「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評〈フォト俳句〉の構図と鑑賞 ~中谷吉隆・森村誠一の作品から~ 物部鳥奈(玲はる名)・歌人

2017年01月30日 | 日記
 この頃、注目しているジャンルがあります。近年、愛好者を増やし、メディアで話題になることも多くなってきた〈フォト俳句〉です。

 〈フォト俳句〉は文字通り写真と俳句がひとつとなった作品で、多くは写真1枚に対して俳句が1句(2句の例も)添えられています。
 写真はカラーも白黒もありですが、作品群を見ていると、加工などはせず、撮影したものがそのまま使われていることがほとんど。撮影者は現場性や現実を重視し、場面を切り取る力で勝負しています。
 俳句は活字・筆書きなどフォーマットは自由ですが、基本的に写真の画像内を荒らすようなことはせず、脇に配置されています。(それが規定ということではないようですが)

 この〈フォト俳句〉が注目されはじめた背景には、スマートフォンや携帯電話といった写真撮影ができる携帯端末の増加・普及、元気な中高年世代の人口増加などがあげられます。
SNSで完成品をすぐに友人・知人に見せることができ、反応を得ることができる利便性がウケているのでしょう。そして、活字だけがtwitterなどに流れてくるよりも、写真に強いアイキャッチ力があることは皆さまご存じの通りです。

 メディア系のデータベースや販売されている書籍などいくつか参考にさせて頂きましたが、作品と解説という意味では2015年に森村誠一名誉顧問を迎えて発足した「写真俳句連絡協議会」と「信濃毎日新聞」が2008年頃(未確認)から運営をしている「フォト×俳句」の両サイトは資料的価値が高いと思いました。(文末に参考リンク)

 ■〈フォト俳句〉での写真と俳句の関係

 ふたつの例から〈フォト俳句〉の構図を読みます。

 ひとつめは「フォト×俳句」の「選者作品」欄にある2017年1月19日更新の作品です。

  熱燗(あつかん)に身を委ねたる夕かな 龍子

 〈フォト俳句〉の選者で写真家・中谷吉隆先生の俳号「龍子」です。(虚子系の「花鳥」にご所属だそうなので、ホトトギス・川端龍子を意識されていらっしゃるのかもというのは想像です)
 この俳句が添えられているのが、雪化粧をした宿の写真です。背景には雪化粧をした高い杉の木が立っています。まだ明るい時間帯ですが、雪たちの影がカラー写真であるのにも関わらず墨絵のような風合いを与えています。雪国独特の美しさです。
 また、屋根の下にひとつだけ灯る燈火が、大自然のなかでの文化的情緒を醸し出しており、慕郷の情など幻想と現実のはざ間を感じさせる一枚です。

 俳句は雪景色については一切触れられておらず、冬の季語である「熱燗」だけで作中主体である作者(と一応断定する)の夕餉の安堵感や至福感を伝えています。

 この作品では写真が場所を表す遠景となり、俳句が〈私(わたくし)性〉を語る近景となって、作品全体の広がりを確保しています。

 例えば、これを何かしらの文章で表現するのだとすれば、

  雪深き山奥のちいさな古宿に着いた私は、
  年代物の灯の燈る小窓から
  高い杉の木々が吹雪に靡く一面の白い世界、
  そしてその先にはさらに高い山景色を眺めながめながら、
  熱燗をひと口含む・・・

 云々ということになるでしょう。
 こうした世界観をほんの数秒で伝え切る力が〈フォト俳句〉にはありますね。

     *

 ふたつめは「写真俳句連絡協議会」の「森村誠一の写真俳句館」にある作品です。2005年の3月から始まり、2017年1月25日現在で第614週まで更新されており、森村先生の〈フォト俳句〉のキャリアとその日々が想われ、ひとつずつ見ているとついつい時間が経ってしまいます。

 例えば2015年1月24日第510週の作品

  家猫とノラの差別や天高し  森村誠一

 小説・ノンフィクションと多方面にご活躍ですが、ご自身のホームページにそれらの偉業と同等のサイズで「ねこ特集」という猫のグラビアページがあります。(私的好感度最高潮です)猫へ並々ならぬ情を注がれているからこそでしょうか、極自然に猫のいる場面に奥深い世界観が広がります。

 写真は家の窓を隔て、外側には仰向けに気だるく寝ている〈ノラ猫〉の姿と、内側で撮影者を見つめている〈家猫〉の姿が写されています。
外は明るく、内は影と対照的です。ありそうでない風景、いわゆるシャッターチャンスを狙った写真で親しみがありながらも、凛と哲学的な写真です。

 俳句はまず〈ノラ猫〉と〈家猫〉の比較をしています。〈衣食住〉の安定した〈家猫〉の幸せと、そうではない〈ノラ猫〉の対比に読者の思考は傾くかもしれません。
但し、そこへ「天高し」があることによって、読者へ想像と選択の広がりを与えています。「天高し」は秋の季語で晴れた日の澄んだ空です。

  天高し雲行く方に我も行く  高浜虚子 ※表記に媒体の差あり

 虚子の有名な句ですが、風来坊のように、生き様がポジティブに捉えられていて、心が軽くなります。〈ノラ猫〉についても、自由であることの素晴らしさが強調され、全体を読み終えてから、後追いで「ではどちらが幸せか」という問いを読者に投げかけてきます。
ここで「差別」という言葉が響いてきます。「区別」など同義語は幾つかありますが、「差別」であることに、作者の批判性が押し出されているのです。
 〈家猫〉への愛情がありながらも、〈ノラ猫〉を自由に想うこと。ここで詠まれている「差別」というものは、世間一般の猫に対する偏見というよりは、自由を奪う者=〈猫を飼う私(わたくし)〉へも向けられているのかもしれません。

 写真に向き返ってみると、「空高し」が深く写真に反映され、ノラ猫の半生や人生観までも彷彿とさせます。写真と俳句の双方に意味的な強度を与えている作品と言えるでしょう。

 森村先生の俳句写真を辿ってゆくと、当初は描写的であったところから、最近では哲学・教訓的な作品を多作なさっているようです。こうした、作歌のテーマ性の変遷というのも、ポイントとして押さえておきたいところです。

     *

 写真家の中谷吉隆先生、小説家の森村誠一先生の作品の構図は、前出の通り、中谷先生は遠景と近景で場面の広がりを担保する作り方、森村先生はひとつの場面の奥底に物語や哲学・教訓の手掛かりを俳句に託す作り方と、そのように読みました。皆さまは如何でしょうか。

 ■〈フォト俳句〉いざ、作るとなると?

 では、勇気をだしてひとつ作ってみようと思うとき、幾つかの疑問点が湧いてきます。
 まずは季語に関してです。仮に「寒梅」の写真があって、もしタイトルをつけるだけなのであれば「寒梅」でもよいのでしょうが、俳句の厳格なセオリーを守るのであれば、俳句側に「寒梅」を入れると、写真と意味が重複してしまうことになります。作中での〈つきすぎ〉も発生してきます。

 そういった意味では「熱燗」×「雪景色」も季語重複ということになるのでしょうけれども、それがどこらへんの〈塩梅〉まで許されるのかを感覚的に捉えてゆくのにはある程度の経験値が必要そうです。

 それから陥りやすい過ちとして、俳句がただのキャプション(写真説明)になってしまうこと、また、俳句が独りよがり過ぎて、写真と意味の接続がかけ離れてしまうこと。写真に多くのものが写り込み過ぎて、世界観を壊してしまうこと。などなど、技術的にはかなり注意が必要そうです。入口は広く、奥が深いとも言えますね。

「信濃毎日新聞」の「フォト×俳句」に「実践講座ワイド」という投稿作品の解説が載っていて、タイトル通り実践的でとても有用です。こちらを読んでいると、写真の空の色ひとつで、物語が大きく転換することや、加工しないまでも、狙って場面や色彩を選び、撮ってゆくことも必要なのだということが分かってきます。
例えば短歌を書くときに、現実をただ書くのではなく、選ばれた現実を魅せるという写実的表現が技術なのであれば、また〈フォト俳句〉の写真もそうしたものなのだろうと考えさせられます。

     *

 最近まで子規・漱石生誕150年記念と冠して「国際写真俳句コンテスト」の募集がされていたようです。それ以外にもコンテストの類は多くあり盛り上がりをみせています。今後、益々作家の層は厚くなるのではないかと予想しています。
 詩歌に限りませんが、ジャンルは新旧に関わらず、追求し昇華する人がいれば、長く愛されてゆくものだと思うところです。


  ○参考にさせて頂いたサイト
   「フォト×俳句」サイト(信濃毎日新聞)
   http://www.shinmai.co.jp/photohaiku/
   「写真俳句連絡協議会」サイト
   http://shashin-haiku.org/
   「森村誠一公式」サイト
   http://morimuraseiichi.com/
   「中谷吉隆 極楽のアート フォト俳句の世界」サイト
   http://nakatani-photohaiku.com/
   「国際写真俳句コンテスト」
   http://matsuyamahaiku.jp/contest/
  ※著作権・許可等の関係で作品への直リンクは貼っておりません。

※引用中、丸括弧はルビ。 

俳句評 ミニトマトの中の肺の月 カニエ・ナハ

2017年01月08日 | 日記
 北大路翼さんの『天使の涎』を読んでいて、作風は違うけれども、俳優の渥美清さんやおなじく俳優の成田三樹夫さんの俳句のことを思いだして、私は以前この詩客の俳句時評に渥美さんと成田さんの俳句について書いたのですが、それを読み返してみると、俳人と俳優がおなじ「俳」の字であるのにはなにかワケがありそうだ、みたいなことが書かれていて、そのときはそれ以上つっこんでみていなかったのだけど、いまあらためて、「俳」という漢字を、私のしごと机に常備されている白川静漢字辞典でしらべてみると、まず、「非に排(おす)・徘(さまよう)の音がある。」とあり、「排」の「(おす)」は「押す」か「圧す」かな、でも『天使の涎』のあとがきをいまさっき読んだ私には「押忍」と変換されて、徘(さまよう)は、新宿歌舞伎町界隈を夜ごと徘徊されているらしい北大路さんにふさわしい、ああそうか、俳諧は徘徊なんですね、白川静漢字辞典のつづきを読んでいくと、「(…)それで二人並んで戯れ演じることを俳といい、「たわむれる、たわむれ、おどけ」の意味に用いる。滑稽な動作をして舞い歌うわざおぎ(役者)を俳優という。滑稽を主とする俳諧連歌の第一句(発句)が独立し、五・七・五の十七音節からなる短詩が俳句である。」とあり、さいごのところで俳句が短詩であることにもいまさらながらあらためてそうか、とかおもってしまったのだけど、そうか、もともとの「俳」の字の語源をたどっていくと、笑わせることができてこその俳優で、言葉とたわむれ、おどけるひとが俳人なのかもしれません、そう思うと、北大路さんのこの句集は一見異端のように見せてじつはとても句集らしい句集、ど真ん中の句集なのかもしれなくて、この文章の冒頭で私は渥美清さんや成田三樹夫さんの俳句を思い出したと書きましたけれど、映画「男はつらいよ」とか「仁義なき戦い」シリーズって、私のもっとも好きな日本映画ですけれど、アウトロー、Wikipediaを見ると、北大路さんが俳句をはじめたきっかけが山頭火と書いてありますけれど、渥美さんは山頭火や放哉に憧れて俳句をされていた、山頭火を演じる話もあったらしい、山頭火や放哉もまさにアウトローですよね、寅さんも仁義なき戦いのやくざたちも、そんなアウトローたちのための詩型としての俳句、という言葉ないし系譜が浮かび上がりました、なぜ短歌じゃなくて俳句なのか、ひとつには俳優は後姿で語るとかいいますけれど、短歌だと背中でなくて言葉で語りすぎてしまうのかもしれません、また俳優は短命じゃこまる、映画にしろ舞台にしろロングランしてもらわないと、にしても、北大路さんの句集の、一頁のうちにぎっしりと句のつまったレイアウトは、いまの句集の常識にけんかを売るみたいのもあるとおもうけれど、この情報量の多さ、深作欣二監督「仁義なき戦い」シリーズの、画面いっぱいに顔顔顔がひしめき、せりふとせりふとせりふが飛び交い、それらがめくるめく速度で流れていく、あの圧倒的な情報量の多さを思い出しました、この量・密度でなければ出すことのできないグルーヴがありますよね、この句集を読む人それぞれが好きな句なり刺さった句なりを十句なり三十句なり挙げていったとして、それらはなかなかかぶらないのではないか、おなじひとが選んでも、その日の気分とか体調で、ずいぶん変わってきそう、そういった意味でも、「男はつらいよ」や「仁義なき戦い」シリーズがそうであるように、これは何回もリピートをうながすタイプの句集、くりかえし読んでやっとその真価が見えてきそうな句集で、句集のなかのもうひとつの歌舞伎町のようなマチを夜ごとめくるめく徘徊すればいい、とりあえず、今回私が読んで気に入った句を、本のまんなかへんから(付箋を貼ることを途中からはじめた、というのもあって)、てきとうにピックアップしてみます、「失神をするとき白い曼珠沙華」これは性交のときのことをいってるのかな、そうおもってよむとマンジュシャゲにしろヒガンバナにしろ、妙にエロティックな花に見えて(聞こえて)きます、「満月は丸ではないと告げ眠る」そのあとどんな夢をみるのか、「日本の最後の景色として芒」この国がやがて亡びて芒だけがのこっているというこのリアリティ、「ストローのとんがつてゐる方が冬」つららみたいなストローですね、「枯れ芝に人敷き詰めて待つ来世」やっぱり亡んでしまったんだ日本、「シチュー煮る雪を還つてゆく人に」このひとは来世へと還るのか、「正月は人がクラゲに近づく日」水母なのか海月なのか、ちなみに私の祖父母の家は海の近くにありました、「瞬間を重ねて時間雪しんしん」雪は砂時計の砂のように時間そのもののように降り注ぐようにみえますね、「春の日を背中に受けてカプチーノ」春の日がカプチーノそのものみたいに見えますね、「悩むよりサボらう風が気持ちいい」これ座右の銘にしたいです、「死んだひとと一緒に暮らす金魚鉢」崖の上のポニョって映画、ひと言でいうとこういう話だった気がします、「かたちあるものかも知れず噴水は」このさだまりそうでさだまらない感じがまさに噴水のかたちをいいあててるとおもいます、「ミニトマトの小さくあらうとする力」そうか、だからミニトマトって大きいトマトよりもエネルギーが充満しているように見えて、北大路さんの句集も、ちいさな本のなかに2000句もの俳句をぎゅっと凝縮した、外側からおしこめる力(おす=排)と内側からおしだす力がぶつかりあって、ものすごいエネルギーをたたえているのだと思いました、はい、押忍。