「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 俳句について2 小峰 慎也

2017年09月08日 | 日記
 川柳のことを書いてみようかと思った。
 2017年5月6日の川柳イベント「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」に先がけて、瀬戸夏子がツイッターで川柳のことをつぶやく、兵頭全郎の句集『n≠0 PROTOTYPE』を読む、小池正博『転校生は蟻まみれ』を読む、などから興味を持った。いままでほとんど読んだことのない分野で、いろいろと新しい部分を押されたような感じだ。
 作品ではとんでもないものを書いていると思われる、小池正博や兵頭全郎が、ほかの人の作品を読む段になると、まっとうすぎる「評釈」をしてしまう、ということに違和感をおぼえた。作品を補足説明しすぎているのだ。何より、その「補足説明」が、作品のことばの威力、ここにある作品のことばだけで十分与えている興奮をそぐ方向にはたらいていることが問題だと思った。

  おはようございます ※個人の感想です 兵頭全郎

  都合よく転校生は蟻まみれ 小池正博

 このような作品に必要なのは、何らかの補足や状況説明ではない。ここで受けとった興奮に対して、なぜこのような興奮が起こるのかを書く、興奮を目に見えるものとすることのほうが必要と思われる。のだが、自分でやろうとしてもなかなかできないものでして。
 小池正博の作品は、ここに挙げたものだけではなく、多く、シチュエーションが隠されること、その示されていないシチュエーションが想像を絶するわけのわからないものであることによって、「なんなんだこれは」と思わせているわけで、これをおぎなって「説明」するのは、面白味を全く逆行させるものである。その意味で、兵頭全郎が行なっている「妄読」(川柳作品から短篇小説のようなものを妄想する作品)には全面的に反対である。
 小池正博の別の作品。

  盲腸のない三人を召集す

 これも状況不明だから面白い作品。盲腸がないということが何かの「ためになる」とは思えないことが効いている。

  単発の煮込みうどんに院政される

 これは、ぼくの感覚では失敗していると思う。要素が多すぎて打ち消しあっているというか、強く「わからない」(から面白い)という臨界点を超えて、感じられない領域に入っている。「単発の煮込みうどん」、ただのことばの組み合わせという気がする。煮込みうどんを浮遊させること、どうにかなることに成功していない。その失敗を抱えたまま、「院政」が強引に持ち出されているが、これもまたかけはなれすぎていて、面白さから外れている。この前の句に、「上皇の頭の中は草競馬」とあるので、「上皇」や「院政」あたりのことばが課題か何かで出たために無理に使ってしまったのかもしれない。
 石部明の以下の作品。

  妻の見ていないところで眼を洗う

  ほの暗く肉屋は肉を切っており

 前者。「妻の見ていないところで」とは、ありうる状況でありながら、わざわざいうことのないような情報である。眼を洗うことが何か不穏な行為に思えてくる。
 一方、後者は、「ほの暗く」がとってつけたように感じられる。肉屋が肉を切っている。これもわざわざいうことからくる不穏、ということだろうが、「」ということばを出せばこれくらいのことにはなる、ありがちな不穏である。しかもダメ押し的に、何の抵抗もない「ほの暗く」という演出をくわえてしまった、と読めてしまう。
 ただ、失敗とも思えるものをすぐに失敗と決めつけていいのかどうか、という気持ちがよぎる。ほかの作者の作品を見ても、音数が余ったから無理につけくわえたと感じられる部分や不成功の組合せと感じられるものが散見している。そのようなゆるみ、「失敗」へのはみ出しを含むことで、川柳はスリルを保っているのかもしれない、と思いはじめてきた。ただ失敗作を書いてしまうということではない。そこも「作品」と思って書く広さを持つ。そういうことのような気がしてきた。
 いいものはいい、悪いものは悪い、ということがはっきりしすぎている分野というのは、ジャンルとしては強くても、作品としては弱いのではないか、それはあまり面白いことではないなと思える。

 小池正博をまた読んでいたのだが、このようなことばだけで片づけるのも、また違う気がしてきた。まあ川柳についてちょろっと書くことと小池正博についてまともに書くことは別のことなのかもしれないというだけなのかもしれないのだが。
 小池正博の特長として、たぶん誰かがすでにいっていた気がするが、ポップということがあると思う。既成の何かをさっと持ってきて使っていたりする。その既成の何かを、伝統的な堆積とかではなく、そこらへんにあるものに設定している。いや、そこらへんにあるもののように取り扱っている。別の文脈で通用していることばを、そこらへんにあるものののように取り込むことによって、目に見えている十七音は、すでにつくられていた「領域」に接続されている。ただし、その「領域」は、参照しなければならないもの、参照をうながすものとして接続されるのではない。その取り込みの動作は、すでにある「領域」をこの十七音の中で「偏向」させてみる、という動作として成り立っている。

  変節をしたのはきっと美の中佐

 「美の中佐」というのは、何か参照先があるようなものと想像するが、ぼくはわからない。おぼろげに、アニメやマンガで「」とカテゴライズされる中佐のキャラクターが思い浮かぶ。それが「変節」した。おそらく、そういうキャラクターにありがちなこと、と微妙にずれているのではないだろうか。あるとしても「変節」ということばではいわないようなことだろう。しかも、「きっと」といっているので、語り手が把握しているのは、「誰かが変節した」ということだけ。「変節」するとしたらあいつだな、「美の中佐」だな、と確信をもって思っている状況。どんな状況なのかわからないが、わからなすぎるわけではない。