。

 短歌そのものについて、私にとってにがへしくもいとおしいのは、ともすればえたいの知れない詠嘆性だ。これは、でもこわい。短歌は結局、詠嘆にはじまり詠嘆に帰結するのではないかしらと云うしごく当り前のことに対する疑問、詩人の民族的権威をもって詠われた詠嘆の時代はもうすぎ去ったのか。(略)
 架空の小市民的団欒、それをもって芸術的であると思い込んでいた理科教室の標本箱の雲母のようにうすい幻想。永久に生活に根づくことのないサロンへの憧憬。そのような中間性から生れる限り短歌はついに文芸でしかあり得ない。(「詠嘆へのわかれ」『南風』一九五九・三)

井上洋子はこの「詠嘆へのわかれ」について「歌友の自死や進行する水俣病の惨状を〈心中深い短歌の挫折〉と受け止めて、短歌の詠嘆性への訣別を告げた評論」であるとしている。かつては「短歌は私の初恋」と言って憚らなかった石牟礼だが、ここでは短歌の「詠嘆性」(あるいは歌人を取り巻く環境)と自らの志す表現(あるいは表現者としてのありかた)との間に齟齬が生じている。とすれば、石牟礼がこの短歌との訣別の十年余り後、俳句をつくり始めた石牟礼が「この頃俳句が大好きになって、ちょっと書いて一人で喜んでおりまして」というような、いかにも楽しげな様子であるのは何故だろうか。
石牟礼には句集名と同じ「天」を詠んだ句もある。

祈るべき天とおもえど天の病む

石牟礼は震災後の藤原新也との対談で震災後の僕たちの行く末について運命論的な見解を披瀝しているが(『なみだふるはな』河出書房新社、二〇一二)、そのような認識は、「天の病む」と詠んだかつての石牟礼と地続きのものであったろう。そして石牟礼の句は「天の病」んだ世を生きる人間の姿をうつしだしている。

わが酔えば花のようなる雪月夜   『天』
さくらさくらわが不知火はひかり凪   『天』
童んべの神々うたう水の声   「水村紀行」
坂道をゆく夢亡母とはだしにて   「水村紀行」
女童や花恋う声が今際にて   「水村紀行」
花ふぶき生死のはては知らざりき   「水村紀行」
わが耳のねむれる貝に春の潮   「創作ノートより」
わが干支は魚花みみず猫その他   「創作ノートより」
  
 石牟礼は「後生の桜」のなかで、水俣病で肢体不自由となった娘がやがて花の精と化してゆくさまを描いたが、とすれば「花ふぶき生死のはては知らざりき」とは決して悲劇的な意味合いの句ではあるまい。石牟礼は死者と交感しながら「天の病」んだ此岸を肯定していくのである。ともすれば〈心中深い短歌の挫折〉へと繋がるものであったはずの不知火も、それを「わが不知火」として引き取ろうとするとき、そこに「ひかり」が見え、踊るような「さくらさくら」のリズムとともに導き出される「不知火」となりえたのではあるまいか。そしてそれは、救いがたい「不知火」の救済であるとともに、そこに生きる自らを含めた人間を救済する言葉であったようにも思われる。「苦海浄土」を経過した石牟礼はそのような言葉を口寄せることのできる場所にたどり着いていたのである。

俳句時評 第84回 赤黄男経由 金原まさ子『カルナヴァル』。 山田耕司

2013年03月16日 | 日記
マコト「拘束具?」
リツコ「そうよ。あれは装甲板ではないの。
エヴァ本来の力を私たちが押え込むための拘束具なのよ。」
新世紀エヴァンゲリオン 第拾九話より


「詩客」における俳句時評、山田耕司の当番はこれが最後。
第一回は2011年4月29日掲載。読み返してみると、当時の計画停電などのことを鮮明に思い出す。
余震も続き、寝室には運動靴が備えられていた。



もう最終回だから、気になることは言及しておこう。

このサイトの巻頭の言葉だが、これがどうにも腑に落ちない。

現在の日本には、短歌、俳句、自由詩という三つの詩型があり、共存しているといって良いでしょう。三つの詩型はお互いに影響しあっていますが、住み分けがされているのが現状です。そのことが日本の詩にとって幸せなのかは、はなはだ疑問です。
「詩歌梁山泊~三詩型交流企画」は活動の一環として、サイト「詩客 SHIKAKU」を立ち上げました。三詩型の作品や評論を掲載し、それぞれの詩型の特徴や相違点を考え、時には融合するなどし、これからの表現の可能性を探ります。それは戦後の詩歌の時間を問いなおす試みでもあります。

たとえば川柳はどうなのよ、とツッコミたいところではある。また、それぞれの詩型の特徴や相違点を考え、時には融合するなどし、表現の可能性を探ることが、どうして「戦後の詩歌の時間を問いなおす試み」になるのかを、もう少し説明してもらいたいところでもある。
ともあれ、そうしたところを考えることこそが「表現の可能性」を探ることだ、という見解が示されそうでもあることだし、そもそも、こうしたツッコミどころが、「腑に落ちない」ことの原因ではない。

○ 詩歌は三つの型にわかれている。
○ 三つは互いに国境を接している。
○ それぞれが自己の境域に住み分けているのは不幸なことである。

上記の認識をかいつまんでみるとこういうことになるわけで、つまりは、「日本の詩」というくくりにおいて本来ひとつになるはずのところが離ればなれになっている、ひとつになってみようよ、という考え方が根のあたりにあるようなのである。悪くはない。意欲的である。しかしながら、特徴や相違点を「型」という単位において検証し、以て現代の「日本の詩」の「表現の可能性」を見いだそうとすることに、構造的な無理があるのではないか。



端的に言ってしまえば、「現代」とは、自らの依る「型」そのものの領域を疑うところからこそ始まったのではなかったか。

定型とは、茶碗のやうに置かれてあるものであらうか。
   *
俳句という定型詩も詩の一つの方法である。
俳句が、つねに一行にかかれ、一行に印刷してあることに、なにか俳句という短詩の性格があると思はれてゐるのではあるまいか。
このやうな思考からなされる俳句論が現に書かれてゐることは事実である。
俳句の定型論がいつも固形論になつてしまふのである。無精卵的詩論の抬頭。

俳句精神といふ、変に特別種の精神が、詩精神の外にいかめしくもあるかのやうな俳句本質論。

なにかによりかからねばおれない批評精神。
家鴨のやうに、よたよたの知性。
季題といふ帽子。あるひはギブスあるひはカサブタ。
季語といふ帽子をかむつて便所へもゆく俳人である。ただ無意識に帽子をかむるが、なんのためにかむるか別に大した問題ではないらしいのである。そしてかむつてゐるのがなんであるかさへ忘れてゐる。あるひはギブスをはめなければたもてぬ肉体であるらしい。
季題といふカサブタは彼等の体質遺伝でもあらう。

十七音の切符さへ買へば俳人列車に乗れる。これを大衆性といふものがある。
句集  およそ入口のない板塀のやうに退屈であると。
   *
半島と岡の関係について。
二百米だけ海水が減じたら、日本は島でなくなる。といふ確実なる仮定。
詩と俳句の関係について

富沢赤黄男「モザイック詩論」より(昭和23-25年)

疑ってる、疑ってる。自らの依る領域の、その継承されてきたとされる「特徴」を疑っている。
「俳句」を疑っているわけではない。俳句とはこういうものであるという「特徴」について疑いもしないでいる行為そのものを疑っているのである。
おおむね、この場合の「俳句」を「民主主義」やら「自由」やらに差し替えてみて、さて、「戦後」というもののありようを見届けようという試みもアリなんだろうけれど、この際、それは割愛。
「可能性を探る」ということは、型としての「特徴」を強調することよりも、解体してゆく傾きがあるのだろう。表現を「型」ごとに分けた上で、浮かびあがらせるというその「特徴」とは、浅草辺りの街路で販売されている裏地のついていない化繊の派手なキモノのような、いわば「みやげものナショナリズム」とでもいうべき、わかりやすくて誰にでも取り扱い可能な整理のされ方をしかねない。
そんな「みやげものナショナリズム」をこそ、わかりやすくて扱いやすいということでみずからの拠り所にしてしまうことがあるとしたら困ったことで(つまり日本人が「浅草辺りの街路で販売されている裏地のついていない化繊の派手なキモノ」を伝統と称して身につけていたら困ったことじゃないかいなという意味合いに於いて)、総合誌上やそのスジの手引書などに見受けられる「わかりやすくて扱いやすい」定型や季語へのアプローチに、同質の困ったにおいを感じてしまうのである。ともあれ、そうした「商品化」された伝統は、ちゃんと「商品」のカタチをしていればそれなりな付き合い方というものもあるし、なにもそう警戒することはないのじゃないかとさえ思うのではあるが、アブナっかしいのは、わりとシリアスに、かつ根拠も希薄なまま、境域を仕切ってそれぞれの色をもとめた上で「ひとつになろうよ」などとはたらきかけてくる気配であって、まあ、その気配を詩客の巻頭の文章に感じた、とそういう次第で「腑に落ちない」ということになったのであった。

さて、それはそうと、上記の富沢赤黄男の文章に戻ろう。

俳句という定型詩も詩の一つの方法である、という。「詩精神」なるものを重んじているように読める文である。
では、ここを以て、富沢赤黄男は〈俳句よりも詩に傾いていた〉といってよいものなのだろうか。
実のところ、この文章には、〈俳句とはこういうものであるという「特徴」について疑いもしないでいる行為そのものを疑っている〉ことは明確であるものの、では、それに対置する「詩精神」のありようについては、いっさい触れられてはいない。
それ、として指し示すことができる〈状況〉に対して、「――ではないもの」という補集合でしかあらわすことができないのが、〈可能性〉というものの示し方であると考えてみようか。してみると、まだ見ぬ一句、俳句の深みをつかみ出し、かつ、それまでに目撃したことがないような新しさを備える一句、そんな句を生み出す〈可能性〉を秘めた「補集合」に、あえて看板をかけるとして、それが「詩」と呼ばれるものであったのではないだろうか。この場合の「詩」はまさに〈詩〉ではあるが、〈その詩〉ではない(蝶はまさに〈蝶〉ではあるが、〈その蝶〉ではない/富沢赤黄男 「クロノスの舌」より 昭和28-29年)。つまりイデアとしての意味内容を備えはするものの、具体的な限定をうけることのない状態、ということでもあろう。
〈あるひはギブスをはめなければたもてぬ肉体〉であることを嫌い、では、作家はどのような姿を以て未知なる領域へ踏み出そうとしていたのか。俳句理論を堅固なる装甲として身にまとったのか。あるいは、定型詩であることのなごりをとどめぬフリーな姿で言葉の奔放を遊んだのか。

根源論も俳人論も、無季俳句論、社会性論議も、僕には無用である。僕はただ、ひとりの人間が憤りの果てから、虚妄の座から、涙を流し、哀歓を越えて、つひにひろびろとした大気の中で思い切り呼吸をすることが出来ればと、それのみを悲願するだけだ。
(「「クロノスの舌」より)

ここに、たとえば夏目漱石が向き合っていたような「個」と「個を個たらしめてくれないもの」との葛藤を見届けようとすることもできなくはないのだろうけれど、それはそれで、視点が近代という遠近法にもたれかかりすぎているようにも思える。むしろ、環境との葛藤から生まれる陰翳とよりも、個がみずからの立つ位置において知性をおもうがままに解き放つことの明朗さをこそ、赤黄男は求めていたのではないだろうか。そうでありながら、自由詩としての表現へ足を踏み入れなかったのは、俳句への献身というよりは、わが荒ぶる知の放縦を客体化し、みずからの作品として取り出すための契機として俳句を必要とした側面さえあったのではないだろうか。



金原まさ子句集『カルナヴァル』。
前句集『遊戯の家』(2010年 金雀枝舎)発表が、金原さん、99歳の折。
今回は102歳での出版である。
「金原まさ子 百歳からのブログ」で日々発表されてきた作品をふくめ208句。

累々と月夜の蟻のみな他殺

俳句として読もうとすると、読者の中にある「さもさも俳句らしきもの」によって眼がにごり、混乱する仕組み。
読者は、この句の前で、なぜこんなことを作品にするのだろうかというような、作品の出自の形跡をうかがうことになるかもしれない。しかし、それも、てがかりらしきものが与えられるわけではない。
読みのよりどころを失いつつ、であるからこそ、読者は、思うがままの知性の放縦と、それを受け止め客体化してみせる俳句形式の姿を目撃することとなるだろう。

ああ暗い煮詰まっているぎゅうとねぎ
二階からヒバリが降りてきて野次る
鬼百合は父かもしれぬ蕊を剪る
鶏頭の脇の昏さに安らぐや


作者は自らの知性のおもむくところにかるがるとおもむき、知性がむさぼるものをよどみなくむさぼる。
その営みに於いて、作者と形式は葛藤の関係にあるのではなく、むしろ俳句は、知の暴走を抑制するための拘束具にさえみえるほどである。

時間切れです声を殺してとりかぶと
  わかってます


自らの年齢も肉体も、知のシカケの借景にしてしまうような、そんな韜晦。
ああ、これらの句たちは、俳句であれ俳句であれと矯正されたものではなく、むしろ、「いわゆる俳句的なもの」にやすやすとからめとられませんように、との配慮に於いて姿を得てきたのであろう。
そして、そうした配慮こそが、むしろ「まさしく俳句的」といえるのではないだろうか。

〈ギブスをはめなければたもてぬ肉体〉の対極。
ものを食べることを題材にした句が多いのだけれど、その「対極」の強靭な肉体にしてこの健啖なるべき、か。見事。

金原まさ子 『カルナヴァル』(2013年2月12日 草思社 \2000-)