前回の記事(「惑星的な俳句について」)で私は「日本の俳句」を「俳句」のサブ・システムとして位置づけた。機能的に分化した近代の諸社会システムは、セカンド・オーダーの観察(観察を観察すること)のレヴェルにおいて成立しているから、セカンド・オーダーの観察を失った「日本の俳句」は死んだ。より穏当な表現でいえば脱分化(Entdifferenzierung)してしまった――同じことだが。このように整理してみると、脱分化したサブ・システムが、その結果、上位のシステムに吸収されなかったことは不思議なことである。リビングとダイニングのあいだの壁・間仕切りを取り除くタイプの脱分化ではなく、柱も床もゆっくりと朽ちて、沈んで消滅していったようにみえる。むろん、「不思議な」というのは皮肉で言っているのだが。
今回の記事では、19世紀末から20世紀初頭にかけて俳句に生じたできごとを、レジュメを切るように、箇条書き的にまとめておこう。膨大な文献・情報があるため、ごく断片的なまとめになってしまうことはお許し願いたい。便宜的に言語圏ごとにまとめてみるが、ジャパノロジスト(日本研究家)たちの仕事は相互参照が盛んであり、前後関係をあとづけることも難しい(文献の初出年を確定することも難しいし、版ごとの異同も大きい。そのため、初出年についてはここでのまとめにおいても誤りは多いだろうと思われる)。また、俳句から影響を受けた西洋の詩人たちにとって(西洋内の)言語の違いは問題にならないことも、念頭におかなければならない。流れを追ううえで、(1)俳句が一足飛びに文学的に高い評価を得たわけではないこと(多くのジャパノロジストが――当時の日本人がそうであったように――俳句をまともな「詩」として扱うことを、馬鹿げたことと考えていた)、(2)エズラ・パウンドに強い影響を与えたことで有名な、荒木田守武の「落花枝に帰ると見れば胡蝶かな」という句(以下「落花」句)がさまざまな文献において紹介されていたこと(前述のように相互参照のたまものである)、(3)フランスの文芸批評家バンジャマン・クレミューが「ハイカイの年」と呼んだ1920年が、エポックのひとつのピークをなしていたこと、以上三点に注意を払っておきたい。
前提として、日本政府の欧化主義と、この流れに沿った新体詩による日本の短詩の否定を抑えておかなければならない。W.G.アストンが『日本語文語文法 第2版(The Grammar of Japanese Written Language)』(1877年)において、俳句の作例を翻訳しつつ(1872年の初版には作例がない)「Hokku(発句)」(「haikwai uta(俳諧歌)」とも書かれる)を一頁にわたって説明しているのが、おそらく初めて俳句が英訳された事例と思われる。ここでアストンが記述する俳句は、文学的に評価されていない時点での俳句であるようだ。
The admirers of haikwai uta claim for it a quasi-classical character; but it is objected, with much reason, that nothing which deserves the name of poetry can well be contained in the narrow compass of a verse of seventeen syllables.
(「俳諧歌」を称賛する者たちは、その準古典的な性質を主張するのではあるが、17音節という狭い範囲に、詩の名に値するものをうまく含めることは不可能だと非難するのも、至極もっともなことだ。)
こうした見方は、1880年代までは一般的なものだった(アストンはおよそ20年後の、1899年『日本文学史(A History of Japanese Literature)』で俳句を「一種の詩(a kind of poem)」として取り上げている)。1882年、外山正一・矢田部良吉・井上哲次郎『新体詩抄』の「序」において外山正一は《蓋し其鳴方の斯く簡短なるを以て見れバ、其内にある思想とても又極めて簡短なるものたるハ疑なし、甚だ無礼なる申分かハ知らねども三十一文字や川柳等〔引用者注:俳句を含む〕の如き鳴方にて能く鳴り尽すことの出来る思想ハ、線香烟花か流星位の思に過ぎるべし》と述べている。俳句や短歌のような短いものでは線香花火か流れ星のような思想しか表すことができない、というわけである。こうした見方に揺さぶりがかけられるのは、正岡子規が新聞『日本』の記者になることを待たなければならない。1883年には鹿鳴館が建設され、同年、子規が上京する。(ここまでの「前史」については、伊東裕起[2019]、前島志保[2006]、柄谷行人[1992]、小森陽一[2016]、などを参照)
正岡子規は1892年、日本新聞社社長・陸羯南の隣家に移り住み、新聞『日本』の記者となる。『日本』誌において「俳諧大要」(1895年)、「明治二十九年の俳句界」(1897年)をなどを連載。(正岡子規[1975]、柄谷行人[1992]、小森陽一[2016]、などを参照)
ドイツ語圏ではカール・フローレンツが『東方からの詩人の挨拶――日本の詩歌(Dichtergrüsse aus dem Osten. Japanische Dichtungen)』(1894年)において日本の短歌・俳句を翻訳紹介した。本書の英訳が1896年。本書は荒木田守武の「落花」句を収めている。とはいえ、フローレンツは1895年、《ロマン主義的な詩歌観から、短歌や俳句など日本の短詩を「日本文学の一大災阨」と断定し(略)上田萬年と『帝國文學』誌上で詩歌論争をたたかわせていた》(前島[2006])から、俳句を文学的に評価していたわけではない。(岩脇リーベル豊美[2020]、などを参照)
英語圏では、パトリック・ラフカディオ・ハーンが『異国風物と回想(Exotics and Retrospectives)』(1898年)所収のエッセイで芭蕉の「古池」句を初めて英語に翻訳した。W.G.アストンは『日本文学史(A History of Japanese Literature)』(1899年)で「古池」を含む芭蕉の句を9句翻訳している。守武の「落花」句も収めている。バジル・ホール・チェンバレンは1902年、119頁からなる論文「芭蕉と日本の詩的エピグラム(Bashō and the Japanese Poetical Epigram)」を発表(Asiatic Society of Japan, vol. 2, no. 30, 1902)、200以上の俳句を翻訳し、論じている。守武「落花」句も所収。この論文は西洋の俳句受容に大きな影響を与えた。(伊東[前掲]、前島[前掲]、などを参照)
英語圏の俳句受容についてもっとも大きなトピックは、イマジズムの運動であろう。おおむね三期に分けられる。第一期:トーマス・アーネスト・ヒュームによる「詩人クラブ」(1908年)時代。この時代をふりかえってフランク・スチュアート・フリントは《私たちは、日本の和歌や俳諧をたびたび取り上げた。一同おもしろがって、何十となく俳諧を作ってみた》と言っている(橋閒石[1964]からの孫引き)。第二期:エズラ・パウンドが主導した時代。パウンドは1914年、『隔週評論(Fortnightly Review)』誌に寄せた「渦巻派(Vorticism)」という論説で、荒木田守武の「落花」句のパウンド訳とともに、そこから彼が引き出した「重置法(super-position)」を応用したものとして、かの"In a Station of the Metro"(1913)の成立過程を自解してみせる。第三期:エイミー・ローウェルが主導した時代。彼女は実験的に、俳句のシラブル(五七五)の数を守る試みもしている。(橋閒石[1964]、木村毅[1982]、などを参照)
フランス語圏では、ポール・ルイ・クーシューが1905年、仲間たちと、フランス語による初めての俳諧集『水の流れのままに(Au fil de l'eau)』を編み、自費出版した。72句収録。翌1906年、クーシューは「ハイカイ――日本の詩的エピグラム」という論文を『文学(Les Lettres)』誌に5回に渡って連載。守武「落花」句も含めているが、この論文の画期的な点は、西洋でほとんど知られていなかった蕪村の句を非常に多く翻訳している点だ。158句の近世俳句が翻訳されているが、うち63句が蕪村の句。このすべてが、『蕪村句集講義』(1900~3年)に収められていることが確認されている(柴田[2010])。
さらにクーシューは1916年に『アジアの賢人と詩人(Sages et Poètes d'Asie)』を上梓。前述の「ハイカイ」論文は「日本の抒情的エピグラム」と改題され、収録されている。本書刊行後、クーシューはハイカイの作り手(俳人)の交流を深める会合の開催に努め、1919年、「ハイジンの集い」が実現する。これにはポール・エリュアールも参加しており、翌1920年にはクーシューもエリュアールからの誘いを通じてダダの集会に出席している。
1920年には『新フランス評論(N.R.F.)』誌84号の巻頭において、「ハイカイ」アンソロジー特集が組まれる。フランスの文芸批評家バンジャマン・クレミューによれば1920年は「ハイカイの年」。このアンソロジーには、クーシュー、ポール・エリュアールなどの作品が収められている。
なおドイツ語詩人リルケは、『N.R.F.』誌の「ハイカイ」アンソロジーで初めて俳句に接する。クーシューの『アジアの賢人と詩人』を1920年に入手、みずからフランス語による俳諧を書いている。(以上、フランス語圏については、柴田依子[2010]、柴田依子[2018]、などを参照)
スペイン語圏では、エンリケ・ディエス=カネドの翻訳詩のアンソロジー『隣の芝生(Del Cercado ajeno)』(1907年)に俳句一句と和歌四首が収められている(俳句は守武の「落花」句)。田澤佳子によれば、バジル・ホール・チェンバレンの翻訳を参考にしたと推定される。エンリケ・ゴメス・カリージョはパリで『日本の魂』を1906年にフランス語で、1907年にスペイン語で出版。守武「落花」句を含む。田澤佳子によれば、アストンの著書を参照したと推定される。(田澤佳子[2015]、などを参照)
以上、まとめるならば、
日本で発生した俳句は、二十世紀初めから、西洋各国の前衛詩人、米国のエズラ・パウンド、フランスのポール・エリュアール、イタリアのジュゼッペ・ウンガレッティ、スペインのアントニオ・マチャード、ギリシャのイオルゴス・セフェリウスなどにインスピレーションを与え、彼らに画期的短詩を作らせました。そして、世界各国のモダニズム詩の基盤ともなりました。もう一方で、各言語での俳句創作も、根強く幅広く浸透し、百年以上の歴史を誇っています。(夏石番矢[2021])
ということになる。そして現在、俳句は《世界中、百数十か国で作られている。しかも、日本で俳句を作っている人口を超えて、外国人のほうが多い時代になってしまった》(堀田季何他[2020: 68頁]での堀田の発言)のである。
ところで、このまとめを作る過程で、「おやっ」と思うことがあった。というか、この「おやっ」がきっかけで、文献の間の関係を整理してみようと思い立ったのだが。岩脇リーベル豊美[2020]は、カール・フローレンツの『東方からの詩人の挨拶――日本の詩歌』(1894年)について、次のように述べている。
〔フローレンツは〕一八九四年には訳詩集『東方からの詩人の挨拶――日本の詩歌』で日本の短歌・俳句などを翻訳紹介した。そのなかで荒木田守武(1473-1549)の俳句「落花枝にかへると見れば胡蝶哉」を、元句にはない表題「目の錯覚」をつけて、脚韻を踏むドイツ語に訳している、
(略)
このフローレンツの独訳はその二年後アーサー・ロイド(1852-1911)によって英語に重訳され、
(略)
として感銘をもって欧米に広まり、主にイマジズム詩の形成に重要な契機になった。エズラ・パウンド(1885-1972)はこの重訳を受け、(以下略)
つまり岩脇によれば、フローレンツによるドイツ語訳の「落花」句を、さらに英訳したものを、パウンドは読んで、応用した、ということになる。私が「おやっ」と思ったのは、てっきりパウンドはフランス語訳の「落花」句を読んだとばかり思っていたからだ。たしかに、言われてみれば、パウンドはアメリカ出身であるから、英訳で読んだと考えてもおかしくはない。ただ、フローレンツの訳が出た1894年から、パウンドの「メトロ」句が書かれる1913年までおよそ20年もの時間があり、そのあいだには、ここで整理したように多数の「落花」句の翻訳が各国語で出ていることを考慮に入れると、(フローレンツ訳を読んでいないとは言えないまでも)他の訳、とくにチェンバレンやクーシューの訳を読んでいないとも、考えにくいのではないか。また、パウンドの「渦巻派」論文(1914年)には、彼の「メトロ」句の成立のきっかけとなった地下鉄駅での体験は「三年前パリにいた頃」のことだと書かれているから、クーシュー訳を読んだ可能性も、あるいはエンリケ・ゴメス・カリージョ訳を読んだ可能性もある。エンリケ・ディエス=カネド訳をスペイン語で読んだ可能性もあるだろう。英訳であれば、アストン訳の可能性もある。そしてまた、イマジズムの詩人フランク・スチュアート・フリントも1908年に同句を英訳している。何より違和感があるのは、フローレンツ訳(およびその英訳)は5行で訳しているのに対し、パウンドは2行で訳しているという点だ。パウンドの訳はチェンバレン訳(2行)に近いもので(フリント訳では3行)、フローレンツの、いっけん「詩」にみえないものにタイトルを付し、なんとか外見上詩のようにみせようと苦心した形跡のある訳とは隔たりがある。
岩脇は《まさにここに、俳句とイマジズムが翻訳を介して内在的に弁証法的発展をなす過程が確認されるのではないか》(岩脇[前掲: 97頁])と述べているが、この媒介物、「翻訳」は、複数であったと考えると、ここでの《弁証法》がより興味深いものになるとはいえないだろうか。『吟遊』誌に岩脇氏は日本語・ドイツ語対訳の連作を毎回発表しており、その対応関係について、私はつねに関心をもってきた。ドイツ語訳が、たんなる「翻訳」に見えないのである。日本語の作品にない単語がドイツ語の方に出現することもある。この不思議な感触を、私は自作の連作においても、感じるようになってきた。私は『吟遊』誌に日本語・英語対訳の連作を発表しており、英語版のほうはロザリー・ガイさんとのコラボレーションで制作しているのだが、私にはこれが、オリジナルとしての日本語版に対する、翻訳としての英語版、というようには感じられないのである。同一の作品の、日本語バージョンと英語バージョンがある、というのが実感である。このことと岩脇のいう《弁証法》とに、関係があるのか否か、私には判断ができないが、考えてみるに値するもんだいでもあるように思う。
(文献表)
・橋閒石(1964)「英米の現代詩に与えた俳句の影響」『俳句評論』no.30〔(1982)『現代俳句論叢』俳句評論社所収〕
・堀田季何他(2020)「新春座談会 俳句の可能性」『俳句』1月号
・伊東裕起(2019)「英語圏における俳句の受容史の概観:W. G.アストンからR. H. ブライスまで」『城西大学語学教育センター研究年報』no.11
・岩脇リーベル豊美(2020)「ドイツ哲学と俳句」『世界俳句』no.16
・柄谷行人(1992)「詩と死――子規から漱石へ」〔(2017)『新版漱石論集成』岩波現代文庫所収〕
・木村毅(1982)『日米文学交流史の研究』恒文社
・小森陽一(2016)『子規と漱石』集英社新書
・前島志保(2006)「『日本文学の一大災阨』から『自由詩』へ:俳句の初期紹介文に見る詩的評価と訳形の変遷」『比較文学・文化論集』no.23
・正岡子規(1975)『子規全集 第四巻』講談社
・夏石番矢(2021)「世界俳句について」『世界俳句』No.17
・柴田依子(2010)『俳句のジャポニスム』角川学芸出版
・柴田依子(2018)『和歌と俳句のジャポニスム』角川書店
・田澤佳子(2015)『俳句とスペインの詩人たち』思文閣出版
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前回の記事同様、批評の観点から取捨選択し(つまり私が「惑星的」と判断した作品を取り上げ)、個別の作品に評論を行うことにする(批評と評論の区別については、前回記事参照)。ここで取り上げる作家たちは、私が述べたことに同意しないだろうことも、前回同様である。作家名を手がかりとしたスタイルの評を書くことは不本意であることも、前回同様である。
私にとって黄頷蛇という作家は、ひどく謎めいた作家である。基本的には、オンライン句会で作品をたたかわせるのみである。古典の深い教養を窺わせつつ、鋭い前衛精神をみせるその作品には、ファンも多い。「あっちの句会にも出ていたぞ」と噂される。「彼はどこの誰なんだ?!」と噂される。が、誰も「どこの誰か」を知らない。Twitterアカウントはある。が、俳句にかんするツイート、とくに自作についてツイートすることはない。私は密かに、中堅俳人の別名プロジェクトなのではないかと勘ぐっていたのだが、どうも違ったらしい。要するに「オンライン句会の外」で彼の名を見かけることは、ほとんどない(「彼」と呼んでいるが、性別も当然分からない)。もう一点、謎を深めているのは、名義の使い分けである。彼がオンライン句会で使っている名は、黄頷蛇ではない。仮にXさんとしよう。Xさんは句会では「X」の名を、句会の外では「黄頷蛇」の名を使う。句会にX名義で出詠された作品が、(句会に出た作品は未発表扱いであるから)とある賞に黄頷蛇名義で応募されたこともある。面白い。前述の「句会の外で彼の名を見かけることはほとんどない」というのは、正確には「句会の外でXの名を見かけることはほとんどない」ということになる。ただし何事にも例外はつきもので、私はとある筋からX名義での連作が掲載された同人誌を入手した。「とある筋」も、Xさんのファンである。当初、この連作から引いて、ここでの評を書こうと思っていたのだが、癖の強いこの連作には、Xさんの一側面しか現れていない。どうにか、句会でいつも書いている作品を評させてはもらえないか、と私はXさんに直談判してみた。黄頷蛇名義であるならば、OKとのことだった。しかしその結果、X名義が用いられている連作は、ここで評することができなくなった(名の紐付けができてしまうので)。Xさんは、私の前回の記事の一節を引きつつ、《作品に署名をなすという奇習》さえなければ、こういうこともないんでしょう、と真面目におっしゃられていた。まったくである。というわけで、手前味噌になるが、私が主催している句会から、黄頷蛇の作品を引いてみよう。
なまなりの月を後日へゆづりけり 黄頷蛇(第19回プネウマ句会)
穏当に読むなら「十分に熟していない月を、またの機会にすることにした」となるだろうか。当初、私は「月がまだ十分に熟していない(上弦の月である)から、満月を楽しむのは後日にしよう」と読んだのだが、《なまなりの月》をそのまま(満月にならないまま)《後日へ》譲った、と読んでも差し支えないだろう。俳諧的というか古川柳的というか、なんともいえないテイストが漂っているのと同時に、《なまなり》というもたつく感じの語と《ゆづり》という柔らかい字面が、作品全体に洒落た感じをもたらしていると思う。《なまなり》は般若の前段階も意味するから、満月は般若なのだろう、と読むこともできる、というかそう読むことも、明らかに、誘っている。月を狂気の象徴として用いるのはありふれているが、このように滑稽味をもたせて詠むことができる点が卓越している。また、《後日》という熟語に含まれる《日》は、太陽ではなく日にちを意味しているのだが、鍵語《月》と鍵文字《日》が交響しているのは明らかであり、動詞《ゆづり》が、慣用表現「後日に譲る」から分離して際立ち、「月を日へ譲る」というイメージをも喚起しているといえるだろう。
棺を曳くに免状の要ることを知っている誤記された村のすべての子供達。覆される約束の中に夏草の遠い尖りは嗅いだかい 黄頷蛇(第14回プネウマ句会)
抒情的にすぎる、と思う読者もいるかもしれない。だが、ここには抒情にまつわる、例のうんざりさせる感じはない。抒情といっても、ここにあるのは語り手の情ではなく、作品によって展開される(開示される)世界の情だ(作品が「抒(叙)」している)。抒情が我々をうんざりさせるのは、誰か(主に、語り手)が情を叙しているケースであり、さらには「作者が語り手である」となると最悪だ。連体修飾語《知っている》がかかるのは《子供達》、《誤記された》がかかるのは《村》、と私は読んだ。《村》は《誤記され》ているがゆえに、誰にも見つけることはできない。《棺》に入っているのは、おそらく大人たちだろう。《免状》の発行主体は、この村にもはや生存していないのかもしれない。誰にも発見できない《村》の、《子供達》による王国、といえばヘンリー・ダーガーを思わせる。大人にとって《約束》はアプリオリに《覆される》ものであるけれども、そのことを初めて知ることができるのは、子どもの特権といってよい。彼らは覆ったあとの《約束》に漂う、届かなかった手紙のデッドストック空間に漂う《夏草の遠い尖り》の匂いを嗅ぎ取ることだろう。この「遠さ」が重要だ。近いと、情がべっとりとしてしまう。《誤記された村》が我々から遠く隔たっているように、彼らにとってもまた「夏草の尖り」はある遥かさをともなって感受されなければならない。悲痛であってはならないからだ――悲痛さは、かの醜悪な「人間的なもの」を召喚してしまう。《夏草》からの連想を導入するならば、解釈になってしまうだろうが、《子供達》とは死んだ「兵ども」のことかもしれない。回帰霊(revenant)のみが未来から/へとやってくることが可能なのであり、それは人間であってはならないだろう。作者は、墨作二郎の川柳《コブラの浮彫は不自由な王朝のひたむきな所産。そこで貧しい鉄の憤怒を見てごらん》を参考にした、とコメントしていたが、むしろ未来の記紀歌謡、未来についての叙事詩のような趣をもっていると思う。ある種の人々にとっては、この俳句作品がスキャンダラスな見た目をしているのかもしれない、と想像することもまた、爽快なことである。つまり、ゾンビ俳句の人たち、「日本の俳句」の人たち、私が最大限の侮蔑の意を込めて「J俳句(ジャップ・ハイク)」と差別語で呼びたいと思っている人たちにとって。
傾きに衣類のやうで待つてゐる 黄頷蛇(第23回プネウマ句会)
どこか破格な感じがする、という点に少し現代俳句的な印象がないでもない(「現代俳句的」ということで、最近の若手が書きそう、という程度のことを意味している)。これが「傾きで衣類のやうに待つてゐる」であったら、通ってしまって、面白くない。この《やうで》は比況とも推定ともどちらとも取れそうだが、やや比況の可能性の方が高いように感じられる。ただ、いずれにしても、《待つてゐる》を直接修飾する連用修飾語とは考えられず(であるならやはり「衣類のやうに」となるはずだ)、《で》で切れているのだろう(連用形切れ)。そう考えると、この切れはかなりえげつない切れだ(このような切れをみせるという意味で、やはり「現代俳句的」な感触は見せかけに過ぎないことも分かる)。《で》と《待》のあいだに空行が3~4行ほど隠れているようにも感じられる。本作で目立つのは、いくつかの空白かもしれない。つまり、《待つ》のは誰か、何が(誰が)《衣類のやう》なのか、《傾き》とは何か。しかしこれらを問う態度は、作品の外に作品の真理を求めてしまっており、作品を二次的なもの、模倣・複製に貶めてしまう。むしろこの作品にあるのは、語り手と《待つてゐる》ものの関係(待つのは語り手か、語り手が見ている何者かなのか)、待つ者と《衣類のやう》なものの関係(《衣類のやう》なのは待っている者か、待つ者が待つ対象か)、《傾きに》の《に》とは何か(《傾き》「において」なのか、「に対して」なのか、「に向かって」なのか)といった、諸々の不定性であろう。驚くべきは、これらの不定性がそれぞれ互いに錯綜しており、極めて複雑な「意味する」を遂行している点だ。ある種の人々にとっては、この俳句作品が「無意味」に見えるのかもしれない。が、「無意味する」ことの不可能性を、この傑出した作品が証明してしまっている。
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私は現在もいわゆる「投句俳句」を続けており、理由を問われることもなくはないのだが、『俳句』誌に投句を続けているのは、泉風信子トリビュートという動機が最大のものである。泉は結社主宰でありながら、最晩年まで『俳句』誌への投句を続けた。なんと格好いいのか。私は、むしろ他の俳人たちはなぜ投句しないのか、いまでも疑問に感じている。たしかにお俳句ごっこの選者センセイ方の選はデタラメであるが――趣味判断が跋扈している。すなわち知覚の経験的な履歴による、学習・習慣づけにすぎないものへの、自堕落な開き直りが――、デタラメに対する抗議として介入・干渉するのが筋ではないか。みずぼらしい自尊心が邪魔をしているのか。どうせあなたがたは、介入し、干渉に成功したところで、そのチャンスをみすみすまったく同じふるまいによって消費し尽くしてしまうのだろうけれど。泉風信子は昭和10年青森市生まれ。俳句結社「此岸」代表を務め、句集『熾火』、俳文集『志功まんだら』を出しているが、この二冊は豆本らしく、本格的な句集としては平成28年の『遠花火』のみかもしれない。2019年9月29日逝去。享年85。
朧とも妣とも補陀落とも思ふ 泉風信子(『俳句』「平成俳壇」2018年5月号、名村早智子選佳作)
俳句らしい表現、すなわち、エズラ・パウンドが俳句の影響のもとに多用した重置法(super-position)が用いられた作品。本作の面白さはシンプルだ。《朧》と《妣》が重ね合わせられるのは分かる。《朧》と《補陀落》が重ね合わせられるのも分かる。しかし《妣》と《補陀落》の重ね合わせは分からない。いや、分からないのと同時に、とてもよく分かる、というべきか。この、分からなそうなのによく分かってしまう、という不思議な詩的メカニズムが、重置法の力であろうと思う。《補陀落》とは観音菩薩の降り立つ山のことでもあるから、「山のようにみえる妣」「妣のようにみえる山」が、《朧》のなかに・向こう側に、幻視されている。とも読めるのだが、むしろ書かれてない「菩薩」の姿が見えているようにも感じられる。細かい点では、「AをBやCのようだと思う」と実に虚を重ねるのではなく、「AともBともCとも……」と三つのエレメントを並置した表現が優れている。これにより、作品全体に《朧》の感触を染み渡らせることに成功しており、また《妣》のおもかげの遥かさを、実感に満ちたものにしている。
手の中に一光年の冬林檎 泉風信子(『俳句』「平成俳壇」2019年5月号、岩岡中正選佳作)
ここでは距離が《冬林檎》という一個の点に――あるいは身体のごく狭い領域に――重ね合わせられている。むろん、たんに距離を固体化すればよいわけではない(「六兆マイルの冬林檎」では本作にあるポエジーは醸し出されない)。《一光年》という語は、表記的な喩として、第一に《冬林檎》が手元にやってくるまでの時間(年)を想起させる。一年前に恒星の発した光が手元に届くまでの時間と、林檎が実るまでの時間の圧縮。第二に《光》と《冬》の冷たい交響。おそらくただの「林檎」ではこのようなポエジーに結実しないだろう。星空の真下で、真っ赤な林檎を手にする老人が、白く冷たい光を仄かにまとっている。第三に《一》は、《光》の道筋の喩であるように感じられる。実際には時空間の歪みによって光の道筋は直線にならないかもしれないが、詩の現実においては、仮想的に、光は直線を描くことが可能だ。老人の手の赤い林檎に、一光年先の恒星から、一本の光が突き刺さる。もう一点、細かいことではあるが、本作の奇妙な身体感覚についても指摘しておこう。上句が「てのひらに」でないのはなぜだろうか。林檎のサイズにとって《手の中に》とは、どこか異様な感じではある。手に収めることができるほどの小さな林檎が詠まれているのだろうか。おそらくそうではないはずだ。手が巨大なのでもない。おそらく語り手は林檎にぴったりと沿うように、てのひらをゆるく丸めている。このとき語り手と《冬林檎》は未分化になる。語り手が林檎を手にしつつ、語り手が林檎そのものになる。この入れ子構造もまた、俳句的であるといえる。なお、この号が、最後の「平成俳壇」だった(『俳句』誌の6月号から「令和俳壇」)。
雷の帰つたあとの無数の靴 泉風信子『遠花火』
句集からも引いておこう。2016年の『遠花火』。「あとがき」によれば平成7(1995)年からの20年間の作品から抽出したものが収められている。句集とはおおむねそのようなものだが、通読してみると、「おっ」と思うものもあれば「あれっ」と思うものもある。これは「おっ」の方。俳句においては無数の《無数》が詠まれてきたが、この《無数の靴》は無残だ。訪問客が《帰つたあと》であれば、《靴》は一掃されていることだろう。《靴》の欠落によって、ほっと一息つくことができる(残っていたなら、安心できないということだ)。ところがここでの《雷》は、去ったあとに、爪痕のように《無数の靴》を残してゆく。《雷》みずからの不在の証明のようでもあり、《雷》が去るということは空虚(vacuum)を生み出すということであって、空虚に《靴》が引き寄せられてきたかのようでもある。あるいは語り手も我々も気づいていないうちに、《雷》は、鳴っているあいだ、つねにあらゆる《靴》を収集しているのかもしれない。《靴》を奪われた《無数の》人々は、いまどうしているのか。誰がこの無残な《靴》の散らばりを始末しなければならないのか。《靴》を失くして、誰もが身動きできず、呆然とする以外にないだろう。
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私にとって奈良拓也という作家は謎の作家である。直近の『世界俳句』誌をみると1997年生まれとあるから、まだ20代の若手であることは分かるが、それ以外の情報を知らない。以前、『吟遊』誌の「吟遊俳句ギャラリー」(投稿欄)で何度か見かけていたから、「吟遊」の同人だと思っていたのだが、同人ではなく「会友」なのかもしれない(「吟遊」では購読者を「会友」と呼び、会友は投稿欄に投句できる)。『コールサック』102号(2020年)に20句連作「CAIS」が発表され、驚いたことが記憶に新しい。疾患名をタイトルにもつ作品という性質上、補助的なコメントを多く付しながら、この連作を読んでみたい。
その魔女 花園へ放火 煤 煤という 手紙 奈良拓也「CAIS」『コールサック』No.102
連作の二句目。一句目は《アンドロゲン不応症の魔女が愛する火種》であり、その魔女が放火をすると、《煤》が生まれ、その煤は《手紙》であるという。手紙が燃えて煤になったのではない。ありえた可能性の束が――あるいは可能的であれ不可能的であれ、顕在化していない潜在的領域全体が――潜在的なまま、顕在化の可能性を奪われている、その姿が、《手紙》なのである。宛先がないこの《手紙》には、受信者が欠けているのではなく、送信者が欠けている。未来に賭けられた《手紙》――いかなる手紙であれ未来に賭けられている。そうでない手紙など想像できるだろうか――には、過去=オリジナルである送信者が、あらかじめ、つねにすでに欠落している。差出人は、むしろ、未来において偶発的な「受け取り」がなされたあと、事後的に、煙のように、影のように、かろうじて気配として出現するだろう。このことは、俳句、のみならず文藝(のみならず藝術)という営みそのものの謂である。本連作に《煤》の文字は九度出現する。《煤》というモチーフが、本連作を織り成すいくつかの太い糸のうちの一本であることは間違いがない。我田引水になってしまうが、私が書いた二つの詩篇のテーマ(潜在性としての灰、不可能な喪)と通底していることにも驚かされた(《すでに、灰、でしか/ないぼく、の名は、/灰、だったきみと、/であうことはない》(「名の灰」第6回詩歌トライアスロン)、《受精しなかったきみには、存在がないからだがないいのちがない》「花にいっぽんずつの指」『エウメニデス』No.61)。
なお、本連作は、性分化に関する疾患・障害をトピック=トポスとしているといってよいのだが(連作タイトルの「CAIS」とは完全型アンドロゲン不応症(complete androgen insensitivity syndrome)のこと)、こうした極めて複雑なテーマを俳句の連作で扱うことができるという事態そのものが、驚きに値するといえるのと同時に、《アンドロゲン不応症》と《魔女》という二つの語を格助詞《の》で結ぶとき、そのあいだに、かの通俗的な(宗教的・文化的な)「半陰陽・両性具有」にかんする偏見が、容易に観念連合されてしまいかねない危うさも備えている、という点も指摘しておこう。つまり前段落で引用した一句目を、「アンドロゲン不応症【だから】魔女になった」とか、あるいはさらに飛躍して「魔女【とは】アンドロゲン不応症患者のことである」というように、ひどく短絡した読みを促すリスクも、なくはないだろう(「完全型アンドロゲン不応症」のばあい、外見も脳も「正常の」女性と同様に発達するため(内性器のうち子宮や卵巣がない)、「両性具有」だとか「男でも女でもない」というステレオタイプ自体が誤謬なのだが)。厳密に(連作全体の織物のなかで)読むならば、ここでは「とあるひとりの魔女が、もしもアンドロゲン不応症であったなら」という偶発性(たまたま性)が提示されているのであり、その意味で普遍的なテーマの提示になっている。誰にとっても「私がいま、このようである」ことは偶発的なことだからだ(必然性そのものさえも、当該必然性の前提は偶発的である)。とはいえ本連作は「読めば分かる(誤解が解ける)」とは言い難い複雑さを備えており、その意味で、「リスクを負っている」作品だとは言える。私の考えでは、本作は、負ったリスクに見合った詩的強度をもっている。
夜の出口を直視する赤 奈良拓也「CAIS」『コールサック』No.102
連作の十五句目。本連作に《赤》の文字は七度出現する。じつは前出の《煤》もそうなのだが、この《赤》はそれ以上に指示対象物が定まることがない。この語は連作のなかで、さまざまな「印象」を遂行しながらも、「この《赤》とは……である」ということはできない。その意味で、シニフィエをもたないいくつかのシニフィアンが、本連作のなかを漂っているといえる。むろん、さまざまな連想を誘う、印象明瞭な語ではある。たとえば連作三句目の《赤を閉ざした坑道の扉 影がこぼれる》では光のメタファーであり、一句目の《火種》、二句目の《放火》に出現する火のイメージに隣接的である。さらに、掲句の直前、十四句目の《白日 海底洞窟の赤が喘ぐ》も合わせて考えるならば、《坑道》と《洞窟》とはそれぞれ隣接的、といえるかもしれない。細長い、チューブ状の、狭い領域に閉じ込められた炎のイメージ。ただし、それだけではないだろう。十四句目では《喘ぐ》、掲句では《直視する》と能動的な述語が付されており、この場合の《赤》は人体・生命を、血や肉を、あるいは生まれ出ようとする潜在的生命のマグマめいた漲りのように感じられる。さらに補助線を引くならば、十七句目《存在しない子宮の出口を探すデスマスク》における《子宮》は前述の《坑道》《洞窟》と容易に通じ、内臓としての子宮の内壁を赤いものとして想像させられる(CAISのばあい、ミュラー管由来の構造物(子宮)が《存在しない》)。掲句の《夜の出口》は、《存在しない子宮の出口》を含めた、あらゆる潜在的な領域に訪れるべき未来、不可能であっても賭けられるべき未来の謂と読んでも読み過ぎにはならないだろう。
しかしここでまた、《赤》の連作内での不定性を示すかもしれない、別の補助線も引いておこう。連作の九句目《ヒトから煤へ 煤から泥へ 泥のある春》は、いっけん、季語「春泥」の晴れやかなイメージに、土(ラテン語のhumus)からつくられた《ヒト》の、土への回帰という、通俗的なイメージを重ね合わせただけの作品にもみえる。つまりここで《煤》は土の、泥の材料でしかない。ところがこの句は十八句目《赤の泥 寝息 亡霊 ミルクの匂い》に連絡する。《赤》と《煤》は同義なのだろうか。そのようにも読めるが、むしろ《赤の泥》の側からさかのぼって、九句目の《煤》のニュアンスを書き換えていると読むべきだろう。生まれ出ようと未来を待ち構えながら、しかしいまだ潜在性に留まる漲りが《赤》であるならば、九句目で《泥へ》と変態することで、《煤》は「土へ回帰」したのではなく、《赤》へと回帰したのである。まさに《亡霊》(spectre)として。あるいは幽霊(fantôme)として、回帰霊(revenant)として。《煤》が《手紙》であること、不可能かもしれない未来への賭けであることは、前述のとおりである。
男という風 魔女という煤 煤まみれの哺乳瓶 奈良拓也「CAIS」『コールサック』No.102
連作の十一句目。二句目で《煤という 手紙》と二物のイメージを重ねておきながら、ここで《魔女という煤》と再度イメージの重ね合わせが行われることに、まず驚く。まさに《煤》は(ここでは書かれていないがおそらく《赤》も)亡霊的に回帰し、あらゆる場所、あらゆる時に、憑在する(hanter, hantise)ことになる(この読みが、ここでもまた、十八句目の「赤の泥」句からさかのぼってなされていることに注意されたい)。いわば、遅延をはらみつつ、トポス貫通的に働いているのである。《煤まみれの哺乳瓶》とは、「不可能な哺乳瓶」である。この点、補助線を引こう。七句目に、《女になれなかった魔女が抱く煤まみれの子》がある。これは、CAISであるこの魔女が、生殖能力をもっていない、子を産めない、ということを言っているようにみえるし、そう解釈してよいだろう(なお、CAISのばあい精巣は鼠径部や腹腔内に潜在精巣として停留するため、男性としての生殖機能ももたない)。危うい(リスクを負った)表現ではあるが、当事者にとって切実な思いであることは分かる。ここでは、抱かれる《煤まみれの子》とは「不可能な子」のことであるという点を抑えておけばよい。不可能な子に与えられた《哺乳瓶》は、これもまた「不可能な哺乳瓶」であろう。不可能であるにもかかわらず、十八句目に至って《ミルクの匂い》が漂うことになる。そしてこの匂いもまた、亡霊的なものであり、潜在的なままに、トポスを超えて再来=回帰するものである。
本連作に《男》の文字は六度出現する。《女》の文字は九度出現する(ただし、うち七度は、「魔女」という熟語に内包されている)。「赤と煤」の対照関係がはっきりとは分からないものであり、ときには癒合しているようにみえることもあるのに対し(糸として太いことは確かだが)、「女と男」というテーマ系は明瞭にみえる。とはいえ、この《男》の指示対象物は必ずしも明瞭ではない。ひどくたんじゅんに、《魔女》の恋人と考えることもできる。恋人の子を産むことができないと分かったCAISの《魔女》は、恋人の前で《女》であることを諦めてしまう――と、なんというか、演歌的な解釈をすることもできるし、それを拒む作品ではない。だが、本連作の感触は、(ノンフィクションであれ、作者のイメージしたフィクションであれ)なんらかの作品外の対象の模倣・再現・複製である、という感触とは隔たっている。あえて似ている感触のものをあげれば「夢」ということになりそうだが、夢にみたものの模倣・再現・複製(俳句で馴れ親しまれたタームを用いるなら「写生」)とも異なる。むしろ(夢に加工される前の)無意識が、むき出しのまま言葉を受肉して眼前に現れている感触というべきだろう。誰の無意識か。慎重に言葉を選ぶなら、作品上で、テクストの無意識が躍り出ているのである(ややリスキーな言い方をするなら、CAISという症候の無意識といってもよい)。すなわち、CAIS(それは症候の名であり、かつこのテクストの名である)にとって、みずからの女の身体と、「女である」という性自認はつねに脅かされている。そこで彼女は(テクストのこともこの代名詞で呼ぶことにしよう)みずから《女》を不可能な領域へと潜在させたうえで、《魔女》という煙のような、《煤》としての主体を召喚する。《魔女》であれば、不可能性のうちで、想像的な《子》を抱くこともできる(不可能なことであるから、この「できる」には抹消線が引かれなければならない)。彼女はさらに、反転された主体を抱え込む。脅かしてくる何かとして、さらに性愛の対象として。この反転された主体は仮に《男》と名指される。ここで《男》とは彼女の自己投影的棄却に過ぎないのであるが、あるいはそれゆえに、みずからの内側からやってきたもののように感じられる。つまり、XY染色体から。八句目には《女と子を亡くした男の澱 魔女が飲む 飲む》とある。彼女にとっての愛の対象である《男》は、彼女の手によって《女と子》を奪われてしまっている。《男の澱》とは精液のようでもあり、男の期待(彼女の想像する、男の期待)の滞留のようでもあるが、これを《魔女が飲む》ことは、喪の儀式のようにも感じられる。だがこの喪の作業は失敗に終わるだろう。ここでの喪失の対象はことごとく、彼女の自我の一部分であり、リビドーの撤収がうまくいかないからである。