「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 ひっつれがなおせない――『百代の俳句』を読みながら考えたこと―― 沼谷香澄

2022年10月14日 | 日記
 今回取り上げるのは、『百代の俳句』(田原編、ポエムピース刊、2021)です。
 現代において、作者の性別を意識しながら作品を鑑賞するのは時代に合わないし、活動中の作家様にはそのような読まれ方をされるのを望まない方もいらっしゃると思います。しかしながら、本書を読みながら、女性と思われる作者の人数が少ないことと、掲載作の題材に対して、もやもやするものを感じたので、この文章のテーマとすることにしました。このバランスの良いアンソロジーをそういう偏った観点で見る人はほかにいないと思います。
 以下に、本書に登場する女性と思われる作者の作品から一人一句ずつ引きました。作者名の後ろは生年―没年、掲載通りです。

春雨やされども傘に花すみれ     斯波園女(1664―1726)
うくひすやはてなき空をおもひ切   加賀千代女(1703―1775)
ながらへて枯野にかなしきりぎりす  諸九尼(1714―1781)
谺して山ほととぎすほしいまま    杉田久女(1890―1946)
藻をくぐつて月下の魚となりにけり  長谷川かな女(1887―1969)
海底のごとく八月の空があり     阿部みどり女(1886―1980)
三井銀行の扉の秋風を衝いて出し   竹下しづの女(1887―1951)
凍蝶も記憶の蝶も翅を欠き      橋本多佳子(1899―1963)
ひるがほに電流かよひゐはせぬか   三橋鷹女(1899―1963)
銀杏が落ちたる後の風の音      中村汀女(1900―1988)
さえずりをこぼさじと抱く大樹かな    星野立子(1903―1984)
蜂さされが直れば終る夏休み     細見綾子(1907―1997)
駅の鏡明るし冬の旅うつす      桂信子(1914―2004)
をさなくて蛍袋のなかに栖む     野澤節子(1920―1995)
泉の底に一本の匙夏了る       飯島晴子(1921―2000)
花ふぶき生死のはては知らざりき   石牟礼道子(1927―2018)
星ほどの小さき椿に囁かれ      瀬戸内寂聴(1922― ママ) 2021年逝去
毛虫の季節エレベーターに同姓ばかり 岡本眸(1928―2018)
深呼吸止めるとこの秋も終わる    宇多喜代子(1935― )
雪積む家々人が居るとは限らない   池田澄子(1936― )
虫かごに虫ゐる軽さゐぬ軽さ     西村和子(1948― )
密やかに雲より出でず稲光      正木ゆう子(1952― )
細胞の全部が私さくら咲く      神野紗希(1983― )

 作品の好み以上に、題材で女性を感じさせない作品を選んでいったつもりです。結果として苦しい思いの残る句が並んだような気がします。
 助詞や接続詞の活きた作品が多いです。特に接続助詞「て」の使い方は短歌に通じるところがあります。あいまいな言い方になりますが、柔らかい句が多いなと感じました。これは上記の、俳人女性枠の作品だけの傾向ではありません。アンソロジー全体が、いいまわしのやわらかく、なんというか、エモの乗った句が多いように感じました。編者解説では、中国語で書かれる漢詩に比較して、日本語で書かれる俳句について次のように論が展開されていました。これが選句基準になっていると言えます。

 日本語には、情緒が心にまとわりついて離れがたいさまをさす「情緒纏綿じょうちょてんめん」という趣深い熟語があるが、まさしく「纏綿」すなわちまとわりつく表現力は、その謬着語特有の融通無碍な性質に通じ、俳句が他言語に向けてよりひらかれる要因になっているのではないか、というのが私の持論である。(「世界と心を凝縮する芸術 編者解説」)

     *

 一般論になりますが、正しいことを正しいと信じ、同じものを正しいと信じる人たちと共感を持ちながら生きて行動することは実は簡単ではない、ということを、日本で生活していると感じます。日本で、といいますが、私には日本以外で生活した経験がないので、いまの暮らしの中で正義を共有することに困難な社会に私は絶望している、というほうが少し正確です。
 ジャーナリストのカメラの前でヒジャブを脱ぎ捨てて女性の解放を訴えるイスラム教徒の女性は、自分がカメラにシュートされるだけでなく、同じ宗教を信じながらも考え方の対局にあり過激な人の銃にシュートされる危険を承知しているはずです。それでも構わないと思えるのは、自分が倒れても続く人がいると信じることができるからだと思います。自分の思いを、同じように思う人たちと共有し、思いは力になり、世の中を動かしていくことができるから。そう信じることができるから彼女たちは強いのだと思います。
 マフサ・アミニさんの事件が長い間世界のニュースから消えないのに、ツイッターでは日本語の個人投稿が全然増えていかない、特に女性と思われるアカウントの発言が皆無であり続けることを、わたしはとても驚いていました。たしかに、外国の、異教の、異文化の話題です。でも、ジェンダーギャップに抵抗する同性をめぐる事件ではないですか。いや、わかります。日本では目立つことをするとすぐに職を失って生活に困りますから。本当に。笑い事ではないし、泣いている場合でもないです。わたしたちは生活しなければなりません。
 余談が長くなりました。これは俳句に関する文章です。
 この本は、中国出身で、日本の現代詩人の研究で博士号をおとりになったティエン・ユアンさんが編纂した、江戸前期から平成までの131人の俳人、または句集を出版した文芸家の作品を、時代順に並べたアンソロジーです。選句の基準が、「他言語に翻訳したときに読み手にどう響くか」(「この本を手にした方へ」)という点に惹かれました。それならば、俳句的教養の乏しい私にも面白さがわかるだろうと考えました。実際、とても読みやすかったです。その原因は、前述の情緒豊かな(共感を呼びやすい)作品が選ばれている理由に次いで、題材の普遍性にあります。花鳥風月、自然天象と生老病死が中心で、文化的背景の解説を必要とする作品が除かれているのがわかりました。そのうえで、時代が下るにつれて、描かれる情景が親しいものになり、作品に触れながら少しずつ息がしやすくなるのを自覚できました。
 しかし、ほとんど最後まで緊張が抜けなかった点があります。男女比です。章立てごとに全掲載人数に占める女性作者の比率を計算してみます。

一 江戸時代前期 …… 1/20 5%
二 江戸時代後期 …… 2/16 12.5%
三 明治・大正時代 …… 1/19 5.2%
四 昭和時代前期 …… 11/46 23.9%
五 昭和時代後期 …… 7/27 25.9%
六 平成時代 …… 1/3 33.3%
全体 …… 23/131 17.6%

 意外だったのは昭和後期以降も思ったほど差が縮まっていなかったことです。もっとも、個別に出版される句集の現物や情報の流通性の悪さは、令和の今になってもそれほど改善していないので、出版年次の新しい作品から選んでいくことには大きな困難が伴うことは理解できます。後世に編みなおせば、平成後期から令和の比率はもう少し違ったものになる可能性もあります。
 たった一冊のアンソロジーでわかることは少ないかもしれません。しかし、日本よりジェンダーギャップの小さい国の文化的背景を持つ編者が、現在参照できる文献から、翻訳に耐えうる名作を広く抄出するという本書の企画には、日本人のもつ根深いアンコンシャス・バイアスがかかりにくいのではないかと考えました。
 女流文学が古くから存在した日本ですから、女性には言語芸術の適性がないなどと主張して女性を排斥するような論は、おそらく江戸初期の俳諧発句成立時から存在しなかったのではないかと思います。しかし、座に迎え入れる人の性別は当然のように選別されたのではないでしょうか。さらに、歴史は男性が記録します。俳諧発句が記録されるようになった時代から、俳諧の座には女性枠があり、女性の作品が記録に残っていたことを喜ぶべきなのかどうかは、私には判断できません。子育て、家事労働、乳房、お産、そういったものを作家の特色とする観点を捨てたうえで江戸時代の女性俳人にどういう作品があったのか。機会があったらもっと鑑賞してみたいと思いました。
 わたしにも思いはあります。同じ思いの人がいることも知っています。私たちは連帯して世の中を変えていくことができるでしょうか。昔、詩には世の中を変える力があったと言いますが、今はどうでしょうか。