湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 久保田万太郎
昨年の春から一年の間、海のほとりにある田舎の町で高校の教師をしていたのだが、ことあるごとに思い起こしたのがこの俳句だった。出欠をとる前から居眠りを始めている生徒たちを教壇から眺めているときや、高速バスの停車場から十キロ以上先にある寮に戻るためにタクシーを待っているときにふと、ちいさな火のようにこの句のかげが私の胸中に閃くのだった。
東京の下町で老境を迎えた男の独詠が、なぜこんなにも三十路を迎えて田舎をさまよっている者に親しく響くのか。おそらく季語として選択された「湯豆腐」の質感が、それに大きく寄与しているのは違いあるまい。豆腐はずっしりとした重みを持ちながら、その成分のほとんどは水分で占められている。また、それゆえにおそろしく脆い。
さらに「湯豆腐」は内部に水分をたたえた豆腐を周囲から水分が守っているような料理でもある。不定形に限りなく近いものが不定形のものに抱かれているという構図。量感と脆さのアンビバレントさが、次の年の雇用も定かではない私自身の身の上に重なってくる。もちろん「うすあかり」とストレートに表現された生のかたちにもそれは接続する。
高柳克弘の新著『どれがほんと?万太郎俳句の虚と実』(慶応義塾大学出版会 1600円+税)には、万太郎の俳句に登場する「水」について卓抜な考察が繰り広げられている。高柳によれば鴨長明の『方丈記』以来の「水」による時間の形象化が万太郎の俳句でも行われているという。ただし「古暦水はくらきをながれけり」「ゆく年や草の底ゆく水の音」「短夜のあけゆく水の匂かな」といった句に看取されるように、「水」の流れそのものは「くらき」ところや「草の底」に、あるいは「匂」のみ描写されているといったように「あえて隠されている」。それは「時間の曖昧さ」に向き合おうとする書き手の方向性に関わっているのだと高柳は指摘する。
(略)これらの句は、古典的な「水=時間」の構図を踏襲しながらも、それが実は捉えがたいもので、音や気配のようなかすかなものとしてようやく感じられるものではないかという、伝統的な時間意識へのアンチテーゼとして差し出されているのだ。
この「水」のありようを、つい、「湯豆腐」の句(本書でも何回か言及されている)にも代入してみたい誘惑に私はかられてしまった。「湯豆腐」の内部の「水」は「流れ」ずに停滞している。時間の停止すなわち《死》を「湯豆腐」はその内部に抱えているといってもいいだろう。しかしながら外部で煮え立つ「水」のうごめきに押されるようにして、「湯豆腐」はかすかに揺れ続ける、完全に死の世界へと落ちることはなく。「いのちのはて」にあと一歩でたどりつきそうなところなのに、まだ「うすあかり」のまま消滅せずにいる。そんなあやうい均衡を、高柳の考察を糸口にして想起する。内部に秘められた死、それは老境にさしかかった者のみならず、まだ若さを持つ者にも近しい問題だ。なぜなら、細胞の更新などといった形で、ささやかな死はどんなに幼い肉体の内部にも生じているのだから。
本書は久保田万太郎の俳句を、「下町の抒情俳人」というレッテルを枠組みにした読みから解放することを目的にしている。上に引用した「水」のくだりばかりではなく、切れ字の用い方や、季語の抱えている伝統との向き合い方、感情表現の仕方の意外性等、様々な側面から万太郎の俳句の虚実の間を往還する精緻なたくらみを照らし出している。「つかみどころのない、曖昧な記憶」こそが真実であるという志向性こそが万太郎の俳句の核心であり、それは現代の鴇田智哉のような俳人の仕事にも通じるところがあると高柳は結論づけている。
しかしながら、高柳が指摘する万太郎の俳句の核心は、実は万太郎や鴇田の仕事に限らず「抒情詩」そのものの核心なのではないだろうか。「抒情詩」は書き手が情を抒べた段階で完成するものではない。読み手がそれに共感や共苦をおぼえた時点で完成する。つまり、読み手の精神にもまた能動性が求められる。そして「つかみどころのな」さや「曖昧」さによって投げかけられる広い意味での《謎》(とここでは便宜上名付けておこう)こそが、この能動性を生む手びきとなるのではないか。《謎》のなかにわけいろうとする、あるいはそれをときほぐそうとすることによって、読み手の情も揺れ動く。万太郎の俳句の読み解きを通じて次々と明らかにされていく、抒情のしかけのつつむ射程は大きい。
昨年の春から一年の間、海のほとりにある田舎の町で高校の教師をしていたのだが、ことあるごとに思い起こしたのがこの俳句だった。出欠をとる前から居眠りを始めている生徒たちを教壇から眺めているときや、高速バスの停車場から十キロ以上先にある寮に戻るためにタクシーを待っているときにふと、ちいさな火のようにこの句のかげが私の胸中に閃くのだった。
東京の下町で老境を迎えた男の独詠が、なぜこんなにも三十路を迎えて田舎をさまよっている者に親しく響くのか。おそらく季語として選択された「湯豆腐」の質感が、それに大きく寄与しているのは違いあるまい。豆腐はずっしりとした重みを持ちながら、その成分のほとんどは水分で占められている。また、それゆえにおそろしく脆い。
さらに「湯豆腐」は内部に水分をたたえた豆腐を周囲から水分が守っているような料理でもある。不定形に限りなく近いものが不定形のものに抱かれているという構図。量感と脆さのアンビバレントさが、次の年の雇用も定かではない私自身の身の上に重なってくる。もちろん「うすあかり」とストレートに表現された生のかたちにもそれは接続する。
高柳克弘の新著『どれがほんと?万太郎俳句の虚と実』(慶応義塾大学出版会 1600円+税)には、万太郎の俳句に登場する「水」について卓抜な考察が繰り広げられている。高柳によれば鴨長明の『方丈記』以来の「水」による時間の形象化が万太郎の俳句でも行われているという。ただし「古暦水はくらきをながれけり」「ゆく年や草の底ゆく水の音」「短夜のあけゆく水の匂かな」といった句に看取されるように、「水」の流れそのものは「くらき」ところや「草の底」に、あるいは「匂」のみ描写されているといったように「あえて隠されている」。それは「時間の曖昧さ」に向き合おうとする書き手の方向性に関わっているのだと高柳は指摘する。
(略)これらの句は、古典的な「水=時間」の構図を踏襲しながらも、それが実は捉えがたいもので、音や気配のようなかすかなものとしてようやく感じられるものではないかという、伝統的な時間意識へのアンチテーゼとして差し出されているのだ。
この「水」のありようを、つい、「湯豆腐」の句(本書でも何回か言及されている)にも代入してみたい誘惑に私はかられてしまった。「湯豆腐」の内部の「水」は「流れ」ずに停滞している。時間の停止すなわち《死》を「湯豆腐」はその内部に抱えているといってもいいだろう。しかしながら外部で煮え立つ「水」のうごめきに押されるようにして、「湯豆腐」はかすかに揺れ続ける、完全に死の世界へと落ちることはなく。「いのちのはて」にあと一歩でたどりつきそうなところなのに、まだ「うすあかり」のまま消滅せずにいる。そんなあやうい均衡を、高柳の考察を糸口にして想起する。内部に秘められた死、それは老境にさしかかった者のみならず、まだ若さを持つ者にも近しい問題だ。なぜなら、細胞の更新などといった形で、ささやかな死はどんなに幼い肉体の内部にも生じているのだから。
本書は久保田万太郎の俳句を、「下町の抒情俳人」というレッテルを枠組みにした読みから解放することを目的にしている。上に引用した「水」のくだりばかりではなく、切れ字の用い方や、季語の抱えている伝統との向き合い方、感情表現の仕方の意外性等、様々な側面から万太郎の俳句の虚実の間を往還する精緻なたくらみを照らし出している。「つかみどころのない、曖昧な記憶」こそが真実であるという志向性こそが万太郎の俳句の核心であり、それは現代の鴇田智哉のような俳人の仕事にも通じるところがあると高柳は結論づけている。
しかしながら、高柳が指摘する万太郎の俳句の核心は、実は万太郎や鴇田の仕事に限らず「抒情詩」そのものの核心なのではないだろうか。「抒情詩」は書き手が情を抒べた段階で完成するものではない。読み手がそれに共感や共苦をおぼえた時点で完成する。つまり、読み手の精神にもまた能動性が求められる。そして「つかみどころのな」さや「曖昧」さによって投げかけられる広い意味での《謎》(とここでは便宜上名付けておこう)こそが、この能動性を生む手びきとなるのではないか。《謎》のなかにわけいろうとする、あるいはそれをときほぐそうとすることによって、読み手の情も揺れ動く。万太郎の俳句の読み解きを通じて次々と明らかにされていく、抒情のしかけのつつむ射程は大きい。