新元号をめぐる祭りはたちまちの内に始まって、たちまちの内に終わってしまった。
「令和」なるネーミングの是非について論じるほどの教養など、私は全く持ち合わせていないし、持ち合わせていたところで論じるつもりもないのだが、生前退位というイベントの孕む天気雨のような明るさにはいささか心を動かされるところがあった。
町のあちこちに翻る改元を祝す旗にも、記念のオブジェの設置された百貨店の飾り窓の前で記念撮影をする人々の顔にも、この明るさは遍く降り注いでいるのだった。また、それを若干の距離を置いて見つめているつもりになっている私自身にも。
民俗学等の知見を無視した私の経験からの物言いに過ぎないが、祭りには、その渦の只中にいる人間も、渦の外部へ弾き飛ばされてしまう人間も、予定調和の「典型」に押し込めてしまう力がある。たとえ、表面的には混沌としていようとも、収束は必ず訪れる。いや、収束の予感の中で、混沌の中にある人間の「典型」を演じるのが、祭りというものなのであろう。
数年前の反原発や反安保の国会議事堂前でのデモ(これも一つの祭りであろう)について感じた居心地の悪さも、実はこの「典型」性に由来するのかも知れない。夥しい数の人間たちが集まっているにも関わらず、致命的な衝突が生まれないことの不自然さ。事故を起こさずにデモを完遂した主催者、参加者を称えるような言説もあの当時多く飛び交っていたが、私はむしろ不信感をおぼえるばかりだった。この行儀の良さは、初めから自らの運動の収束を見越した演技に過ぎなかったのではないか、と。
さて、私の住まいに近い水戸駅の駅ビルの中の書店を先日ふらついていたところ、角川書店「俳句」六月号の表紙のこんな文言が目に飛び込んできた。
「推薦!令和の新鋭 U39作家競詠」
そうか、俳句というのは雑誌の特集に堂々と新元号を使ってしまうことができるジャンルなのか。「U39」という年齢制限も、見ている側の気恥ずかしさを引き立てる。
時間や時代を区切る単位には必ず何らかの恣意性が含まれるものだが、特に天皇制と関わりの深い元号という単位の変わり目を言祝ぐという「典型」的な国民の所作を、俳句雑誌は演じてみせる。多くの「新鋭」たちを供物として。そもそも俳句というジャンルは、周知の通り、北と南で大幅に生態系のありようが変わる日本という島国の自然を、季語というシステムを用いて恣意的に統一している(無論、それを批判する動きもあるのだが)。つまり、「典型」を作ることによって支えられている文芸なのである。また、「典型」化への無防備さを実践することそのものが、この文芸の強みなのかもしれない。
とはいえ、そのようなまなざしをこの特集タイトルに向けてしまう私自身も、一つの「典型」と化しているのであろう。「典型」は、それに抵抗しようとする別の「典型」を再生産する。俳句という文芸に対して昔から感じている余裕のようなものも、この再生産の堂々巡りによって支えられているものなのではあるまいか、もしや。
「令和」なるネーミングの是非について論じるほどの教養など、私は全く持ち合わせていないし、持ち合わせていたところで論じるつもりもないのだが、生前退位というイベントの孕む天気雨のような明るさにはいささか心を動かされるところがあった。
町のあちこちに翻る改元を祝す旗にも、記念のオブジェの設置された百貨店の飾り窓の前で記念撮影をする人々の顔にも、この明るさは遍く降り注いでいるのだった。また、それを若干の距離を置いて見つめているつもりになっている私自身にも。
民俗学等の知見を無視した私の経験からの物言いに過ぎないが、祭りには、その渦の只中にいる人間も、渦の外部へ弾き飛ばされてしまう人間も、予定調和の「典型」に押し込めてしまう力がある。たとえ、表面的には混沌としていようとも、収束は必ず訪れる。いや、収束の予感の中で、混沌の中にある人間の「典型」を演じるのが、祭りというものなのであろう。
数年前の反原発や反安保の国会議事堂前でのデモ(これも一つの祭りであろう)について感じた居心地の悪さも、実はこの「典型」性に由来するのかも知れない。夥しい数の人間たちが集まっているにも関わらず、致命的な衝突が生まれないことの不自然さ。事故を起こさずにデモを完遂した主催者、参加者を称えるような言説もあの当時多く飛び交っていたが、私はむしろ不信感をおぼえるばかりだった。この行儀の良さは、初めから自らの運動の収束を見越した演技に過ぎなかったのではないか、と。
さて、私の住まいに近い水戸駅の駅ビルの中の書店を先日ふらついていたところ、角川書店「俳句」六月号の表紙のこんな文言が目に飛び込んできた。
「推薦!令和の新鋭 U39作家競詠」
そうか、俳句というのは雑誌の特集に堂々と新元号を使ってしまうことができるジャンルなのか。「U39」という年齢制限も、見ている側の気恥ずかしさを引き立てる。
時間や時代を区切る単位には必ず何らかの恣意性が含まれるものだが、特に天皇制と関わりの深い元号という単位の変わり目を言祝ぐという「典型」的な国民の所作を、俳句雑誌は演じてみせる。多くの「新鋭」たちを供物として。そもそも俳句というジャンルは、周知の通り、北と南で大幅に生態系のありようが変わる日本という島国の自然を、季語というシステムを用いて恣意的に統一している(無論、それを批判する動きもあるのだが)。つまり、「典型」を作ることによって支えられている文芸なのである。また、「典型」化への無防備さを実践することそのものが、この文芸の強みなのかもしれない。
とはいえ、そのようなまなざしをこの特集タイトルに向けてしまう私自身も、一つの「典型」と化しているのであろう。「典型」は、それに抵抗しようとする別の「典型」を再生産する。俳句という文芸に対して昔から感じている余裕のようなものも、この再生産の堂々巡りによって支えられているものなのではあるまいか、もしや。