「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 本屋で拾った希望 沼谷 香澄

2021年10月19日 | 日記

 緊急事態宣言が解除になって、貧乏歌人の私が糊口をしのぐために契約している勤務先へまた通勤をする日々が始まろうとしています。揺り戻しを避けるために出社頻度は完全には戻らないようですが、十月に入って、久しぶりの顔合わせのために、都会の事務所へ出社しました。
 会社の入っている雑居ビルの2階に、少し大きめの本屋さんがあります。詩歌的スタンスで言うと、角川俳句と短歌研究の最新号なら発売日に見に行って運が良ければ買えるくらいのところです。雑誌ならまあ何とか手に入るところは増えましたね。しかし単行本となるともう。いや、涙を拭いて先へ進みましょう。
 この日私は、ビルの本屋さんをチェックした後に新宿の紀伊国屋書店へ寄って、気になる句集をみる予定にしていました。疲れていて本屋まわるのめんどくさいなーと思いながらも、ここは通路が広くてNHK短歌を立ち読みするには都合がいい店だったので、あまり期待しないで入ったんです。
 雑誌の棚まで入って用を足してから入り口近くの出島、「新刊・話題の本」のコーナーへ引き寄せられるように近づいて行ったのは、猫本犬本が色々と置いてあったからなんですが、裏側(入り口から見えないほう)を一通り見て表に回ってわたしはかぱっと口をあけました。「ぁぁあああ~あ」と声も出ていたかもしれません。よだれを垂らす前に口を閉じましたが、私が見おろした真下に平積みされていたのは、左から順にこの3冊でした。一冊ずつ掴んでレジへ突進、本日の書店巡りは終わりました。感染リスクを下げられてよかったです。

 高柳克弘『究極の俳句』(中公選書・重版)
 佐藤文香『菊は雪』(左右社)
 山崎聡子『青い舌』(書肆侃侃房・歌集)

 実はこの書店、壁際の文芸書の棚にも異変があったんです。川野芽生『Lilith』(書肆侃侃房・歌集)が、やはり平積みされていました。眩しい。何が起こったんだ。Lilithに目が眩んで、他に何が積まれていたか覚えていません。ちょうど重版が出てくるタイミングだったんですね。普段、伝票とか郵便遅延の話しかしない会社の人たちと、これから変わりゆく俳句や短歌の話をできる日が来るかどうかは、自分次第なんだなと思いました。

 さてお待たせしました俳句です。この日買った『究極の俳句』(高柳克弘、中公新書、2021.5.10発行)を読んで俳句について学びました。古典はこの本からの孫引きです。

  古池や蛙(かわず)飛び込む水の音 芭蕉『蛙合(かわずあわせ)』

 この、世界一有名な俳句といっていい句が、実は発表当時においては既存の価値観に一石を投じた作品であったということを私は知りませんでした。カエルといえばヤマブキが定番だったそうでそれは、こんな先行歌に現れているそうです。

  かはづなくゐでの山吹ちりにけり花のさかりにあはまし物を よみ人しらず『古今和歌集』

 蛙を歌にするのなら、井出の玉川という清流に鳴く、声の澄んだカジカガエルであるべし、花を取り合わすなら山吹。この連想関係を、芭蕉は切ったのだそうです。背景は山吹でなくても、水も清流でなくても、蛙だって澄んだ声で鳴かなくても、句にとどめうる風景(ハイクモーメント)は、みいだしうるのではないか、ということですね。
時代が下って私たちには、芭蕉の作による地味な背景に出てくるシャイな蛙のほうが、正統派の俳句のありようとして伝わっているように感じます。そこから感じ取れる地味さや卑近さをもって俳句にすべき詩情と理解してはいけないのだということは、残念ながら、作品自体からは、わかりません。
 芭蕉の思想は弟子が記録している文章があるので、俳句を学び作っていく俳句アーティスト(俳人)にとっての、重要な参考書として、発句集や紀行文や連句の記録と同じように研究されているようです。推敲の過程や作品をめぐる議論が一緒に残っているのは幸福なことだと思います。「古池や」の句だけをみていてはわからないこと、しかも伝えていかなくてはならない重要なことがある。同様のことは時代を下った俳人たちの作品や作品をめぐる文章にもあるのだと思います。  俳句を志す人はそれを引き受けて自分の時代を生きる。俳句創作に向かう初心に習って、蛙に古池という取り合わせも更新されていったのでしょう。
 この本のあとがきで筆者の高柳克弘氏は、「俳句が現代芸術であるという確信は揺るがない」と書かれています。短歌を始めたころにわたしも短歌に対して同じようなことを直観したと思っていて、その確信はやはりゆるいでいないです。いわゆる最近の、いわゆる若い人の間には、短歌と俳句の間をフットワーク軽く行き来している作家が少なくないので、いまを生きる人のありようを、言語の可能性を押し広げつつ、さぐっていく定型詩の、希望は、消えないと思います。いま頭からあふれそうになっている疑問はとりあえずおいといて、今回は希望で締めたいと思います。

  香水の水面の狭く並びけり 佐藤文香 「鰺」(『菊は雪』)

  母と子の決闘が母子像になる 平岡直子「21世紀」(同人誌『SH3』)