「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評 第92回 “立ち現われ”る俳句 ~大森荘蔵をめぐって~  彌榮浩樹

2017年11月25日 | 日記
哲学者大森荘蔵の没後20年になる。彼のとりわけ中期の思索は、俳句づくりという営為において僕たちが何を行っているのかをあらためて考えるための、刺激的な思考の描線を与えてくれる。

a 話者の「今朝賀茂川の水かさが増した」という声を聞いたとき、わたしに水かさの増した賀茂川、今朝の賀茂川が立ち現われる。そのとき、話し手の言葉の「意味」がわたしに立ち現われるのではなく、水かさの増した賀茂川、しかも今朝という過去の賀茂川そのものがじかに立ち現われるのである。(「ことだま論」『物と心』より)

「言語表現とは、本質的にフィクションだ。」というのは、言語作品づくりを考えるうえでの常識的な前提だろう。そして、その前提のさらに前提として、<フィクションではない現実>というものが措定されているはずだ。<フィクションではない現実>を基盤に/離れて、どのように<フィクションとしての言語作品>を作り上げるのか?と。

大森荘蔵のaは、そうした図式を根源的に揺さぶる。彼は、語り手の声によって、過去の賀茂川が(イメージや意味ではなく)じかに立ち現われる、と述べているのだ。つまり、「言語表現とは、現実そのものの立ち現われだ」と。
そんな馬鹿な!!!と言いたくなるのだが、しかし、さらに大森の言葉を読み進めていくと、確かにその通りだと認めざるをえなくなる(もやもやした思いが完全に払拭されることはないが)。

考え直すべきなのは、むしろ<フィクションではない現実>の方なのだ。これが無化されることによって、それと対置させられる<フィクションである言語表現>という概念も無化される。そこから、aが了解可能になるのだ。

大森荘蔵は、別の文章で、「(いわゆる)フィクションが、(いわゆる)現実を現実たらしめている」として、「虚想」という概念を提示する。

b1 事物が見えているとき、それは必ず三次元的な事物として、つまり背後、側面、内部をもったものとして見えている。しかし、我々に生に見えている(知覚されている)のはその表面、特定の視点から見える表面だけである。それにもかかわらず、我々はそれを三次元の事物の表面として見ているのだから、なまに見えていない側面や内部もまた「知覚されている」と言うことにもいささかの権利、いささかの理由がある。しかしこの「知覚され方」は、なまの端的な知覚とは異なる独特な「意識され方」であり、事物の独特な「立ち現われ方」である。(「虚想の公認を求めて」『物と心』より)

この「意識され方」「立ち現われ方」を「虚想」と大森は名づける。

b2 虚想が働いている働き方を観察すれば、それが「知覚」や「思い」と同じ位に根本的な事物の立ち現われ方の様式であることがわかる。(略)机の現在ただ今の背面の知覚的思いはこの現実的思いでなく架空の虚なる思いである。だがこの虚なる思いがこの実の世界で実の働きをする。すなわち、この虚なる思いがこめられていてこそ机の知覚正面はまさにこの実なる知覚正面であるのである(つまり、机は机として見える)。この虚なる思いの実の働きを「虚想」と呼ぶのである。(「虚想の公認を求めて」『物と心』より)

なるほど、確かにその通りだろう。僕たちの知覚(<知覚されたもの>をふつう<現実>と呼ぶ)には、「虚なる思い」の裏打ち、厚みが必ず伴っている。視覚像としては平面の見えでしかないはずの「机」を、僕たちは裏側や内部という見えない部分を備えた厚みをもったものとして知覚する。視覚像が平面でしかないから目の前の机はぺらぺらの平べったいものだ、などとは決して知覚しない。これはもうごくごく当たり前の《現実》の成り立ち・存在のありようだ。
つまり、僕たち生きている人間にとっての《現実》とは、純粋な知覚対象(だけ)ではなく、そこにさまざまな思いや知識が縒り合わされたもの、なのだ。

「言語作品」と「生の現実」とを二項対立的に捉えるのではなく、《現実》を<知覚像>や<科学的な説明>や<発話>や<思い>や等々の縒り合わせと捉える。これは、見かけの突飛さに反して、じつは極めて順当な《現実》の捉え方のはずだ。

そして、その《現実》の縒り合わせの中に<有季定型の言語作品>もある。だから、俳句作品のリアルの強度とは、この、縒り合わせのなかにおける関係性・ふるまいによって生じるのだ。

いわゆる<フィクション>でさえ《現実》の縒り合わせの一要素である、ということから生じる<作品>のリアル。

その鍵は、おそらく、触覚(性)にある。

c われわれが生きるためには物に触覚的に触れねばならない。食物に触れ、武器に触れ、大地に触れ、床に触れ、衣服に触れ、異性に触れねばならない。物を口にし、手にし、口に入れ、手に入れなければならない。(略)どのように「触れることのできるもの」、つまり触覚的に立ち現われるものがこの現実組織のヘソなのである。このヘソを中心にして視覚聴覚等、他の五感の知覚的立ち現われのクモの巣がはられる。知覚的立ち現われは触覚的立ち現われを中にして強固な網を張るのである。なぜなら、そこに見えるもの、そこに匂うもの、そこで音をたてているもの、それらは稀な例外を除けば手をのばせば手に触れられ手中にできるものだからである。(「言い現わし、立ち現われ」『新視覚新論』)

あらゆる立ち現われのなかでも、僕たちが生きるために必要なものとは、「触れることのできるもの」であり、それこそが最も<リアルなもの>、である。触れられないものは、そこに実在しないものであり、それは、<夢まぼろし>、<フィクション>と名づけられ、そのように扱われる。<知覚像>と同じく立ち現われの一つであっても、<言語作品>がフィクションだ、と印象されるのは、まずもって、触れることができないから、だ。

だから、裏返しに言えば、触れるような感じを与える俳句作品こそ、リアルなのだ、ということになりはしないか。

真に語る意味のある優れた「写生」句とは、そうした句だと僕は思う。
《現実》に触れ得るような(写実的な)イメージ世界が立ち現われていつつ、散文的に意味がさらっと通ってしまわずに意味が断絶する抵抗感(→触覚に通じる)。
五・七・五という定型。
十七音という極端な短さ。
「季(語)」の偏重。
「~や」「~かな」といった強引に振る舞う辞。
そうした“かたちの強さ”によって、俳句作品が、(さながら彫刻作品のように)触覚的な感知を誘うものとして僕たちの前に立ち現われる。
そんな句こそ、リアルな俳句作品なのだ。
(僕がなぜ飯田蛇笏の作品に惹かれるのか、その秘密もおそらくここにある。)

と、大森荘蔵を改めて読み直しながら、そんなことを考えてみた。

ちなみに、大森荘蔵も晩年、俳句作品をつくっていて、著作集の第9巻で600句ほど目にすることができる。哲学的ではない、素直な・素朴な句が多いのだが、最後の3句は(死の2ヶ月ほど前に詠まれた)こんな句だ。
  へど吐いて巨大な夕陽沈みけり
  へど終り入日の色の赤きかな
  怒りこめて宇宙にへどを吐きにけり
死を目前にした、二十年ほど前の大森荘蔵の心象そのものが確かに立ち現われている。


俳句時評 第91回  多行形式についての二、三の事柄   九堂夜想

2017年11月19日 | 日記
 今春、俳句同人誌『未定』が終刊した。1978年、澤好摩・夏石番矢を中心に、高柳重信の息のかかる二十代の若手作家らが集ったこの先鋭的な俳誌は、のちに、そこから分派しあらたに創刊された『豈』と並んで、作家性の強い「一行」「多行」の書き手を混在させながら有名・無名を問わず数多の有力な俳句作家を輩出した。幾多の聚散を繰り返しながら80年代~90年代の俳句界を牽引し、2010年、90号からは多行形式の専門誌『第二次 未定』として再出発。多行形式のさらなる可能性を探るべく研究会・鍛錬会を精力的に重ねながら、2016年には記念すべき100号が刊行された。その後、101号では装丁もあらたにエズラ・パウンドを特集に組むなど新しい胎動を予感させる展開を見せたが、それを最後に『未定』は突如として幕を閉じた。ことさらに、その終わりを周囲へアピールするでもなく、別の意味で伝説的と言えるほど、あっけない、もの静かな幕切れであった。仄聞するところでは、あらなた編集体制のもと10号分に相当する特集企画が練られていたようだが、突然の終刊の理由と共にその内訳も空しく想像するしかない。ただ、現代俳句の特異点とも言うべき高柳重信、高屋窓秋、富沢赤黄男、そして安井浩司をフィーチャーした分厚い特集号・追悼号は、『未定』が遺した重要な業績としてしかと記憶されるべきであり、それらは今でも心ある俳人たちの机上に、その心中に、重いひかりを放ちながら置かれてあるに違いない。結果的に最終刊となった『未定』101号より同人作品を一句ずつ挙げる。

觀念も
具體も彈む
くろがねの
わが鬼道かな
        高原耕治

羊頭の蛇
水平置きにして

  感じる
         山口可久實

まれびと
佯狂(やうきやう)
吟遊(ぎんゆう)の旅(たび)
蹇蹇歩(けんけんある)き
   田辺恭臣

眼帯ノ
義眼ノ奥ノ
夢ノ
枯野ヨ
           玉川満

没落至極
生死一如の
無限旋律
          村田由美子

みつむれば
意識は
阿修羅か
Nihil型
          天瀬裕康

一夜明け
天狗倒しの
御神木
           大岡頌司×田沼泰彦

 かつての『未定』同人であり、現『俳句空間‐豈‐』編集人の大井恒行のブログ「日日彼是」(2016.3/6)に、『第二次 未定』100号の紹介と共に創刊当時の『未定』『豈』ほかの内情が端的につづられている。興味のある読者は参照されたい。



 今夏、私の参画する俳句グループ「LOTUS」主催の会合「五〇句合評会」が都内にて行われた。小会では隔月開催の句会以外にもいくつかの定期的な会合を催しているが、「五〇句合評会」はそうした中でも数多くの批評言語が飛び交う代表的な会のひとつである。毎回、リレー形式に同人一名が自作五〇句を提出、それをテクストに内外の参加者が詩論を戦わせるというもので、その回の批評対象者/作品は、「LOTUS」発行人にして三行表記実践者の酒卷英一郎「阿哆喇句祠亞(アタラクシア)」五〇句であった。以下に、その句群の一部を紹介する。 

詳らかに        花一匁
具へて         板子一枚
春の曙は        わうくわんだう

ゆくらかに       いまいちど
角ぐむ蘆の       なんぢやもんぢやの
言語像         奇をめぐる

すてつぺい       南無蓮華
白き夏野が       空荷の我と
すてつぺん       我が空荷

秋風裡         穴兔
摩訶曼陀羅華      あなた言語の
渴きつつ        兔穴あり

裏花や         これやこの
わたくしあめの     唵そろそろと
外に濡れて       いくまむし


 実は、二年前に同じ五〇句テクストで酒卷の合評会を行ったのだが、そのときは多行形式ならびに酒卷作品に対する各論者の質疑や見解にレベル的な隔たりがあり、喧々諤々の議論も遠近に飛び火するなどして、半ば予想していたことながら討議に決着がつかず、その後、小誌第35号(2017.4月刊)にて酒卷英一郎「阿哆喇句祠亞」評の特集を組み、その特集号をテクストにあらためて合評会を仕切り直したのだった。満を持したふたたびの合評会は、初回同様、同人および外部参加者による活発な意見交換のもとに漸進的な展開を見せたものの、私的には多行形式に対するいくつかの疑問がついに拭えず仕舞いであったのは否めなかった(その疑問の内実については後述する)。ちなみに、LOTUS第35号特集【LOTUSレポートⅢ 酒卷英一郎「阿哆喇句祠亞」評】の内訳は以下の通り―

LOTUS第35号特集【LOTUSレポートⅢ 酒卷英一郎「阿哆喇句祠亞」評】

酒卷英一郎「阿哆喇句祠亞」五〇句
阿哆喇句祠亞「手引き」の手引き
阿哆喇句祠亞「手引き」(※自句自解)
私と俳句そして多行形式 ―酒卷英一郎インタビュー(聞き手:九堂夜想)
〔論 考〕
阿哆喇句祠亞・エンコード………………………………………………………………………………………… 広瀬 大志
言語大陸アタラクシア……………………………………………………………………………………………… 今泉 康弘
アタラクシア五十句を読む………………………………………………………………………………………… 佐藤 榮市
「阿哆喇句祠亞」の感触… ……………………………………………………………………………………………藤川 夕海
「し」との別れ ―酒巻英一郎論序説… ……………………………………………………………………………田沼 泰彦
言語像のエントロピー……………………………………………………………………………………………… 高原 耕治
酒卷英一郎「阿哆喇句祠亞」考…………………………………………………………………………………丑丸 敬史
言葉・言語芸術………………………………………………………………………………………………………… 古田 嘉彦
殉ずる形態あるいは無為の神への供物 ―「阿哆喇句祠亞」五〇句寸考……………………… 松本 光雄
滅亡のときを求めて ―酒卷英一郎俳句論への試み― … …………………………………………… 表 健太郎
アタラクシアの歩き方……………………………………………………………………………………………… 鈴木 純一
静止を正視する………………………………………………………………………………………………………… 佐々木貴子



 6月、玉川大学にて現代俳句協会主催による「高柳重信」をテーマとした講演会が行われた。レクチュアは澤好摩と小林恭二。演題は、澤が「高柳重信と多行形式」と題し、主に重信の俳句遍歴と多行作品の読みについて。小林は「古代をモチーフとした高柳重信の俳句」というテーマで句集『山海集』中、記紀神話に材を取った「〈葦原(あしはら)ノ中國(なかつくに)〉」の一連の作品を時間の許す限り読みつくすという熱のこもった内容。全体的な印象としては、高柳重信および多行形式に関する初心者向けのパラフレーズといったところで、とくに真新しいものではなかったが、それぞれに再確認的に教わるところ大であった。(※同日の午前、同大学構内にて、青年部による第150回勉強会「実験句会 シカクカイ」が催され、その成果として文字通り視覚に訴えたグラフィカルな作品群が青年部ホームページに掲載されている。興味のある読者は参照されたい)。
 ところで、多行作品を語るときに「多行形式」と「多行表記」という言葉が混同する場面に出くわすことがある。そうした状況について、澤自身は、他者へ多行作品を説明するときには誤解を招かぬよう「多行形式」と「多行表記」を使い分けているという。具体的には、多行作品については「多行表記」による俳句と言い、「多行形式」とは呼ばないらしい。それは、多行作品の話をしているときに「俳句形式」という言葉を使っているところへ「多行形式」という言葉を持ってくると、その両者はそれぞれに別ジャンルの〝詩形式〟であるというニュアンスを与えるため、そうした印象を避けるべく「多行表記」による俳句作品と言うのだそうである(加えて、TVや色紙などに便宜上、文節ごとに行分け表記された俳句については、「散らし書き」として多行作品には含めないとのこと)。そのような俳句私観を踏まえ、今回の講演についても「…だから本当は、この「高柳重信と多行形式」というタイトルも「高柳重信と多行表記」に直してほしいと(主催者側へ)言っといたんだが…」と微苦笑を誘うようなシーンもあったのだが、そうした中、澤の文言にひとつ気になるところがあった。それは「高柳重信は生前に「多行形式」と言ったことはない」という発言である。たしかに(うろ覚えだが)重信の遺した二冊の評論集『バベルの塔』『現代俳句の軌跡』には、「俳句形式」という言葉はあっても「多行形式」の語は見なかったように思う(*註)。だが、重信の遺した膨大なテクストに「多行形式」の語がなかったとは考えにくい。さらに、発話となるとどうだろうか。生前の重信を知る某氏によれば「そんなはずはない。重信はあきらかに「多行形式」と言っていた。彼が言わなかったのは「多行俳句」という言葉だ」とのことだが。



 俳句初学の頃、齋藤愼爾編纂の朝日文庫「現代俳句の世界」シリーズ(全16巻)は格好の教科書であり、とりわけ新興・前衛俳句系のモノはむさぼるように読んだものだった。その中の「金子兜太 高柳重信集」では、従来にはないスタイルとして重信の多行作品に心魅かれたが、その後、様々な俳句思想に触れるにおよんで、現在となっては多行形式というものにいくらかの疑念を抱かざるを得なくなっている。ここでは、それについて二、三の事柄を述べるにとどめるが、そのひとつは多行形式の「読み方(書き方)」についてである。以前、別紙に寄せた拙論を以下に引用する。

 子規の俳句革新以降、碧悟桐の〝新傾向〟を皮切りにいくつかの新しい「形式」が創出された。具体的には、放哉、山頭火らに代表される「自由律」、赤黄男を始祖とする「一字空白」、重信が開発・実践した「多行形式」などである。これらの「形式」が、現在の俳句界内外においてどれほどの認知があるかは詳らかにしないが、結論から言えば、私には俳句におけるこれら諸形式の〝意味〟がよくわからない。俳句の最大の固有性は「一行・五七五・棒書き」を礎とする「形式」にこそあると思い定めて久しく、それが他の芸術ジャンルにはない詩的強度であるとも認識しているが、そのような最短定型を目指してやってきた者が「形式」における〝自由〟を求めようとする意識がおよそ理解できないのだ。一行そして五七五定型を離れた時、それはすでに俳句ではなくなっているのではないか。(中略)「形式」への確たる見解を抜きに「詩と俳句の違い」は語り得ず、それは詩と俳句の「読み/書き」の違いにも関連する重要事なのである。

〈Ⅰ〉
どんぐりを踏む
旅人の脳髄は
美しい永遠から
永遠に歩いている
     
〈Ⅱ〉
栗の花の方で
鳥めいた枠を揺らしている
空き家の十二音音楽      

〈Ⅲ〉
遠火事の
こちらの夜の
荒縄に
さがりしものは      

〈Ⅳ〉
海の貰はれ
海青く
この青海の聲かぎり    

 なべて言語芸術には、その「形式」に沿う文法が存在する。小説ならば散文としての。戯曲ならば台詞とト書において。俳句ならば、五七五定型は無論のこと、韻文としての語法や切れ字など、俳句固有の「書き方」や「読み方」を蔑ろにすることは許されない。それを踏まえた上で、先に揚げた作品群を読者はどのような文法的「読み方」において読まれるだろうか。おそらくだが、いずれの作品も各行のフレーズとその連繋を〝ほしいまま感覚的に〟読まれてはいないだろうか。ここで、それぞれの作品の内訳を記せば、〈Ⅰ〉は西脇順三郎詩集『鹿門』の内「ヴァリエーション」の一節、〈Ⅱ〉は加藤郁乎詩集『終末領』の内「句」の一節、〈Ⅲ〉は高柳重信句集『蒙塵』の一句、〈Ⅳ〉は大岡頌司句集『花見干潟』の一句である。
 現在の俳句界において「一字空白」や「多行形式」を意識的に実践する作家は少なくなったが、読み手としてそれら諸形式の作品を受け入れる人はそれなりに多いと思われる。先に私は、五七五定型以外の「形式」の〝意味〟が分からないと記したが、こと「一字空白」「多行形式」については、その受け取りにおいても全くもって暗いと言わざるを得ない。俳句としての、それらの〝空白〟箇所や〝改行〟部分の文法的な「読み方」を知らないからである。傍目に「一字空白」や「多行形式」を認める人たちは、それぞれの感覚において自由な書き振りと読解を繰り広げ、また周囲もそれを楽しみつつ受け入れているようだが、私見では、様々な「形式」や「読み/書き」を方法論として容認する考えは、主に自由詩のものである。ゆえに、先に揚げた〈Ⅰ〉~〈Ⅳ〉の作品は、私の見方ではすべて自由詩作品なのである(もし、〈Ⅰ〉〈Ⅱ〉を自由詩作品、〈Ⅲ〉〈Ⅳ〉を俳句作品として、学術的明解さのうちに区別できる読者が居られれば是非ご解説いただきたい)。ちなみに、数年前、多行形式実践者の高原耕治氏が一行俳句と多行形式作品の決定的差異を〝改行〟部分に位置づけ、そこに「〈断絶〉と〈呪縛〉」というかつてない文学思想を打ち出した(『絶巓のアポリア』)。多行形式作品はフレーズの〝改行〟ごとに〈断絶〉によって切り離され、且つ〈呪縛〉によって連繋されているというのだ。これは、或る意味、画期的な思想と言える。それは、一行俳句との違いのみならず、自由詩とも隔絶する「多行形式」独自の在りようを示すものだからだ(おそらく、自由詩に〝改行〟を思想化した「読み方」は存在しないだろう)。だが、残念なことにそこには「〈断絶〉と〈呪縛〉」に裏打ちされた文法的「読み方」が記されていない。果たして、「多行形式」の作家たちは俳句としての自作の「読み方」を知っているのだろうか。仮にそうだとしても、それが読者一般に普遍化されない限りは単なる独我論に終わる他ない(これまで「多行形式」の作家を始め幾人かの俳人に多行形式作品の「読み方」を訊ねてきたが、満足に応えてくれた者は誰一人としていなかった)。
 俳句の方法を自由詩に持ち込んだ時、その作品は自由詩である。逆に、自由詩の方法を俳句に導入したとして、その作品は、やはり自由詩なのである。もとより、自由な「形式」や「読み/書き」が容易く許容されるほど〈俳句形式〉は甘くはないはずなのだ。


                       (「詩と俳句を分かつもの」九堂夜想、『ぶるうまりん』33号(2016.12))

 やや長めに引いたが、ここで語られているのは端的に「多行形式を、俳句として読む際の〝文法〟を教えてほしい」ということである。一行形式にはない、多行形式特有の記述スタイルとは何かといえば、その最大のものは「改行」である。この他に「一字空白」「一行空白」などもあるが、そうした多行形式独特の記述箇所を読者はどのような〝文法〟において読んでいるのだろうか。まず、俳句の側から言えば、「改行」であれ「一字(行)空白」であれ、伝統的な「一行・五七五・棒書き」にはない記述を行っている段階で、その作品を従来の俳句文法(たとえば「取り合わせ」や「切れ」など)をもって読むことはできない。では、どのように読むのか。いや、誰も読めるはずがない。みな、俳句文法としての「改行」や「一字(行)空白」の読み方を知らないからである。ただ、不思議なことに詩歌人の多くは実際に多行作品を〝読んでいる〟。一体、どのようにして? 
 管見では、みな、大よそ〝自由詩読み〟をしていると思われる。〝自由詩読み〟とは、自由詩を読むように〝ほしいまま感覚的に〟多行作品を読むことである。自由詩の側から多行作品を読むことは容易であろう。なぜなら、「読み/書き」の自由が許されているのが自由詩の思想であり、そこにはおよそ〝文法〟など存在しないに等しいからだ。自由詩の記述において「改行」や「一字(行)空白」などはむしろありふれており、それを読者は〝ほしいまま感覚的に〟読むのである。つまり、自由詩側から見れば多行作品とは言わば「定型短詩」なのだ(実際、先述の酒卷の五〇句合評会や現俳協主催の講演会でも、論者や講演者が語った多行作品の読み方は、そのほとんどが「改行」や「一字(行)空白」の効果を無視した、おもに言葉の意味連携による解釈―つまりは〝自由詩読み〟であった)。
「一行・五七五・棒書き」の詩作品が「俳句」であるというのが私の素朴な俳句認識だが、詩作品であるとはいえ韻文構成である「俳句」を「自由詩」のように読むことは基本的に不可能である。逆の言い方をすれば、「俳句」を〝自由詩読み〟したとき、その読者は周囲から「あなたは「俳句」の読み方がわかっていない」と後ろ指をさされるだろう。一方、多行作品においては、いくらかの俳句文法を引き継ぎながらも、記述においては一行形式を超える価値として「改行」や「一字(行)空白」を駆使し、読み方においてはそのほとんどが〝自由詩読み〟である(または〝自由詩読み〟を許容している)。斯様に表記はおろか読み書きの文法まで異なるモノを、同じ土台で語ることに本来的な無理があるのだ。しかし、多行形式作家の多くは、自身の作品に対して「俳句」であることに、そして「俳句」という名称に固執する。それでありながら、「改行」「一字(行)空白」の文法を、俳句としての多行作品の基本的な読み方を、誰も語らない(語れない)のである。ここに「多行形式」における根本的なディレンマを思うのは私一人だけではないだろう。
 
 さらなる疑義のひとつは、「多行形式」という名称について、である。ひと口に「多行」といった場合、それは一行以外のすべての形式、すなわち「1+n行」形式をさす。端的に言えば、二行から果ては無限行(?)までということになるわけだが、真摯に多行形式と向き合っている作家のほとんどは、「二行」「三行」「四行」等と各々の実践する或る行数の形式にのみ特権的な価値を見出し、それに矜持を抱いて作品行為を行っている。つまり、それぞれの行数の形式が、個々に特有の言語構造をはらみ且つ独立した詩型として屹立する―形式における〝単独性〟や〝絶対性〟があると考えているのだ。たとえば、三行形式の作家はこう思っている―「三行の中には、四行や五行にはない俳句の境地がある」と。あるいは、四行形式の書き手は次のように念じている―「二行でも三行でも五行でもない。四行の中でこそ完全なる俳句の達成があるのだ」と。多行形式の作家がそれぞれの行数にこだわりを持ち、それを文学思想の高みに置くことはやぶさかではない。ただ、そうした彼らがうかつに「多行形式」とうそぶいた途端、個々の形式の差異=〝単独性〟や〝絶対性〟が消されてしまうことに自身気づいているだろうか。つまり、「多行」という名辞は、個々の行数の形式にあると思われている特性を無化し、すべてを〝等価〟してしまうのだ(付言すれば、あらゆる行数の形式を駆使し「多行形式プロパー」を僭称する者は、俳句と自由詩の差異を弁えない単なる能天気な凡作家である)。ゆえに各々の多行作家は、三行を選んだならば「ぼくは三行形式作家です」と、四行を極めようとするなら「私は四行形式作家である」と、そのように名乗ってしかるべきではないかと思われるのである。


 俳句だけに限らず、何ごとにおいても、その廃滅の寸前には、たいてい爛熟しきった頽廃的な美しい灯をまもるための、ごく少数の人たちが存在するものだ。そして、その頽廃こそ、新しい芽生えの準備なのだ。だから、その担当者には、はじめから虚無的な敗北的な動機により、この俳句形式を進んで選択した少数の孤独な魂の持ち主が、もっともふさわしいと思われる。
 僕は、その最後の虚無的な数条の光芒の中から、敢えて最短詩とは言わなくても、日本語による新しい短詩のに芽生えが始まるであろうことを、かすかながらに予期したい。


                                   (「敗北の詩」高柳重信、『バベルの塔』所収)

 誤解のないようにつけ加えておくが、「多行形式」に対する私の疑念は、俳句(=「一行・五七五・棒書き」)との区別ではあっても、詩からの、言語芸術からの排除を意味するものでは決してない。むしろ、「多行形式」というあらたな詩型の芸術ジャンルの確立をこそ希うものだ。それを思うとき、「多行形式」のおかれた或る意味〝悲惨〟な現状にはひたすら歯痒さが募るばかりである。
 若き日の重信がつづった上記の文章を読むたびに、私はいまでもかすかに胸元が熱くなるのを禁じ得ない。と同時に、高柳重信という作家は、その出発が俳句であったとしても、ついには俳句でも自由詩(における定型短詩)でもない、あらたな言語芸術の新ジャンルの創出を渇仰したのではないかと思えてならないのである。


【註】この拙論がアップされた日(11/11)から数日後、高原耕治氏より「高柳重信が『現代俳句の軌跡』中の富澤赤黄男に関する文章で「多行形式」という言葉を使用している」というご指摘を受けた。調べた結果、『現代俳句の軌跡』所収の「富沢赤黄男の場合」(初出:『俳句評論』昭和41年9月)にて「多行形式」の語を使っていることが確認された。自省と共に連絡をいただいた高原氏には深く感謝申し上げる。