(1)はじめに
多行形式俳句の評論の3回目である。
重信により産み出された多行形式俳句は、一行ごとの片言の重圧からくる息苦しさをその宿痾、業として有する。それは、一行棒書き俳句の、読みの流れ(一箇所の切れでどこかで一旦立ち止まるとしても)と比較してあまりにも息苦しい。前回見たように、ぶちぶちに切れてしまうこの文芸的な欠点(敢えて欠点とここでは言う)、その息苦しさを忌避するため、後期の重信は色々なことを多行形式俳句で試した(多行形式俳句(2)逃げる鸚鵡はどこへゆく)。
1) 連作としての定型に落とし込む。
飛騨の
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇の
みことかな
2)軍艦名(地名、地霊)を「お題」として用いての連作。
3) 尻取り遊びで名詞が紡がれる。
4) 頭韻を踏む
三隈なる 高柳重信『日本海軍』昭和五十四年
虬
水無月
みんみん蝉
重信はこれらを駆使、組み合わせ、複数切れによる重苦しさの軽減、名詞ばかりがぶちぶちに並ぶ不自然さへのアリバイ作り、受容しやすさ、それらが総合的に作用し、読み手の多行の必然性への疑義を低下させる。
多行と格闘した後続の者はどのように対処したのであろうか。
(2)多行形式俳句のその後、その1
昨年2019年に出版された『俳句詞華集 多行形式百句』(林桂 編著)はこの世界を俯瞰するに好著である。気に入った幾つかの作品を抜き出し鑑賞、翫賞する。
押入は 岩片仁次『臨終書簡』平成十四年
邊境ならん
弟よ
*
われら昔 岩片仁次『冥境歳時記』平成十五年
虚數なりけり
二十歳
岩片は正当なる重信の後継者である。多行形式俳句が持つ本質的特性である重苦しさを岩片は受容(利用)しそれを俳句の特色としている。ただ、厳しい言葉で言えば、これらの俳句は重信前期作品の焼き直しの印象を与える。勿論、岩片はそのような指摘は百も承知であろうし、むしろ、そう指摘されることを誉れとも感じているような印象をこれらの句は与える。
それは、高原耕治や上田玄の俳句からも同様な印象を受ける。
死靈あかりの 高原耕治『虛神』平成十一年
椎の木
曝し
おさびしやまよ
*
搏チテシ止マム 上田玄『暗夜口碑』平成三十年
父ヲ
父ハ
このような鉄の鎧を纏ったような多行形式俳句は、作者の言うに言われぬ心情が表出した作品であろうし、作者はその内容に似う形式として多行形式を選び取ったと言える。形式に祝福された作と言える。
(3)多行形式俳句のその後、その2
その一方で、方向性の異なる多行形式俳句も模索され、作られ続けている。
森羅 折笠美秋『火傳書』平成元年
しみじみ
萬象
一個の桃にあり
美秋には、<天體やゆうべ毛深きももすもも>、<夢夢と湯舟も北へ行く舟か>、<晩年は鯨を愛す日の帝>、<或る日老いたり遠見の鱶に陽は游び>、<極楽の裏手で葱をつくりおる>(以上『虎嘯記』昭和五十九年)、<まだ誰も知らない死後へ野菊道>、<見えざれば霧の中では霧を見る>(以上『君なら蝶に』昭和六十一年)等の印象深い句がある。
『火傳書』は折笠美秋の唯一の多行形式俳句集である。師である高柳重信の逝去(S58)を悼んで、それに触発され恩返しの意味合いも込めての多行俳句群であろう。本句、「森羅萬象」を切り分け、一個の桃に着地させる。ここでは「森羅」、「しみじみ」と頭韻を踏んでいる。三、四、四、九、という破調を四行にしみじみと詩心にまとめている。
ここには重信の作風とは異なる独自の作風の可能性が示されている。多行の持つ重くれを感じさせない自然体の境地とも言える。これは彼の最晩年の句集であり、翌年平成二年には死去。その先の風景を我々は見られなかった。
焼野匂へり 林桂『黄昏の薔薇』昭和五十九年
遠く
性欲花のごとし
*
水より高きに 林桂『銀の蟬』平成六年
肉を
量りて
暮春かな
*
今は昔 林桂『雪中父母』平成二十七年
父在り
母在り
蚕時雨あり
編著である林は『俳句詞華集 多行形式百句』に自作を多数入れている。アンソロジーに自作を多数入れることの是非はあろうが、ここは林の自負とみたい。林も多行形式俳句の重くれを感じさせない独自の作風を確立している。それは、重信が用いた小手先の便法ではなく、その描く内容世界により、である。たおやかな叙情的世界が多行形式俳句という重苦しさを忘れさせる。
ルノワールの裸婦も当初、「死斑の出た、腐ったような肉塊」との評を受けた。基本、保守的な動物(人も含め)は、見慣れぬものに対しては正しく恐れ、拒否反応を引き起こす。しかし、それを受容する一部のもの(人)によって、集団は導かれ先に進んで行く。
多行形式俳句もその存在が世に知られるようになった後、いつまでもその意義を厳しく批判し続ける必要はない。全ての多行形式俳句について、これを一行にできないのか、多行形式俳句とする必然性はあるのかと、殊更に多行形式俳句をコロナ禍での自粛警察のごとくに厳しく監視して回る必要はない。一部の俳句の読み手はともすると「多行警察」になってしまっている。ましてや、多行というだけで、多行形式俳句を俳句と呼ぶことを拒否する態度というのはあまりに俳句世界を自ら狭める行為である。
これらの林の俳句も厳しい検閲にかける必要はない。もしそのようなことをすれば、反復による効果を狙っている三句目の句しか、多行にする必然性は感じられない、という者が多かろう。構えずとも、自然体でゆるやかに多行形式俳句を書いても良いのだよ、とこれらの俳句は語りかけている。
(4)再度、大岡頌司
自然体ということであれば、再度、大岡頌司の俳句に戻る必要があろう。
以下、『大岡頌司全句集』(浦島工作舎)より。
ちづをひらけば 大岡頌司『抱艫長女』昭和四十八年
せんとへれなは
ちひさなしま
本句、「セントヘレナ」も含めて全てひらがな表記にすることで、多行形式のゴツゴツ感を和らげている。それだけでなく、言っていることも無内容でそれが印象を柔和にしている。さらには、上五を「ちづをひらけば」と七にしたことで揺蕩うような情緒が付与されている。
ふりかへる 大岡頌司『抱艫長女』
長き尾が欲し
枯野驛
*
黄泉の厠に 大岡頌司『抱艫長女』
人ひとりゐる
暑さかな
*
ぜんまいに 大岡頌司『抱艫長女』
ひとり遲れて
雉子を撃つ
*
しばらくは 大岡頌司『利根川志圖』昭和五十年
陰に帰らむ
麦の秋
*
近づきて 大岡頌司『利根川志圖』
また遠ざかる
彼岸花
五七五をそのまま三行に分かち書きする大岡俳句は「俳句とは何か」ということの本質に迫る問いを秘めている。
4句目、死んだ大気都比売の陰(女陰)から麦が生まれたとの神話(古事記)を踏まえた母胎回帰願望の句であるが、このおおらかな歌いぶりは三行ならではのものと言える。5句目、ちょうどこの時期に咲く彼岸花。筆者の実家の裏はお墓なのだが、彼岸花がたくさん植えられている。土葬が当たり前だった昔、墓を荒らすモグラやネズミ除けのために球根に猛毒を持つ彼岸花が植えられたと言われている。別名、死人花。本句では、彼岸花を歌いつつ、彼岸を暗示している。体調が優れない時には彼岸に近づく心持ちがする、その幽冥の境地を彼岸花に仮託して歌う。
三行に書き分けることにより、これらの句から受ける印象は却って格段にやさしくなる。それはなぜか。展覧会で絵画を足を止めて一つずつじっくりと鑑賞するように、十七音を一気に読ませるのではなく、一行一行に分けることにより、時間をかけてゆっくりと鑑賞することになる。ここには改行による切れの重圧はない。改行による切れ、それは「文脈中の意味的切れ」ではなく「鑑賞の切れ」なのである。
(5)最後に
現代の俳句は書かれたものとして提出され、受領されることを常とする。そうである以上、五七五の俳句であっても、それをどのような形で書いて提出するか、作者も読者もより柔軟に対応しても良い。すでに俳句作家は細やかに表記に関心を払っている。ひらがなにするのか、漢字にするのか、漢字にするとしてもどの漢字を使うのか(暗い、昏い、冥い、幽い、等)。一度、自分の五七五俳句を三行に書いてみて印象の変化を感じて欲しい。
ここまで来て、多行形式俳句の違和感はかなり失せているだろう。大岡頌司の三行俳句が多行形式俳句の敷居を下げた貢献、本質を変質させた業績はもっと評価されてよい。