「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 俳句について3 小峰 慎也

2017年12月15日 | 日記
 『現代俳句集成 別巻2 〔現代俳論集〕』(河出書房新社、1983)という本を通読してみた。苦痛もともなったが、おもしろかった。これは、明治25年の正岡子規から昭和55年の大岡信の文章まで、俳句についての重要と思われる文章を年代順に並べたアンソロジーである。何か、俳句の歴史の登場人物がそれぞれの声で証言している感があり、なまなましい迫力があった。
 (この本をもとに、俳句評論の歴史を概括するのは、別にぼくがここでやるまでもなく、この本の解説(平井照敏)でもやられている。)
 (正岡子規が「文学」という概念を導入することで近代俳句がはじまる。というのが一般的な理解なのだろうか。ここで持ち込まれた「文学」という概念は子規が創出したものではなく、この時期(明治10年代半ばから20年代くらい?もっと前か)にいろいろあって成立したものか。
 子規がやったのは、この時期主流であった「月並み」俳句、型をなぞって通俗的な楽しみとする、茶飲み話の座興として楽しまれていたような俳句、しかし厳然として宗匠のように威張っているひとがいるという状況に対するアンチを唱える、ということであったのだろうか。月並みは月並みで楽しまれているのだからいいとはいえ、それじゃあ表現できないだろうということが端的にいって「個性」みたいなものということか。そこで、子規が型をなぞることの乗りこえとして打ち出してきたのが「写生」。よく見て書くことがおのずと型の組合せだけで成り立っていたものを破壊するというわけだ。)
 (高浜虚子の巨大さもキャラが立っている。虚子は保守。季題や切れを重視し、伝統を喧伝する。理屈という面から見れば、いろいろな登場人物が、「新しく」説得力のある方向を指し示しつづけ、虚子は負けているようにも見えるのだが、虚子は常に不動の、相も変わらず伝統的な型を踏襲することを喧伝しつづける。虚子がいかに反動的なことをいいつづけてもしぶとく魅力を保ちつづけたのは、すでに勘所をとらえている「伝統」的なツボを押されつづけたい人が多かった、ということとともに、その句作・指導がつねに「実践的」な説得力を持っていたからである。とだけいってしまうと話がつまらなくなるか。)
 (水原秋桜子の「「自然の真」と「文芸上の真」」というぱっとしない平凡な文章が一つの流れを作り出したというのは面白い。目のさめるようなことをいう必要はないのだ。
 秋桜子の文章は冷静である。高野素十と比較されて批判されたにもかかわらず、口を極めて攻撃するというようなところは見られず、淡々と筋道立てて論理展開している。その普通さに感心するとともに、「僕は嘗て「葛飾」の序文にも書いた通り、まづ自然をよく見ることを練習した。さうして心を養ひつゝその心を句の上に移してゆくことに努力した。」とか「「近代的の句」といふことは、簡潔に言へば「近代文明に影響された思想生活を詠む句」といふことなので、これは文芸辞典を引いて見ればすぐわかることだ。」といったところに、平凡さが出ていると思った。「練習した」だの「文芸辞典を引いて見れば」だのいうことは、随筆の中ではありえても、理念を押し出す評論の中では、あまり書かないこと。自分を凡人に見せるために書かれたようにも思える。内容的には、みんなもっと勉強しろということだが、それは、一部の学識ある人間にだけゆるされている勉強ではなく、だれでもちょっと勉強すればわかる、といったことであり、その「だれでも」が重要だったのだろう。
 それに対する、高野素十の反論がいらいらさせられる。自分には、「自然の真」も「文芸上の真」もわからないと無知を振りかざし、秋桜子の論に、頭のいいやつはどうぞ勉強なさってくださいという意味のことを書き、自分は「花鳥諷詠」を信じており、「自然の相」を写すことに専念している、「自然の真」などは何年かかろうがわかりつくすものではないといっている。まあそれはほんとうといえばほんとうなんだろうが、議論を封殺するごりごりの、だれが何をいおうとこれを信じてますからという主張である。自然の美が汲みつくせないものといえばそういえるのだろうが、秋桜子は、それをことばにするレベルの話をしているのに。まあいくら「だれでも」とはいえ、「お勉強」しましょうといわれれば、しゃらくさい気もわいてくるが。ただ、素十が「「この花を如何に見たか」といふことが問題であることは、よく聴く言葉であるが私はそんな風に「この花」を見た事がない。如何に見たかといふ様な考へ方を無くさう無くさうと努力を払つたことはある。」というのは切りすてていいことばとは思えないものがある。こういったことが可能かどうかということではない。こういうことを人は考えることがある、ということである。このような考えでものを書くようなことはありうるということである。)