「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評 第86回 ここは「不思議な町」。ー関悦史句集『花咲く機械上独身者たちの活造り』を読む日々ー 岡村 知昭

2017年05月27日 | 日記
 〇月×日
 関悦史氏の第2句集『花咲く機械上独身者たちの活造り』(港の人)の読み直しは、ようやくⅧ章「BL」までたどり着いた。今日は職場から家に帰る途中にマクドナルドに寄ってアイスコーヒーを飲みつつ読み進めようしたのだが、店内にたむろする中学生、高校生たちが騒がしすぎてすぐに店を出た。家で句集に再び取り掛かり、読み進めているうちに時刻は、日付が変わる手前である。
 
 「あいつ綺麗な顔して何食つたらあんな巨根に」風光る

 Ⅷ章に収められているのは、さまざまな場面設定での「BL」の数々である。最初に作品を読んだときには、2人の性愛的な絡みがはっきりと打ち出されている別の作品のほうに目が向いていたせいで、この句への印象は薄かったのだが、読み直しているうちにだんだん気になってしまった、そんな1句である。
「あいつ~」の句から考えてみる。「綺麗な顔」と「巨根」との組み合わせのインパクトが抜群でそちらに目が向いてしまいがちになる。だが1句を成り立たたせているのは、上5中7をはみだしすぎている破調、「あいつ~なに食つたら~」との会話調、そして会話調に付けられたカギカッコ。この3点によるところが大きい、と見ていい。ここで一句のモチーフを確認し直すと、「綺麗な顔のあいつ」が「巨根」であるとの事実を目の当たりにした衝撃から押し寄せてくる、憧れ、嫉妬、苛立ち、そして「巨根」の「あいつ」を性的対象として見てしまっている(らしい)自分への戸惑いといった複雑の感情のありようだ。ここで、このモチーフを一句へと導くとき、あくまで定型に添って進めようとした可能性は十分にあったはずなのだ。もしそのような整理が施されていたなら、

何食つたらあんな巨根に風光る(以下改作例)
綺麗な顔してるが巨根風光る
あいつ綺麗な顔して巨根風光る

といった作品になっていたかもしれない。破調は最低限にとどめられ、会話調は使われたかもしれないが、カギカッコは付いていなかっただろう。だが選ばれたのは「あいつ綺麗な顔して何食つたらあんな巨根に」との破調と会話調とカギカッコだった。この3点を使ったことで、上5中7は相手の「巨根」に対して誰かが発した言葉を書きとめた、との意味合いも濃くなり、自分が相手の「巨根」に対して抱く感情、という側面は薄くなる。もちろんカギカッコを付けられた上5中7は「風光る」との取り合わせによって、「綺麗な顔のあいつの巨根」への自分の複雑な感情を際立たせてしまってもいるのだが。
ここまで考えを進めてきて、日付が変わってだいぶ経っているのに気付いた。今日はここまで。句集を読み進めていくしかない。それにしても、マクドナルドの中高生たちの、騒がしかったことときたら。

マクドナルド夜は腹白き飛蝗の窓
女児同士ほとに頭突きや花の中
自転車(チャリ)二台「空腹!」「俺も!」「じゃーね」と別れ夏の暮


5月20日
 共謀罪の成立が不可避となってしまった夜、共謀罪反対を訴える国会前でのデモの様子が、関氏のツイッターを通じて流れてきている。この第2句集とほぼ同時に刊行された関氏の初の散文集『俳句という他界』(邑書林)に収められた渡辺白泉の「銃後といふ不思議な町を丘で見た」についての文章を読み返す(「渡辺白泉の『不思議な町』」)。特定秘密保護法の施行直前に書かれたもの。締めくくりは次の通りである、「『不思議な町』は今眼前にある。」
 
 六十路の子の涎をふきに官邸へ
 万の主権者と警官隊に夜涼のヘリ
 法治国家の忌の涼風が群衆に


 「巨根」の句について考えをめぐらせていた夜からだいぶ間が空いてしまったのだが、その間に青木亮人氏の『その眼、俳人につき』(邑書林)に収められた関氏の第一句集『六十億本の回転する曲がった棒』(邑書林)を論じた文章(「空爆と雑煮、既にそこにあった『平成』の道標」)を読めたのはよかった。この文章では関氏の作品の特徴について「実際には『私』の欲動に貫かれた句群」「関はこれらが『私』に感応した事象であることを優先し、而も大づかみに捉えて淡々と詠むため(中略)陰影の中にもユーモアが漂う(以下略)」と的確に指摘しているのだが、その指摘を元に「巨根」の句を考えてみると、あのような形になったのは、「あいつの巨根への欲動」を「淡々と詠む」ことに徹したからなのか、とようやく深く納得できたのだった。
 関氏の俳句における「欲動への感応」と「大づかみに淡々」との両立は、この第2句集においても十二分に発揮され、全1402句が収められているこの一冊を貫く大きな軸となっている、と見ていいだろう。多種多彩なモチーフに向かい合い、「欲動への感応」と「大づかみに淡々」を両立させながら発動させ、一句として成りたたせる。この過程を記しているかのような一節が、関氏自身も参加した、俳人たちによる東日本大震災の被災地、福島県いわき市へのツアーについて書かれた文章に記されている。

 写生は余計な言説を排することができ、土地褒めにもつながる。内観は、よそ者として被災地の衝撃を受け止めざるを得なかったことにもよるが、もう一つ、現場を見ても、その日の様子と恐怖は想像するしかなかったことにもよる。(中略)現地での句作は、俳句形式の寡黙さをもって、どれだけその土地の「話が聴ける」かが問われたように思う。(「被災地で句を詠む-寡黙さを持って聞く」前掲『俳句という他界』所収)

 津波跡すこし離れて焼秋刀魚
 残りし壁に「イヤ」と大書やいはきの秋
 津波語る小林幸子の団扇手に
 とめどなき汚染の海やサーファーゐる
 「プラチナ買います」てふ店舗被曝の雨に冷ゆ


 津波の被災地を訪れ、現場と向き合うときに「余分な言説を排し」ながら、土地の「話を聴こう」とするために「想像するしかなかった」という一見したところ相反するように見えるふたつの方法を取らざるを得なかった俳人たち。しかし、このふたつの方法は「欲望への感応」と「大づかみで淡々」を両立させながら一句を成り立たせるという、関氏の作品の特徴と確実につながっている。いわき市および帰還困難区域を詠んだ作品と、「あいつ綺麗な顔して何食つたらあんな巨根に」と詠まれた一句とが、同じ1冊の句集に収められているのは、さらにはラブドールが、原発が、国会前のデモが、侵食世界が、BLが、1冊のなかに、余分を徹底的に排された、ありのままの存在としてうごめいているのは、関氏の俳句の特徴がもたらす、必然というべきものかもしれない。

 火事のニュースの珍なる子の名皆眺む
 模造裸婦らの見目良き乳房大・中・小
 取り出さるる燃料棒へ賀状書く
  デモ参加には東京への交通費が要る
 デモの後冬三日ほぼ食はずをり
 脳内少女が「どうせまた残暑なんでしょ」と
 夏の雲バケツプリンに映りたがる
 藻類である女性士官 東北地方の南部に位置
 「ところてんと! あんみつは! 冷やせ!」部下の若者「ハイ!」

 
 夜が明けた。土曜日・日曜日ともによく晴れた、初夏の行楽日和の週末となりそうだ。街には着飾った人たちが多く出向いてくるのだろう。白泉は丘から見据えていた「不思議な町」の様子を書けなかった。銃後とはかくも、であろうか。あまりにも近づいているのかもしれないけれど、いまだ銃後ではないようなので、せっかくの休日、関氏の句集を持って街へ出てみようか、と思っていたりする。そして街へ出て、句集をめくって、こうつぶやいてみたいのだ、「『不思議な町』は、いまここにある」と。じゃあ、どんな街ですかって?それはこの句集『花咲く~』に、ぜんぶ書いてあるのでは、ないでしょうか。