「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評175回 令和のクリスマス俳句鑑賞 三倉 十月

2023年11月25日 | 日記
 サンクスギビングがあるアメリカと違って、11月に目立ったイベントがない日本では、ハロウィン終了と同時に街はクリスマスに変わる。今年も11月頭から都内の商業施設には大きなツリーが飾られ輝いていたが、夏日の暑い日があったりしたのでちぐはぐな感じは否めなかった。やはり2ヶ月もクリスマスで引っ張るのは無理があるのでは? と思うわけだが、それはそれとして、今回はクリスマスの句を鑑賞してみようと思う。

 日本のクリスマス。戦後の高度成長期に盛り上がって行った催事なのかと思いきや、明治29年に正岡子規がクリスマスを季語(季題)にしたとの記述を見つけた。折角なので、子規のクリスマスの句から始めたい。

八人の子供むつましクリスマス    正岡子規

 クリスマスの日に、子供たちが集まっている。それだけの景だが、病に伏している子規が、この賑やかさをどれだけ嬉しく思っているのかが伝わってくる明るい句だ。子規も子供たちと同じように、ウキウキとした気分になっているといいなと思う。

長崎に雪めづらしやクリスマス    富安風生

 こちらは昭和3年の、富岡風生のクリスマス句。長崎の町に、珍しく雪が降った。それだけならまだしも、クリスマスなのだから嬉しさも尚更だ。当時はまだホワイトクリスマスとは言わないかもしれないが、雪と夜景の長崎は、それはそれは美しいだろうと思う。

へろへろとワンタンすするクリスマス 秋元不死男

 さて、クリスマスの句と言えば……で、有名なのがこちらの句。イメージとしては賑わう街の片隅にあるクリスマスとは無縁の食堂の景だ。どうやら外はクリスマスらしいが、自分には関係ないとワンタンを啜っている。この句が詠まれたのは昭和24年、終戦から5回目のクリスマス。サンフランシスコ講和条約まではまだ3年あるが、平和が日常になったことをを感じさせる。

 ちなみに、この句はクリスマスへのアンチテーゼのような形で紹介されているのを見かけることはあるが(それも理解できる)、秋元不死男本人は思いのほかクリスマスの句が多い。(クリスマス好き?)

目刺みな眼をくもらせてクリスマス 秋元不死男
点眼に額みどりめくクリスマス

 こちらの二句は、どちらかというとワンタンの句と同じで、日常のかなりどうでもいいことと、クリスマスが取り合わされている。ワンタンをすするほどのインパクトはないが、それでもクリスマスを詠みたかったと言うのは少し面白い。ただ、二句目の「額みどりめく」のは、のけぞった頭の先にツリーがあるから?という風に読めなくもない。

燐寸ともし闇の溝跳ぶクリスマス  秋元不死男
燭の火の根元の青きクリスマス

 こちらは、どちらも何となくクリスマスを感じる。小さな明かりと闇の対比は、聖夜と繋がる部分がある。と、思っては見たものの、何故、燐寸の明かりで闇の溝を飛んでいるのか。しかもクリスマスに。何かから逃げているのだろうか。クリスマスに?


 昭和後期、山口誓子は毎年クリスマスの句を詠んでいた。特にクリスマスツリーを見るのが好きだったようだ。聖樹の句がとても多い。ここに挙げたのは、ほんの一部である。

聖樹には大き過ぎたる星と鐘    山口誓子
聖樹より垂れゐる小さき教会堂
聖樹にて鳴ることもなき銀の鐘
聖樹には綿をこんもり積もらしめ
病院の聖樹金銀モール垂る
ホテル廣場電飾のみの大聖樹
レストラン綿で聖樹の雪増やす

 主に昭和53年〜58年ごろに詠まれたもの。しげしげと聖樹を見つめている。病院で、ホテルで、レストランで、街中の様々な場所で聖樹に目を止め、その一つ一つを詠んでいる。最近の商業施設のツリーの飾りなどは、どこで見ても似たような感じだなと思ってしまうこともあるが、それでも細部に目を止めて句にしていくと30年後に読み返して時代の空気を感じる懐かしい句になるかもしれない。

みな聖樹に吊られてをりぬ羽持てど 堀田季可

 さて、同じ聖樹の句でもまたがらりと雰囲気が変わる句。何度かこの連載で引用させてもらっている堀田季何さんの『人類の午後』に、クリスマスの章があったのでそちらから。天使の人形が飾られているクリスマスツリーは一見可愛らしいのかもしれないが、「みな」「吊られてをりぬ」と表現されると、突然世界の薄皮が一枚剥がされたような、薄寒い感覚を覚える。

それぞれに森を離れてきて聖樹   矢野玲奈

 色々と飾られたり、吊るされたりしている聖樹だが、こちらは木そのものを詠んだ静謐な句。森から遠く旅をして、時と場合によっては海も渡って、色んな街の色んな家に届いて、飾り付けられ聖樹となる。最近はフェイクのツリーを飾る家の方が圧倒的に多いと思うが、生のもみの木の爽やかな芳香は堪らなく良いものだ。今も静かに佇む遠い森を思いながら、一つずつ飾り付けていく。

陣痛に悶えてマリア聖夜劇     堀田季可

 もう一句、『人類の午後』から。聖夜劇は見たことがないのだが、子供たちが演じることが多いことを考えれば、出産シーンは必須とはいえ陣痛に悶えるマリアはいないだろう。ただ、実際の出産の現場ではそんなことはあるはずもなく。遥か昔の伝説、史実、ファンタジーの中の真実は今となってはわからないが、この句を読むと、聖夜の厳かさを上書きするような、マリアの汗の香を感じるのである。

アマゾンの箱破る快クリスマス   小川軽舟

 賑やかで楽しく現代的なクリスマス。多くの人が一度は破ったことがあるだろう、アマゾンの箱との取り合わせが面白い。正直、アマゾンから届くのは日用品の方が圧倒的に多いが、時折は贈り物もある。そして、クリスマスの季語が明るさを添えている。最近はアレクサがアマゾンから届くものをぺらぺら教えてくれてしまうので、サンタから子へのプレゼントは決してアマゾンに頼まないの言うのは、昨今の親にとって重要なライフハックである。

自殺せずポインセチアに水欠かさず 矢口晃

 クリスマスの明るさがあれば、それに対比するように影もある。この句はクリスマスとは一言も言っていないけれど、クリスマスの気配を強く感じる。外の世界の煌めきとの対比するように、暗い部屋の片隅で、目に痛いほど赤いポインセチアを見つめている瞳に光が差していない。それでも此岸に留まる限り、水をやる。クリスマスがやってきても、通り過ぎても、波はやり過ごすのが大事なのだ。

コロッケの中の冷たきクリスマス 小野あらた

 こちらは多分、一人のクリスマス。レンチンに失敗してコロッケの中がまだ冷たい、というのはまあまあ良くあることだけど、クリスマスだからこそちょっと面白い句になった。あと30秒温めを追加して食べよう、コロッケ。

離陸せぬうちに眠れりクリスマス 夏井いつき

 仕事も仕事以外も大詰めの年末進行。それでも故郷に帰る日に乗った飛行機で、そういえば今日がクリスマスだったことに気づく。東京のキリッと晴れた夜の夜景は、クリスマスに相応しく美しいだろうに。夢の中で見るしかない。今年もお疲れ様でした。Merry Christmas、あらため、Happy Holidays!



出典
『天の川銀河発電所 現代俳句ガイドブック Born after 1968』(左右社)佐藤文香編著
『俳コレ』(邑書林)週刊俳句
『昭和俳句作品年表 戦後篇』 (東京堂出版)現代俳句協会
『昭和俳句作品年表 戦前・戦中篇』 (東京堂出版)現代俳句協会
句集『人類の午後』(邑書林)堀田季何
句集『無辺』(ふらんす堂)小川軽舟
575筆まか勢 fudemaka57.exblog.jp 「クリスマス」

俳句時評174回 多行俳句時評(9) 出会い損ねる詩(3) 斎藤 秀雄 

2023年11月02日 | 日記

 引き続き、酒卷英一郞氏の三行作品を読み進めたい。読みの方針は、前々回、および前回記事と同様である。「出会い損ねる」という、詩との出会い方を、受け入れつつ、しかし抗ってみること。
 なお、酒卷氏の作品において、表記は一貫して正書法が用いられているが、文字コードやフォントの都合上、表示しえないものは、それぞれ新字体に改めた。

胡麻和えは汝に
黑胡麻汚しは
そちへかな

 『LOTUS』第6号(2006年)「阿哆喇句祠亞 αταραξία XXII」より。この人を食ったような、とぼけたような「作風」を眼前にするとき、「ああ、酒卷作品を読んでいるなあ」という「実感」に襲われる。もちろん「実感」などというものは、「実感」という印象を伴った知覚のひとつに過ぎないのだから、騙されてはならないだろう。
 コンスタティヴな「句意」は見たままだが、ひとまずパラフレーズするなら「胡麻和えはあなたに。黒胡麻汚しはそちらのあなたに」となるだろうか(《》の自称としての用法は、古代においてあったようだが、ここではそこまで穿った読み方をする必要はないと思う)。本作を読むさい、重要なポイントと考えられるのは、本作の背後に(下に、でも、上に、でもよいのだが)いかに間テクスト的な・テクスト参照的な重層性(深さ、とか、重み、とか呼んでもよいかもしれない)があろうとも、なによりもまず「強い句意」が、ある明瞭さの印象を伴って、読みの領域に勃勃と立ち上がる点だ。これを無視することはできない。《》と《そち》、《胡麻和え》と《胡麻汚し》はそれぞれ同義であり、つまり文字面を変えつつ、二度、同じことを述べていることになる(だから「人を食ったような、とぼけたような」と述べたのだ)。対称(二人称)を二度使うことは、語り手の眼前に二人の人物がいると仮定すれば、不自然な点はまったくない。
 パフォーマティヴな句意はどうか。面白いのは、一行目と、二・三行目の印象が、まるで異なる、という点だろう。この印象の違いは、並べて配置する、アレンジメントの効果である。「胡麻和えは汝に」という文も「黒胡麻汚しはそちへ」という文も、それぞれ単独では、本作の与えてくる印象を備えることがない。このアレンジメントにおいて、《和え》・《汚し》の対称的な語が、まずはこの違いをもたらしている。二行目の《黑胡麻》は、反照して、一行目の《胡麻》を白胡麻としてイメージさせることだろう。
 近年、「黒」を悪しきものの象徴として用いることに対し、ポリティカル・コレクトネスの観点から異議が唱えられているが(「ブラック企業」等の言い回し)、我々の知覚の構造によるものか、知覚の構造を維持しようとする保守的慣行によるものか、《汚し》の語の効果もあいまって、二つの行為は、「青眼を向けられる者への行為」と「白眼視される者への行為」という正反対の印象を備えることになってしまう。句意の、コンスタティヴ/パフォーマティヴの差異の、乖離。ここにおいて、本作は、明らかに散種のテクスチャを湛えており、詩がある。注意すべきは、詩は、コンスタティヴな句意から、あるいはパフォーマティヴな句意から発生しているのではなく、あくまでも「違い」から発生している、という点である。

なみおみの
なんぢきやりこの
からしうす

 『LOTUS』第7号(2006年)「阿哆喇句祠亞 αταραξία XXIII」より。ひらがなに開かれた作品も、酒卷作品に多く見られる特徴のひとつである。かなに開かれた作品は、仮に視覚を用いて読むのであれば、視点の引っかかりを失っており、外形・輪郭からじっくりと、形状を知覚し、最終的に一字一句について知覚する、というプロセスを経させるものといえるだろう。このとき紛れ込むのが、いわば「表記的マラプロピズム(誤用語法)」ないし「表記的タイポグリセミア」である。タイポグリセミアは文章の表記について生じる認知上の現象であるから、「表記的」というのもおかしな言い方ではあるが。タイポグリセミアとは、たとえば「こんちには みさなん おんげき ですか」という文(単語の文字の順番が、「正しい」ものとは異なっている)を目にしたとき、誤記(typo)があっても文意を推測できてしまう(場合によっては誤りに気づかない)現象である(文例は久保田・藤川・鈴木、2023、「タイポグリセミアを用いたMulti-model CAPTCHAの提案と評価」『産業応用工学会論文誌』vol.11, no.1より)。しかしながら、本作を読む体験において生じているのは、マラプロピズムでもタイポグリセミアでもなく、かつどちらでもある、という奇妙な事態であるように思われる。
 本作の、一行目《なみおみの》を、まず私は「おなもみの」と空目してしまった。おそらく酒卷氏であれば旧仮名遣いで「をなもみの」と書くだろうと推測できるにもかかわらず、である。俳句作品を読むという文脈に拘束されており、なおかつ《なみおみ》という語に親しみがないからだ。次いで、三行目《からしうす》を私は「からすうり」と空目してしまった。理由は同前。そうなると、二行目は何に空目させようとしているのだろうと、奇妙な詮索への、奇妙な誘惑にもかられる。「なんじゃもんじゃ」だろうか。いや、「空目させようとしている」というのは勝手な決めつけであって、こうした誘惑は倒錯的なものだが。空目、つまり別の語に見間違える、という事態は、マラプロピズムの機序に似ているが、アナグラム的に文字を入れ替えることで空目する、という事態は、タイポグリセミアの機序に似ている。
 ひとまず、本作のコンスタティヴな「句意」をパラフレーズしておこう。「水死したあなたは、三色斑(calico)の鮒(Carassius)(つまり金魚)であることよ」となるだろうか。《なみおみ》つまり「波臣」は、「はしん」と音読みで読むことが通例(?)であるようだが(人名においては宰相花波臣〔さいしょうかなみおみ〕、氏族名においては高志之利波臣〔こしのとなみのおみ〕と訓読みする例がある)、水中に君臣関係を投影して、魚類のこと、転じて水死者を意味するようだ。《きやりこ》つまり「キャリコ」は三色斑の模様のことで、とくに金魚について言う(「キャリコ 金魚」のフレーズで画像検索されたし)。《からしうす》つまり「Carassius」はフナ属の学名。
 弔句とも読める。また、水死者と金魚を重ね合わせることは、エズラ・パウンドが荒木田守武の発句に見出した重置法(super-position)が採用されている、とも読める。しかし、もしそれだけなら、三行目は「きんぎよかな」であってもよかったはずだ……いや、そもそもひらがなに開かれる必要もなかったはずだ……などとも思わせる。《なみおみ》を「おなもみ」と空目したのは私の粗忽によるものに過ぎないかもしれず、「作者の意図」は《からしうす》の語によって無関係の「芥子」「臼」のイメージを立ち上げさせる点にあるのかもしれない。ポイントは、読者は必ず空目するわけではないし、必ず単語の音から無関係のイメージを立ち上げるわけではない、という点だ。ここに、酒卷氏の「賭け」を見出さざるをえない。

夢よりの
根深を抽くや
夢のあと
 『LOTUS』第8号(2007年)「阿哆喇句祠亞 αταραξία XXV」より。一読して、永田耕衣の《夢の世に葱を作りて寂しさよ》、および芭蕉の《夏草や兵どもが夢の跡》との間テクスト関係・テクスト参照関係に気づく。《根深》は長葱のことだろう。《あと》を「後」と読めば(まずは、そう読める)「夢から育ってきた長葱を、夢から覚めたいま、抽いてみる」となるだろうか。この第一の印象、第一の読み自体、奇想と言えて、面白みがある。耕衣句の《夢の世》が、「夢のように儚い此の世」とも、じっさいに語り手が睡眠中に見ている「夢の中」とも読めるのに対して、この読みにおいては「夢とうつつ」が区別され、かつ、《根深》がその区別を越境している。否、《抽く》という行為が越境しているのかもしれない。詩嚢としての《》から、詩のエッセンスを抽出しようとしている、と読めば、詩人の営みを詠んでいるとも読める。いまの世はもはや(耕衣の時代と違って)《夢のあと》である、と読むなら、現代・現在の俳句への批評にもなるだろう。
 俳句批評のラインでの読みを促すのは、芭蕉句を想定するからでもある。つまり《あと》を「跡」と読む可能性、である。芭蕉句の《兵どもが夢》は、藤原三代、もしくは義経主従の《兵ども》が功名の《》を見た、と読む説と、語り手の《》のなかに義経たちが現れた、と読む説とがあるらしいのだが、いずれにしても《夏草》の土地が、《》であろう。本作に反照させれば、文学の夢、文学に対して抱かれていた《》が、いまとなっては《あと》(跡形)である(あるいは「跡形」もないのだろうか)、とも読める。とはいえ、「諦念」「嘆き」と読んでしまうことには、違和感が残る。本作で語り手は《抽く》行為をしているからだ。抽いた結果、どうであったかは、語られないにしても。
 私なりの、少々つっこんだ読みを試みるなら、《》とは(山本健吉が耕衣句に対して読んだように)「夢のように儚い此の世」であり、《夢のあと》とは死後である、とも読めるかもしれない。違うかもしれない。書かれてあることからは、いずれとも判断はできない。このとき、ここにあるのが「夢とうつつ」の区別であるのか、「生前と死後」の区別であるのか、不定となる。この不定性において、私は本作を読みたい。

なはおびを
しぼればこたふ
あきのこゑ

 『LOTUS』第9号(2007年)「阿哆喇句祠亞 αταραξία XXVI」より。再び、ひらがなに開かれた作品。「縄帯を絞れば応ふ秋の声」と、「開かれ」を元に戻してみるなら、まずはコンスタティヴな「句意」が分かる。現代では縄帯は、洒落た、気軽な帯として用いられている。井原西鶴は『諸艶大鑑(好色二代男)』において、吝嗇そうな登場人物を《油屋の手代らしい、二十四五位の男が上がつて來たが、見ると柿染の布地の着物に繩帶を締め、縹色の木綿犢鼻褌が見え透いてゐるばかりか、懐の塵紙さへ汚らしくほの見えてゐる》(吉井勇現代語訳)と描いており、あまり「洒落た」感じはなかったのかもしれない。事典のたぐいには、はじめ遊女やあぶれ者が用い、のちに一般にも広まった、との記述もあり、時代によってニュアンスは異なるのだろう。ともあれ、着物の縄帯をキュッと絞ってみれば、キュッと応える、それが秋の声である――といったような、気風がいい東男のこざっぱりとした、小粋な一場面を描いた、まこと気持ちの良い作品である、ともなろう。なるほどクールジャパン。
 これをかなに開くことで、そうは読めなくなってしまう点が面白い。「まこと気持ちの良い」句意をもたせるだけならば、かなに開く必要はないのだから。もちろん三行表記の効果もあるだろう。縄帯は、かつては村八分の制裁に用いられるなど、残酷な含意が籠った物件である(茜頭巾なども同様に用いられた)。目に見えるスティグマとして、マークとして用いられたのだ。これを前提とすれば、本作品がほのめかしている事態(昨今の流行語でいえば「匂わせ」)も、言わずもがな、となる。ギュッとやれば、ギャッと応える。虐待の場面か、殺害の場面か、一度のことなのか、反復性のあることなのか、それは書かれていない。けれども、共同体の悪性を、つまびらかに描いている作品であろうと思う。本作が傑出しているのは「開かれを元に戻し」たときの句意(コンスタティヴな句意)と、かなに開かれ、三行表記された際のほのめかし(パフォーマティヴな句意)とが、異なる、関連のない意味になるのではなく、表裏一体の、単一の現象を二つの角度から描いたものとして分岐するからである。この「単一の現象」を、ナショナリズムだとかエスノセントリズムだとか呼ぶことも可能ではあるにしても、人類が目下のりあげている暗礁は、文明の起源、「人間」がその名を負うことになった起源に関わっていることのように思われる。アドルノが『プリズメン』第一論文において提示したかの有名なテーゼは、「文化批判」からすでに「文明批判」へと一歩逸脱している(踏み込んでいる)と読むことも可能なのだ。

(つづく)