「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評172回 令和の旅俳句ブームの可能性 谷村 行海 

2023年10月03日 | 日記
 短歌ブームというのはずいぶんと前から聞く言葉だ。軽く調べてみても、2015年12月22日にはNHKの情報番組「あさイチ」で短歌ブームが取り上げられていることがわかった。そして、その短歌ブームはコロナ禍を経てメディアで取り上げられる機会が加速した。ネットで短歌ブームと検索すると多数の記事が出てくる。そうした短歌ブームの記事では、その多くがSNS(特にX、旧Twitter)と短歌との関係性にふれており、そして、そこでは共感性という言葉が1つのキーワードのように繰り返し用いられている。
 だが、そうした短歌ブームというものを目にする・耳にするたび、ブーム自体の良し悪しはあるにせよ、俳句ではなぜそうしたSNSによるブームは起きないのか、そもそも俳句はSNSでブームになってはいないのかというものが疑問に感じられてしまう。
 そんなことを思っている折、『AERA』は 2023年10月2日号より、「SNSの短歌ブーム、なぜ俳句ではないのか? 短歌にあって俳句にないものとは」と題した記事(https://dot.asahi.com/articles/-/202223)を9月26日にウェブ上で公開した。詳細は元の記事を参照していただきたいが、記事の中で俳句と短歌の違いとして挙げられていたものを要約して挙げると次の通りになる。

①俳句では添削という行為が成り立ちやすく、そこに先生と生徒という上下関係が生まれる。
②俳句は芸術としての完成度を求め、短歌は他人に対する共感を求めて作られる。
③俳句には文語を使用したものが多く、また、七七がないことから、作者の思いは読者に汲み取ってもらう必要がある。
④俳句は人間ではなくもっと大きなものを詠むため、「私」はなくてもいい。

 これら4点のうち、短歌ブームの要因として取り上げられやすい共感性に強くかかわってきそうなものは③だろう。①は添削という行為を望むかどうかという作者の気持ちの持ちように関係しており、添削という行為を一切無視して俳句を作り続けることは可能であるし、また、短歌であっても添削を望む人はいることだろう。また②は、そのように大きくまとめてしまってもよいのかという疑問があり、④は作句姿勢に関係するため、「私」を前面に押し出して句を作りたいという態度もあることから、SNSにおけるブームとは別種のものとして除外しておく。したがって、俳句ブームが起きるためには③が重要に感じられる。
 元の記事を読んだ時、私自身③については納得する部分が大きかった。例えば助詞の「の」であれば、それが主格なのか連体格なのかを読み取ることができなければ、句の解釈が大きく変容してしまう恐れがある。また、俳句はものに仮託された思いを季語の知識等から読む必要もあり、一読して意味を解釈しきれない難解なものもよく目にする。だが、文字情報だけではその意を汲み取ることができなかったとしても、それが良いか悪いかは別として、その補足情報として写真を添付するなど工夫を凝らせば思いをより多くの人に伝えやすくすることは可能であろう。そう考えると、短歌ブームで取り上げられやすいXよりも、Instagramであれば俳句との相性は悪くない気がする。
 このように、俳句にも俳句ブームは起きてもおかしくないように思える。
 だが、仮にブームが起きた場合、そもそもそれが良いことか悪いことかを考えることは重要なことだ。共感性を求めることを否定しているわけではないのだが、より多くの人の共感を呼んだ作品が良い作品であるとは限らないだろう。また、その共感性というものを求めていくと、個々の作品に共鳴した人々が一か所に集う可能性もある。その場合、共感できない作品は切り捨てられてしまうという事態が起きかねず、それはなんだか勿体なく、また怖いことのように思える。
 何かの拍子にSNSでの俳句ブームが起きる可能性は十分あり得ることだと私は思うのだが、それが起きた時に何を考えなければいけないか。それが最も大切なことではないだろうか。

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