「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 言葉による呼吸を、最後の瞬間まで――『俳句航海日誌―清水昶句集』を読む 添田 馨

2016年02月01日 | 日記
 短歌は〈回帰〉するが、俳句は〈超出〉する。直感的にだが、あくまでそう言いたいと思う。短歌は〝七七〟の音節部分を有することで、帰り道を確保する。俳句にはそれがないため、はじめから帰り道は用意されていない。どこか吹きさらしの感じが俳句にはついて回るが、その理由は、主にこの詩型からきているように思う。
 ところで、昆虫の世界には、驚くべき天然の幻術が生きている。木の葉そっくりの竹節虫、蘭の花そっくりの花蟷螂、蟻そっくりの蠅や蜘蛛、蜂そっくりの蛾などなどである。外見上は、木の葉や蘭の花や蟻や蜂にしか見えないのに、その正体がまったく別の生物だというこの幻術は、擬態と総称される。擬態の昆虫たちは、おそらく生存上の切実な理由から、このような姿をとっている。虫たち自身の意思でこのような姿をしているとは到底考えられない。まだ知られていない天然の原理が、そこには生きて動いている気配がする。
 清水昶の句集『俳句航海日誌』(七月堂、2013)には、九四七句の作品が収められているが、これは生前にネット上で公開されたという三五,〇〇〇句のうちのごく一部分であると説明がされている。私はこれらの収録作品を一読して、これらは俳句の姿をしているが、その実体は俳句ではないのではないか、とのストレートな印象を持った。つまり、清水昶のこれらの作品は、俳句に擬態した未知の何かなのではないかと、直感的にだがそう思えたのだった。何故なのだろう。
 説明書きによると、清水氏は二〇〇〇年六月から亡くなる二〇一一年五月までの十一年間に、約三五,〇〇〇句ほどの作品をネット上に発表したとされている。試しにこれを期間日数で割ってみると、一日平均で八句から九句を創作していた勘定になる。この創作ペースが、一般的にみて多いのか少ないのか、にわかに判断をくだすのは危険かもしれないが、日々の平均ということで考えれば創作数がそれより少ない日がある一方で、それより多い日もあるということだから、決して少ないとまでは言えないような気がする。

01.5.19
雷鳴に電信柱整列す
青杉の骨林立の月の山
水中花死よりも綺麗に開きをり

01.5.21
満月や鉄腕アトムの脚の火よ
玄海や青く眩しい魚飛ぶ

01.5.22
嵯峨豆腐手に溶けそうな残暑かな
雷雲を仰ぐ海辺の研屋かな
高原に湧く雲夏の蝶死なず


 任意の箇所から八句ばかりを拾い出してみた。清水氏の俳句作品には、このようにすべて日付が打ってある。日付は、作品そのものにとっては二義的な意味しかもたないかもしれないが、少なくとも清水氏自身にとっては、何か重要な意味を持っていたのかもしれないと考えてみる。何月何日という個々具体的な日付がなにかを表象しているということではなく、作品にすべて日付をつけるということ自体が、なにか意味のあることだったのではないかと仮定してみるのである。すると、そこから作者のどのようなモチベーションが浮かび出てくるだろうか。
 ヒントになったのは、Twitterというソーシャルメディアの機能であった。Twitterの機能は、基本的に、折にふれて自分が思ったことや感じたことなどを、言語によるメッセージとして不特定多数の人間にむけ発信できるところにある。メッセージには日歴が付され、リツィートされることでそれはさらに拡散する。だが、私が関心をもったのは、Twitterのこうしたコミュニケーションツールとしての機能よりも、日々自分の言葉を営々とツィートし続ける人々の、メッセージを発しようとするその意識の在りようについてであった。
 SNSの時代が到来するずっと以前だったら、会話であれ手紙であれ、他者とのコミュニケーションにかかる精神的なコスト(ストレス)は、総じて高かった。現在でも、ビジネスや取材などの公的発言が要求される局面において、コミュニケートしようとする個人の意識は高い緊張を強いられるであろうし、それは現在でもなんら変わってはいない。だが、そうしたオフィシャルな制約から解き放たれた時でも、特定の相手との会話や手紙という旧来の手段は、やはり一定以上のストレスを発話者に強いてきたと思う。
 Twitterは、非オフィシャルな状況下で、顔の見えない不特定多数の相手に自分自身のメッセージを投げることができる点で、私たちからコミュニケーションにかかる精神的コストのかなり多くの部分を排除するのに成功したのだと言えよう。
 だが、無論、それだけではない。精神的コストを減免したと同時に、Twitterはメッセージを発信することで、自己承認欲求を一定程度満足させるという側面も少なからず具備している。リプライ(返信)だけでなく、リツィートの回数等によって、顔のよく見えない相手からの認知の証拠が眼にみえるかたちで計量化でき、そのことがユーザーの満足度向上に繋がっていることも、あながち否定できないだろう。
 つまり、あくまで発信者側の視点にたてば、ブログ掲載という清水氏の作品発表のやり方は、Twitterを使ったメッセージ発信をふかいところで動機づけている大衆の意識の在りようと、コンテンツ以外の部分で、かなり近似しているのではないかと思えるのである。

02.4.26
大根の花母子寮の庭に咲き
愛といふ母音はつなつのひびきあり
春愁の旅行鞄の重さかな
道草の子らの溜場ミズスマシ
春は曙獄中書簡読み耽り

02.6.30
共産党宣言を読む外は薄暑
のつたりと河馬浮き上がる薄暑かな
猫の子の鈴しずかなり薄暑かな
心中行名を告げてをり滝殿へ

02.7.1
本当のことを言ひかけ流れ星
余生とは宵待草の命かな

02.7.3
青空にそら豆はじけたくもあり
打ち上げて花火の発句散りにけり


 収録上の都合からか、ところどころ飛んではいるが日付はほぼ連続している。これはカレンダーの物理的な時間がそこで経過していることの表現ではなく、むしろ創作のベースとなっている作者自身の生活時間がそこに一貫して底流していることの、非言語的な表現だと読んだほうがよいのではないだろうか。ブログ掲載という形式上の理由があったにせよ、日付の連続性は一連の俳句作品の配置を決定づけている以上に、発表することの動機性そのものを暗に表明しているかのようでさえある。この時期、個々の作品の表出意識は等身大で、相対的に安定を保っていた。
 だが、そもそも、清水昶はこのとき、なぜ長年書き続けてきた口語自由詩の形式ではなく、このような俳句の表現形式を選んだのだろうか。二〇〇〇年の九月二十二日の作品を以下に引く。

00.9.22
極道になりたくもあり柿ひとつ
土俗とは秋に置かれし青磁かな
*小生が現在知りたいのは、三十年余「現代詩」を書いてきて、いきなり俳句に開眼?してしまった自分の不思議さに戸惑うからです。勿論、それは自分自身で、きちんと論理的に解決しなければなりません。その問題のひとつは、現代詩が壊滅状態にある現在、俳句から口語自由詩を再構築する道が何処にあるのかを問わなければ、小生にとって一切が無意味なのです。


 特に私の目を引いたのが、「」部分にある「俳句から口語自由詩を再構築する道」という言い方であった。というのも、私には清水氏がこのとき、本当に「口語自由詩」を再構築するために「俳句」を創っているのだとは、到底信じられなかったからである。私にとって清水氏は、依然として七〇年代初期の同人誌「白鯨」の詩人・清水昶でありつづけてきた。私は決して彼のよき読者だったとは言えないが、それでも彼の初期の詩集、例えば『長いのど』(1966)や『少年』(1969)、『朝の道』(1971)等をはじめて読んだ時の衝撃は、やはり相当なインパクトとなって自分のなかに残響していた。清水氏の詩の言葉がもっとも輝いていた時期が、六〇年代の終りから七〇年代に移行しようというこの節目の時代に重なっていたことは、恐らく戦後詩人としての彼の宿命を決定づけていたのだとも言える。
 だから、「現代詩が壊滅状態にある現在」という表現をもたらした実体経験が清水氏にあるとすれば、いまの誰彼が書いている詩作品のことを指して言っているのではなく、自身がこれまで「現代詩」に籠めてきた何かが、抗いようもなく「壊滅」しているという存在感覚としてしか想定しようがない。「俳句から口語自由詩を再構築する」というのは、清水氏にとって、何よりも壊滅状態にあるみずからの存在感覚の「再構築」でなければならなかった筈である。
 以下、ランダムに私の心に引っ掛かった作品を拾い上げてみる。

02.11.29
望郷や海を流れる冬の川

02.12.19
夕焼領王は少年一人なり
臥せる母夢に舞ひ込む雪螢
降る雪やカフカ忌見舞ふ人もなし

03.4.29
夕焼けの領土を守り麦踏みぬ

03.5.1
はつなつに少年放つ伝書鳩


 断片的にだが、語句のいくつかは自身の過去の作品をもふくむ戦後詩脈に由来している姿が見て取れる。「02.11.29」の作品は、あくまで推測だが、石原吉郎への思いをこめたものではないだろうか?また、「02.12.19」と「03.4.29」の「夕焼領」や「夕焼けの領土」という語句、また「03.5.1」の「少年」などは、あきらかに過去の自身の作品からそのイメージを引水した入れ子構造の効果を狙った表現のようにも読み取れる。
 「夕焼領」という同題名の詩作品が、詩集『少年』(1969)には収められている。

そこに生きそこで死ぬ
亡き父の碑銘を染める
夕焼領 凶作の土地
構えひたひたと後退し
パンの思想を焼けにがい麦を踏め!なあんて
身をこがしながらわたしも死ぬのか
しずかなる収奪の椅子にもたれ
するどくやせた頬を薄い陽にむけて
名ざしの敵を見失う指なき十月
おしよせる冬におびえる眼窩の奥の
輝ける死者の荒野(あれの)にうずくまり
蛇の目をした男が飢える

(「夕焼領」第一連)


 清水昶は、生存のこうした原郷的なイメージの鮮やかな創出においては、右にでる者のない名手だった。飢えと美とは、当時の現代詩のシーンにおいて、一定程度の強度をもつ重要なモチーフたりえていたのも事実である。ただ、同時に、清水氏が描きだす鮮やかすぎるほどに美しいこれらの情景は、私のような戦後生まれの世代にとっては、はるかな時の彼方に消えてしまったある時代の残響ではあっても、自分が生きる足元の現在と地続きにはつながっていないとの思いが絶えずつきまとっていた。つまり、一種の断絶をまたいで、私などは清水氏の作品と対峙してきたのだと言える。
その一方で、それでもなお私たちを捉えて離さなかった清水氏の詩の魅力の源泉には、誰でも通過したことのある自らの少年期に対する、アンヴィバラントなリリシズムが深く関与していた。例えば、次のような詩行は、いまでも私の脳裏に焼き付いて離れない。

いつだったかもう忘れたが
麦の見える教室で
ハンカチのようにぼくをはたき倒した先生
どよめく波うっわらっているな
どっとあふれるくやしさで成長し振り返ると
先生は麦をガムのように噛みながら
山羊よりもやさしく老いている敵ではない

(「長いのど」第一連・部分)


 最初に私は、短歌は〈回帰〉するのだと書いた。だから、清水氏がかつて自ら切り拓いた戦後的な抒情詩のこうした表現上の可能性に、再び回帰することを願っていたのだとしたら、私は俳句形式ではなく、短歌形式を選び取ったと思うのである。しかし、彼が選び取ったのは、俳句形式であった。私はそこにある決定的な飛躍をみる思いがする。

04.10.20
焼芋を包む新聞の記事を見る

06.2.3
火宅なり鬼は外へ逃げられず

06.10.23
梯子酒すれば新宿に流れ星

06.11.5
白内障手術不安な秋の暮
心中行あれが噂の紅葉川
*胃液は吐かなくなったが激しい咳込みは続く。食欲が無いのは相変わらずだ。酒と煙草は止められない。おまけに白内障がどんどん進化して目が見えなくなっている。夜道が歩けない。ぼか~もう駄目だ!


 ふと、ここで思うのである。ここに付された日付ばかりが残り、俳句作品がそこに置かれていなかったとしたら、どうだろう?正真正銘の無が、生存の空白状態ばかりが、そこでは無情にも連続しているということになるのではないか。だが、そこにたとえ一行だけでも、こうして俳句作品が置かれることによって、〝無〟はそのつど〈超出〉されているのではないか?

08.3.14
死神に春風邪移して熟睡す

08.5.10
死神も覗き込むかな夏の風邪


 死への不安が、清水氏を日常的に捉えていた様子がよく見て取れる。だが、その不安を「死神」へと擬人化し、逆に手玉にとっているところがなかなか面白い。

09.10.3
落蝉を蹴るハイヒールの女学生
*骨の病気にはまいった。自宅の周辺一〇〇メートル歩くのがやっとだ。それでも成蹊大学正門前ベンチでストレッチ体操を毎日一〇三回欠かした事はないが治らない。このままでは遂に歩けなくなる不安が付き纏う、神よ!

09.10.31
道続くわが薄幸の落葉踏む
*どうしても骨の病気が治らない!成蹊大学正門前のベンチで屈伸とストレッチ体操を毎日しているが一〇歩歩いては杖で休むという状態だ。このなさけなさは外科医に言っても分からない!今日は財布を落としてしまった。アタシ馬鹿よね。


 なぜ清水氏は、みずからの俳句作品に、あえてこのような付言を添えたのだろう。私には、作品の自律度合いが脆弱化してしまった時に、あえてこうした付言を添えることで、相対的に作品化の契機を補強しようとした結果だと思う。よしあしの判断はさておき、このことは最終的に俳句形式が、清水氏にとっていかなる位相のもとに立ち現われてきていたのかを知る、重要な鍵になると思う。
 最晩年の作品を、以下に引用する。作品と付言は亡くなる前日まで、連綿と続いている。

11.3.11
逝きし父に似た両眼の無い雪だるま
*父が亡くなってから唯茫然としている!!先日骨粗鬆症のため転倒して歯を七針縫った。

11.4.9
少年院の塀を越えゆくシャボン玉
*昨日はストレッチ体操後、転倒して右目が狸のようになる!

11.5.1
杖を曳く弱法師に春疾風
*ストレッチ体操は毎日一〇〇〇以上はやる。なのにまだ歩行困難だ。

11.5.12
遠雷や町は地獄の一丁目
*ぼくのような身体障害者には東北大震災は、どうにもならない!もう一発東海沖に来そうだよ親鸞さん。南無阿弥陀仏!明日の五月晴れは不吉!

11.5.23
五月雨て昏れてゆくのか我が祖国
*我が身体も我が祖国もどうにもならない!「絶望の絶望たるは希望なり」(北村透谷)や!

11.5.29
遠雷の轟く沖に貨物船 (註・初出は10.7.30)
*颱風二号は四国だ!外出出来ずに家に引きこもっている。被災難民の気持ちが良く分かる。


 東日本大震災という途方もない「遠雷」を聴きつつ、清水昶は逝った。この段に至ってなお、清水氏に自己承認欲求があったかどうかは、測りようもない。でも彼は、最後の瞬間まで〝書く〟という行為を手放さなかった。そのことだけは疑うべくもないだろう。
 俳句表現は、清水氏にとって実は呼吸のようなものだったのではないか。呼吸がある限り、それは生が持続している証しになる。鼓動や脈拍と違って、呼吸は人間の意志によって緩くもできれば激しくもできれば、一瞬止めることもできれば、深化させることだってできる。特に最晩年にいたり、清水氏が死の前日まで〝書き〟続けていたということは、自分で呼吸を止めたら死がやってくるように、ほとんど生き続ける本能のようにして、これらの俳句作品を書き継いでいったのではないかとの思いに私を誘う。俳句の姿をしているが、これらは詩人・清水昶の日々の一瞬ごとの言葉(・・)に(・)よる(・・)呼吸(・・)、それが現在をそのつど〈超出〉していった瞬間々々の拭えない痕跡でもあったことを、私はここに認めるのである。
(了)