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「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 くりかえしくりかえす、再生のために 新井 啓子

2025年02月27日 | 日記

三笠配られ阪神忌のうららかに   橋本昭一

 阪神淡路大震災から9年後の2004年、大阪でイベントがあり、私もパネラーとして参加することになった。詩人4人で話をしてから最後に質疑応答となった時、会場の老紳士から私に、「神戸はまだ回復していない」と発言があった。私が不用意に「街が復興してよかった」という言葉を発したことに対するストレートな怒りであった。前日に訪れた、私がかつて仕事場として通っていた辺りが、震災前よりは整備され、一見街の機能が復元されたように思ったのはとんでもない間違いだったと、その発言は示していた。お詫びして祈りの言葉を続けながら、その老紳士がうっすら涙を浮かべているようで、私は足の震えが止まらなかった。なんという想像力のなさよ。復興・回復という言葉の多層な意味合いに配慮を欠いた自分が情けなく腹立たしかった。「うららかに」と謳えるまでにどれだけの歳月が経っただろう。和菓子「三笠」の粒餡の甘さにも、塩っぱさが混じっていたかもしれない。

鬼ゆりのあふれる花粉渇水日    坪内捻典『坪内捻典句集』

 上水道の完備した昨今では渇水の実感は薄れただろうが、高度成長期には、ちょっとした日照りが続くと水道から水が出なくなることがあった。非常時に備え町内のどこかに鍵付きの共同水道栓が設置されていた。そしていざというときには、その鍵を持つ町内会の役員が定時に開栓するまで炎天下、住民は各自バケツを持参し列を作って並ぶのだった。私の実家は高台にあったので、1日分の水を得るために、草の茂る小径を子供には重いバケツを提げて、往復しなければならなかった。日差しと草いきれと、そう、オニユリのむせるような香りが、零れた水で濡れたサンダルの足元に纏わり付いた。水道栓から頼りなく出ていた水は、きゅっと鍵が締められるともう出ない。その不足を補うかのように、花粉から発せられる豊満なユリの香りが私を労い、慰め、坂の上まで背を押してくれたのだった。

浸水の引きし一線家々に      右城暮石

 水の過少も困るが過剰も困る。1972年7月、郷里では未曾有の水害が起こった。町の中央を占める湖が連日の大雨のため氾濫し、死者12人、家屋全半壊114戸、浸水家屋24953戸という惨事を引き起こした。実家の周りの崖は崩れたが、高台にあったため水の被害はなかった。それでも水を含んだ土が粘り気を増して、辺りを凌駕しているように思えた。大事を取り時間を置いて町に出てみると、あっという間に足元が汚れた。異臭がしていた。今まで見たこともない光景が広がっていた。異様な興奮と脱力感とでふらふらしながら歩いていると、大人達が騒いでいた。「ここまで来た」と誰かが言った。「うちもここまで」と指さす人がいた。「浸水の引きし一線」、どの家にも水が住宅を襲った爪痕が同じ高さに残されていた。被災間もなく、引き去った水に等しく傷み、手を伸ばし合う人たちを繋げる印が残されていた。

みちのくの今年の桜すべて供花   高野ムツオ『萬の翅』 

 2011年は忘れられない年だ。3月11日に東日本大震災が起こった。これは地震だけの災害ではなかった。地震を起点とする津波だけでもなかった。震源地に近い福島県には原子力発電所という爆弾が置かれていた。平時では電力を生み出し人々の生活を活性化し豊かにするものであるはずのものが、大地震によってひとたび軌道を逸すると、手綱を操ることを拒む暴れ馬のように制御不能となり、人々の生活だけでなく命までも危険にさらした。渦中の人々は勿論のこと、遠巻きに見守る人々にとっても、その過程と影響を知るまで多くの時間を要した。だから、4月、目の前にあるのはただ、失ったものいなくなってしまった人たちの存在の空洞であった。いなくなってしまった人たちのかつていた場所さえなくなっていた。何に向かって手を合わせればよいのか途方に暮れるなか、桜だけが例年通り美しく咲いたのだ。せめてもの弔いの祈りとして。

 災害は遠いものだと思っていたが、振り返れば筆者のすぐ側にもそれはあった。身近に災害が起こった当時は、それが冬に雪が積もるのと同じで当たり前のように思っていた。けれども、地域によって冬でも晴天が続いたり、雪が積もらないところがあったりすることを体感すると、急に当事者としての痛みが全身を襲ってくるのだった。そして、年中途切れない災害の知らせに、耳を澄ませ、身をこわばらせ、体を丸めて無事を願う。
 また、こんなにも災害は頻発していた、何故、という疑問も生じる。単に知らなかっただけでは済まされないザワザワとした思いが日常の隙間をすっと突き刺す。そのように敏感に構えていても、真の当事者でなければ(当事者であっても)、整理することも消すこともできない形のない痛みがあって、そこを癒やすのには計測不能の時の経過が想像される。そのとき詩歌はどうしているだろう。

津波のあとに老女生きてあり死なぬ 金子兜太『百年』 

 津波の去ったあと老女がそこに生きている、と歓喜すると同時に、「死なぬ」と続く熱量の高い言葉の強さが読み手だけでなく、作者自身の気持ちをも奮い立たせる。生きよ、生き続けて欲しいという切実な願いもある。何があっても俯いていないで前を向こうというエールが、わずか18文字に凝縮されて放たれる。放たれた言葉の無限の光が、残された私たちを生かす。平常非常にかかわらず、作歌の姿勢が作品の真価を糺す。俳句の器はとても小さなものだけれども、盛られるのは底の知れない命への祈り、そして悲喜こもごもの生に寄り添うひとことひともじなのである。


俳句時評194回 令和のかわいい俳句鑑賞 三倉 十月

2025年02月25日 | 日記

 この詩客・俳句時評の「令和の俳句鑑賞」シリーズも、もう丸3年書かせていただいている。しょっちゅう締め切りを勘違いして、森川さんにはご迷惑をおかけしているのだが、ありがたいことに今年も引き続き書かせていただけることになった。

 俳句を鑑賞することがとても好きなので、とても張り切っている反面、今まで「妻」「親子」「SF」「食」「ファッション」「旅」「クリスマス」「酒」など、色々とあげてきたお題のネタが思い浮かばなくなってきた。そのため、今回は少し趣旨を変えて、形容詞をお題とし、「かわいい」俳句というものを、自分なりに掘り下げてみることにする。何故「かわいい」を選んだかと言うと、単純に私がかわいいものが好きだからである。

 ここで挙げるかわいいは、あくまで私基準なので、異論がある方もいらっしゃるかもしれない。しかし「美味しい」に絶対的な正解がないように、「かわいい」にも正解はないので、なるほど、そういう人もいるんだなと受け流してもらえたら幸いである。

 ちなみに「かわいい」を辞書で引くと、以下のように書いてあった。

かわいい【可愛い】
〔「かわゆい」の転。「可愛」は当て字〕
①深い愛情をもって大切に扱ってやりたい気持ちである。
②愛らしい魅力をもっている。主に、若い女性や子供・小動物などに対して使う。
③幼さが感じられてほほえましい。小さく愛らしい。
④殊勝なところがあって、愛すべきである。
⑤かわいそうだ。いたわしい。ふびんだ。
※例文は省略


『スーパー大辞林 3.0』三省堂

 どれもそうである気もするし、なんとなくズレている気もする。意味が①〜⑤まであるところから見ても、かわいいの絶対的な明確な定義はなく、どちらかと言えば主観で決まるものなのだろう。

 ただ、③④⑤の意味の印象からか「かわいい」と言うと、まるで対称を下に見ていると捉えられることもある。私にとって「かわいい」は感嘆の意味が大きく、今回の鑑賞では、対象を下に見るような意図は持っていない。また、そうに受け取られないように書いたつもりではあるが、至らぬ部分がありましたらすみません。

 久々に前置きが長くなった。
 句を鑑賞しながら、あくまで私の思う「かわいい」の輪郭を少しずつクリアにしていけたらと思う。なお、できるだけ控えようとは思いつつ、鑑賞文にも「かわいい」を連発してしまっているので、「かわいい」が苦手な方はご注意ください。

 


春の虹ひとすじクリームソーダ色   神野紗希

 まずは「かわいい」が似合う世界観の句。「春の虹」と「クリームソーダ」は、まさに「ゆめかわ」と呼ばれるジャンルの雰囲気が表現されている(ゆめかわ(夢かわいい)をご存じない人は画像検索してみてください)。ただ、かわいい、甘い単語を並べれば詩になるのかと言うわれると、もちろんそんなことはない。この句は「ひとすじ」と言う言葉で、空を描く弧をくっきり見せたことで、淡く優しい色合いの春の虹と、誰の思い出の中にもあるクリームソーダが結びつき、溶け合っていくところに妙があるように思う。


嘘つくは楽し白玉よく冷えし     箱森裕美

 この句も私が「かわいい」句を想う時に、真っ先に浮かぶ句の一つ。(大好きな句なので、多分前にも鑑賞したことがある)この句の、毒っぽさがある「」と言う言葉と、よく冷えた、カラフルなフルーツと共にある白玉が、少女(あるいは少年)の悪戯心と、ポップな視覚的なかわいさを絶妙に響き合わせている。厚いガラス越しに見つめるような、レトロな色彩と、ひやりとした冷たい感覚。これも私の大好きな「かわいい」だ。


絵日記のキリンに睫毛ハンモック   後藤麻衣子

 また少し変わって、こちらはおそらく育児の景。小さな子どもを描写した句は、もちろんかわいいのだが、その反面、甘くなりすぎてしまうことも多い。しかしこの句の景は子どもそのものではなく、子どもが発見した「キリンの睫毛」の絵日記のこと。発見の発見。世界を懸命に見ている子どもへの、親の丁寧な眼差し。季語のハンモックで、夏の休日に優しい風が吹き込む。

 

 次は、世界観ではなくて詠んでいる対象がかわいい句。ここでは動物の句を選んだ。

こはがりのおほきな犬と夕桜     福田春乃

 きゅん、としてしまう。大きな犬が怖がりであると言うギャップ。夕方、いつものお散歩中に桜が咲いていた。怖いところなどは何もなさそうなのに、飼い主だからこそ知っている「怖がり」という犬の性格が、ひたむきで健気な景になる。恐る恐る味わう桜。この子が安らいでいたらいいなと思う。


なめくぢの雨を嫌がりつつ雨へ    西村麒麟

 実物のなめくじを見てかわいいと思ったことは、ほとんどないのだが「雨を嫌がりつつ雨へ」という措辞は、どこか必死さがあって、いたいけな愛おしさを覚えてしまう。生き物が懸命に生きる姿に、こちらが勝手に意図を想像でつけてなぞっているだけなのだが。なめくじに塩振って悶絶しているところをかわいいと見ていないだけ、許されたい。


蟹が蟹素早く踏んで行きにけり    西村麒麟

 こちらも、踏まれた蟹に「イテッ」と吹き出しをつけることができるような、漫画っぽい景におかしみを感じる。小さきものたちが、小さきものたちだけで作り出す世界が、かわいいのである。ただ、ディズニーよりはスポンジボブを思い浮かべてしまうのはご愛嬌だ。


東風吹くや鞄を出づる犬のかほ    斉藤志歩

 これはもう、(犬が苦手な人以外)誰が見てもかわいいと絵面だと思う。東風は春の到来を告げる風のこと。春風と書くと甘くなって「犬のかほ」のかわいさが引き立たない気がする。かわいいものをかわいく描写しているわけではない、むしろさっぱりとした言葉を使っているところが、この犬のかわいさをた余すことなく表している。


 さて次は、少し変わって子どもが詠んだ句。最近発行された句具さんの『俳句アンソロジーHAIKU HAKKU2025』を読んでいたら、子どもの俳人を三名見つけたので、それぞれ鑑賞してみる。(もししたら他にも子どもの俳人がいたかもしれない、プロフィールの確認漏れがあったらすみません)

 子どもが作った句だから、それだけでかわいい俳句!と、安直なことを言うつもりは無い。だが、これらの句には、小学生、あるいは保育園児の彼らが、世界をじっと見つめて得た発見がある。そこに大人の目では拾えない愛おしさがあることは間違いないだろう。


いもうとを背負ひて走るひなまつり  想レベル7

 かっこいいお兄ちゃんの句である。ひな祭りに何か事件があったのだ。いもうとはかわいい。そしてその妹を助けるために、背負って走っているお兄ちゃんも、大人から見るとかっこうよくて、そして、やっぱりかわいい。そして、これがひなまつりの出来事だというのが本当にかわいい。


なつがきたよこどもはおとなとちがう 野口士朗

 こちらも小学生の句。大人は何かと「大人にも子どもの心が」とか「少年の心を忘れず」とか(図々しいことを)言いたがるが、子ども側から見れば、一緒にするなという話なのである。このきらきらした目の前の夏を何の濁りもなくわくわくと楽しむ心は、間違いなく子どもしか持ち得ないものだろう。そしてこの句は、子ども側からそれをキッパリと言ったことが偉い。大人が持つのはいつかの夏の記憶と、それに伴う憧憬。実際は暑いし、仕事もあるし、ビールは苦くも美味しい。それを知っている者には入れない領域があるのだ。


ゆうやけはいつもかわいいね     野口語生

 夕焼けはいつもかわいい。その発見を、句にしてくれたことが尊いと思う。夕焼けの赤と、揺らいで沈んで行く太陽、橙に染まる町を見て、作者の中に今ある語彙の中での、最大限の賛辞としての「いつもかわいい」という言葉は、愛されているからこそ零れたものなのかなと、想像してしまったりもする。


 さて、最後にいくつか高浜虚子の句を鑑賞してみたい。そもそも今回のテーマを「かわいい」句にしようと思ったのは、最近私が読んでいる高浜虚子の全句の中で「何だかかわいいな」と思う句が多いからである。

 虚子については勉強中なので、俳句史の中の彼の立ち位置や功績、人物像について、知らないことが多いので、ここで触れることはしない。ただ、純粋に読んでいて「かわいい気がする」と思った句を取り上げて、そのように鑑賞することだけは許してもらいたい。


蚊帳の月忽ちくもり蚊帳の雨     高浜虚子

 この句のどこがかわいいのか、と言われて上手く表現できるのかわからないのだが、強いて言うなら、思い通りにならない目の前の世界をそのまま素直に受け入れて書かれているところに、かわいい、という気持ちが浮かんだ。蚊帳の中から月を見上げて、詩を待っていたらあっという間に雨が降ってきた。「……」という吹き出しのあとに「これはこれでよし」という言葉が聞こえてきそうな、世界観である。


秋の蚊の大きな声をにくみけり    高浜虚子
手を洗ふにも昼の蚊のつきまとふ

 嫌いという感情を大の大人が醸し出している時、その対象がささやかであるほどギャップにちょっとしたかわいらしさが滲む。蚊はもちろん、誰にとっても鬱陶しい存在だ。一句目は昭和5年。「にくみけり」と、かなり強く感情を詠嘆しているところがかなり面白く感じた。あのぷ〜んという音が本当に嫌だったんだな、と。二句目は昭和13年、わざわざこの場面を句にしているところが、感情が滲み出ている気がして気になった一句である。


くはれもす八雲旧居の秋の蚊に    高浜虚子

 虚子の蚊の名句としてよく上がっているのはこちらの句であると思う。小泉八雲の旧居の蚊であれば、喰われもする。むしろ喜んで、とはいかないかもしれないが、蚊の嫌いぷりを知った後だと、この句もより深く味わえる気がする。


弁当うまし以ての故に紅葉よし    高浜虚子

 さて、こちらはどちらかというと、好ましいという感情の発露。昭和15年11月25日の修善寺にて。美味しいものを食べたら、世界は輝いて見えるのである。それを、つなげてわざわざ句にしているところが面白い。「以ての故に紅葉よし」の中にある、おちゃめな感じというか、遊び心が好き。


焼芋をたしめる老となりにけり    高浜虚子

 同じ時期の句である。昭和15年の11月。虚子は67歳。「たしめる」は「嗜む」の意味として受け取った。これまでに、様々な美味しいものをたくさん食べてきたであろう虚子が、焼芋をしみじみ味わっている姿が良い。


焼甘藷の味は主客に分ちなし   高浜虚子
 
 昭和18年。お客さんにも焼き芋を振る舞い、皆で和やかに食べている様子が浮かぶ。この句に「美味しい」とか「好き」とかそうしたことは書かれていないが、省略されている部分に焼き芋に対する大きな好ましい感情があるのが、滲み出ているところが良いなと思う。


目悪きことも合ッ点老の春    高浜虚子
足悪きことも合ッ点老の春
たいがいの事は合ッ点老の春

 昭和27年、11 月ごろから「老の春」の句を多く作っている。おそらく全部で二十句以上ありそうだが、その中で並んでいた三句。少しやけっぱちになっているようにも思うし、この「合ッ点」を作りつつ、ちょっと楽しくなってきたような感じも受ける。「たいがいの事は」と、割と大雑把にまとめたところに、おかしみがある。

こ の句を一つ読んで「かわいい」と評するのは違うのかもしれないが、続けて読んだら「なんだかかわいいな」と思ってしまった。老いることとは、弱ることでもある。その弱さを、どこか俯瞰して、諦めつつ受け止めている、それどころかそれをどこかユーモアを持って読んでいるところに、おかしさと親しみやすさを覚える。高浜虚子はこの時79歳。年があければ数えで80歳である。

 

出典
俳句アンソロジー 『HAIKU HAKKU 2025』 句具
同人誌 『編むvol.1』 後藤麻衣子
句集『すみれそよぐ』神野紗希(朔出版)
句集『鳥と刺繍』箱森裕美
句集『鷗』西村麒麟(港の人)
句集『水と茶』斉藤志歩(左右社)
『定本虚子全句』高浜虚子著 松田ひろむ編(第三書館)