「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 森本 直樹

2019年01月20日 | 日記

 いきなりですが、高田獄舎さんという気になる俳句の書き手がいます。
 彼が出したネットプリント『LOVE』から好きな句をいくつか挙げます。

<font color="red">  挫傷する俺に妊婦微笑み藻のかなしみ
  万暗黒に聡明な蛾いて勃つ市民
  風なき私刑は黒ずむ腕で花火持ち</font>

 一句目、挫いた自分を見つめる妊婦の微笑みを感じた時に「<font color="red">藻のかなしみ</font>」が浮かぶ。藻のかなしみとは何か、そこで一度立ち止まってしまう。
 藻のような、藻ほどのといった意味でとった時、そのかなしみは漂うような行き場のない感情のようにも見えてくる。あるいは、藻そのものに感情があるのかはよく分からず、このかなしみも最初から無かったもので、挫いてしまった瞬間に感じた妊婦の視線に対する一つのポーズだったのかもしれない。
 二句目。万暗黒という造語の力強さを下支えに世界観が確立されている。種によっては美しいとされ、種によっては醜いとされ、光に寄せられる蛾。愚かさや無謀さの比喩に使われ、気が付けば死んでいる。そんな蛾を聡明といってみせる皮肉が面白い。対して市民は勃つ。原始的な欲求である性欲に支配され、勃起している男たちの姿が浮かぶ。
 三句目。この黒ずむ腕は私刑による暴力の痣なのか、もしかしたら花火による火傷跡かもしれない。手に持った花火に照らされる腕の黒ずみが夜の闇に浮かぶ様。風がなくて汗が滲んでいるだろう、ひりひりする情景が描かれる。

 獄舎さんの俳句に宿るエネルギーのことを考えてしまう。屈折した自意識や感情の詰め込み。力技のような名詞の多用。その詰め込みと、定型をあえて破ってでも自分の言葉を俳句として提示する行為とがうまく結びついているのか。など、大変魅力的だ。
 獄舎さんの俳句はを野球に例えるなら、ホームラン狙いというよりもあくまで自分の理想のフルスイングを追求しているような気もする。その詠みぶりが気持ちいい。 

<font color="red">  音楽のような苺の丘に馬のみ錆び</font>

 メルヘンな世界だ。メリーゴーランドを想像した。しかし人と最も触れ合ったであろう馬だけが錆びてしまっている。人の気配は全くしない。一気に不気味さを帯びてくる。


俳句時評 第105回 夏井いつき登場――「牧鮮集」繙読 堀下翔

2019年01月06日 | 日記

先年末、俳句には毫も興味を示さない高校生の妹から珍しくLINEが来たかと思えば、「夏井先生経由で嵐と知り合えるのでは?」という問い合わせであった。詳しく聞けば夏井いつきが第六九回紅白歌合戦の審査員に選出された由。アラシックたる妹にとり、兄→夏井先生→嵐という回路の開通は椿事だったのである。

 

閑話休題、夏井いつきが紅白の審査員になったのには驚かされた。私の管見だと、紅白歌合戦の審査員を俳人が務める例は一九七二年、第二三回の中村汀女以来である(なお汀女は一九六〇年の第一一回にも出演している)。一九七二年といえば、レコ大では小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」が大本命と思われていた中、どんでん返しでちあきなおみの「喝采」が獲得した年で、レコ大では号泣して声も途切れがちだったちあきは、その直後に駆けつた紅白では立派に歌い上げていた。NHKアーカイブスに通い詰めてこれを見た私は一九九五年に生まれたことを悔いてやまなかった。月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。ちょっと違うか。

 

TBSのテレビ番組「プレバト!!」において夏井が芸能人の俳句を添削するコーナーに人気が生じ、番組の人気を、そして夏井の属人的人気を越境した俳句ブームが招来されているのは読者諸氏もご存じのところであろう。夏井が同番組に初出演したのは二〇一三年のことだから、思えば近来の俳句ブームもずいぶん長いことになる。日本テレビの「ヒルナンデス」は髙柳克弘と芸能人が吟行するコーナーをいっとき設けていて、これは露骨に柳の下の二匹目の泥鰌狙いという趣きだったけれども、私などに言わせれば、たまたま出演した桐谷美玲が俳句を詠んでいるだけで嬉しいというものではないか。もし私が俳句などに手を染めていない桐谷美玲のファンだったら、ヘェよくわかんないけど、俳句ってのを桐谷美玲も詠むんだネと心の片隅で面白がること必定である。むろん、もっと具体的に俳壇の未来に資するケース、たとえば「プレバト!!」を見て近所の結社に入りました、みたいなことも起こっているわけだけれども、夏井のいうところの「チーム裾野」の射程は、一生涯に一句だに持たぬ人々をも含んでいるはずである(ま、その話をすると、国語教育や町おこしの視点を導入する必要が出てきて、長くなりそうだから、今回はこのへんにしてそろそろ本題)。

 

それにしても、自省するに、夏井について語ろうとするとこういうふうに妙に俗っぽいところから切り出さざるを得なくなるのはどうにかならないものか。夏井も俳人なら私も俳人なのである。数冊ある句集の読者も多かろう。しかるに、夏井に言及しようとすると、本稿よろしく、総合誌や結社誌でも、話題は「プレバト!!」であり「俳句甲子園」(夏井の発案)なのである。そりゃそっちで有名なんだからそうなるのはそうなんだけれど、なんかこう、夏井先生のこと、もっと知りたくないですか? 

 

そもそも夏井いつきとはどこから来たのか。いきなり「俳句甲子園」を作ったわけでもいきなり「プレバト!!」に出たわけでもないでしょう。今回は、その話をしたいのである。

 

 

結論からいうと、夏井いつきは黒田杏子の弟子である。まあこれくらいなら、熱心なファンは知っている。では、もっと細かく書こう。夏井いつきは、「俳句とエッセイ」の黒田杏子選句欄「牧鮮集」の投句者である。

 

 

かつて牧羊社が発行していた「俳句とエッセイ」という総合誌があった。編集発行人は川島寿美子。一九七三年五月創刊。この頃の総合誌は「俳句研究」と「俳句」の二つきりで、現行の「俳句四季」「俳壇」「俳句あるふぁ」が創刊されるのはそれぞれ一九八四年、一九八五年、一九九二年である。「俳句とエッセイ」の特色はその名の通りエッセイに注力している点で、俳人のみならず鱒二など文壇人も寄稿していた。もう一点の特色は投句欄(「作品」と称するページ)で、創刊時の選者は永井龍男。一九七三年五月号(創刊号)に見える永井の「選評」によると、もともと永井が選者をしていた「銀座百点」の投句者が増大し、誌面が足りなくなったために移籍したという事情らしい。「銀座百点」の投句者層が俳句の専門雑誌である「俳句とエッセイ」に実際どれほど移行したのか厳密にはまだ調査できていないのだが、おおらかな時代を感じさせる面白い話ではないか。なお付言すると、『現代俳句大事典』(三省堂、二〇〇五)の「俳句とエッセイ」の項目(片山由美子執筆)に「雑詠欄を設けたのも新しい試み」とあるのは不審。先行する「俳句研究」や「俳句」にも読者投稿欄(=雑詠欄)は存在する。片山の「新しい試み」のニュアンスはそういうことじゃないのかもしれないので何とも言えないが。

 

その後、同欄は鷲谷七菜子・鷹羽狩行が選をする「牧羊集」となる。現存する挟み込み葉書を見る限り、共選ではなく、意中の選者に五句を投句する形式となっている。この「牧羊集」は一九八四年八月号より狩行が退き上田五千石に交代。同時に「牧鮮集」と称する欄が新設され、これには黒田杏子が当たった。二つの欄の性質については特に誌上に説明が見当たらない。黒田はのちにエッセイ「選句する」(藤田湘子編『俳句への出発』角川書店、一九九六所収)において「相対的に若い人が私の選をめざして投句された」とし、またのちには「若い人、初心者のための投稿欄」(夏井いつき『伊月集』本阿弥書店、一九九九、序文)だったとも述べている。口吻がちょっと違う気もするが、いずれにせよ、投句者層が若かったのは事実である。「鮮」の字義に鑑みてもそうなるだろう。なお前出「選句する」によると投句者は八〇〇人近かったという。

 

ところで「俳句とエッセイ」が「若い人、初心者のための投稿欄」を設け、その選者に黒田を起用したのには、それに至る文脈があったと私は考えている。

 

一九八〇年代の「俳句とエッセイ」は、戦後生まれ作家、すなわち当時の若手作家を最も積極的に登用した俳句総合誌であった。戦後生まれ作家は一九六〇年代以降すでに各結社誌・同人誌に出現していたが、総合誌への登用は「俳句とエッセイ」が一九八〇年代頭に突如として毎号のごとくに西村和子、能村研三、和田耕三郎、長谷川櫂、田中裕明、大庭紫逢、藤原月彦、夏石番矢、西村陽子朗、三浦健龍、鎌倉佐弓、片山由美子、皆吉司といった作家――これはのちに小川軽舟が「昭和三十年世代」と命名する作家群とも重なるところが多い――を登場させるのを待たねばならなかった。牧羊社はさらに、一九八四年に〈処女句集シリーズ〉を、一九八五年に〈精鋭句集シリーズ〉を打ち出し、若手作家の句集を世に送り出した。同誌の誌上で彼らにはしばしば「青春」というレッテルが貼られていた(註1)。

 

実は、彼らの登場とほぼ同時に「俳句とエッセイ」において脚光を浴びていたのが一九三八年生まれの黒田杏子であった。黒田が第一句集『木の椅子』を牧羊社より刊行した一九八一年前後より、彼女は「俳句とエッセイ」の常連作家となった。一九八〇年代の同誌を読んでいると、それはもう、黒田杏子が出てくる(ついでにいうと、角川春樹もめちゃくちゃ出てくる。そういう時代があったのである)。

 

私は、厳密にいえば、黒田は前出の作家群とは異なる立ち位置にあったとみている。年齢的にやや上になるということもあり、誌面では、戦後生まれの若手とは別格に扱われている雰囲気がある。例えば一九八三年一〇月号の座談会「青春俳句の現在」においては黒田、西村、能村、和田が招聘されているが、黒田は司会として、後進の三人(註2)に話を投げかける役をおっている。そもそも本稿において八〇年代の若手ブームにおける「若手」を戦後生まれと定義づけているのは、「俳句とエッセイ」をはじめとするさまざまな雑誌に見える「若手」特集(註3)の人選を概観してみると、戦後生まれ(当時の三〇代)であることがその上限となっている場合がほとんどだからである。一連の企画の中で最も早く「若手」を定義づけた「俳句とエッセイ」一九八三年一〇月号の作品特集が「戦後生れの作家」と銘打たれていることは、その傍証となろう。

 

繰り返しになるが、若手ブームの渦中にお姉さん的存在として登場し、誌面を占めたのが、当時四〇代であった黒田杏子だった、ということである。こうしてみると、一九八四年に黒田が選者を務めた「牧鮮集」という投句欄の意味も推測できよう。そして事実、「牧鮮集」には若い作者が多く集まってきた。

 

一九九〇年代まで続く「牧鮮集」の投句者を見渡してみると、現在知られる作者がしばしば顔を出すことに驚かされる。大石雄鬼、守屋明俊、福永法弘、戸恒東人、広渡敬雄、飛岡光枝――。中国放送のアナウンサーで、近年では不幸にも冤罪事件の被害者としても知られる煙石博の名前があるのも興味深い。さらに特筆すべきは、山本けんゐち、三島風行(現・三島広志)、高浦銘子、藺草慶子、名取里美、高田正子、曽根新五郎、杉山久子ら、のち一九九〇年に黒田が創刊する「藍生」の会員となる者が、すでにして「牧鮮集」に投句している点である(註4)。当時黒田はすでに実力のある俳人であったが、結社人としては「夏草」の一員で、主宰誌は持っていなかった。黒田にとり初となる定期刊行物の選句欄が果たした役割は大きかったと想像される。

 

話の流れをお察しの向きも多かろうが、そう、夏井いつきもまた、「牧鮮集」の投句者だったのである。

 

 

「牧鮮集」の第一回にあたる一九八四年八月号にて、夏井はすでにして四席を取っている。

 

桜蘂降る午後に座す恋ひとつ 夏井いつき

春の水深きに落ちていそぎけり

春水のはるかに光りゆきて帯

はばたきて早春の空ゆくものの音

 

〈桜蘂降る午後に座す恋ひとつ〉は「座す」が終止形なので「桜蘂降る」は連体形、すなわち「桜蘂降る午後に座す」で一つのセンテンスになっていよう。桜の木の下に座って物思いにふけっている。心中を占めるのはただ一人の想い人のこと。「恋ひとつ」が独白のごとく唐突に下五に置かれているのが面白い。ただ、ふつう場所をいうことが多い「座す」の補語が「午後」という時間になっているのが多少読みにくくはあるか。〈春水のはるかに光りゆきて帯〉はゆく水の光りようが「帯」のようだといっている句だが、言葉足らずではある。「プレバト!!」の夏井先生ならどう直すだろうか。一九八四年八月、このとき夏井いつき二七歳である。

 

もっとも、素人の句では当然ない。第一句集『伊月集』(本阿弥書店、一九九九)に載る著者略歴には〈吉野義子「星」にまなぶ〉とある。吉野は松山の俳人だから何かしらの縁はあったのだろう。ただし「星」を今回の執筆に当たって読むことができなかったので、在籍期間は不明。余談だが吉野の父は小川尚義で、小川といえば帝大を卒業して松山に一時的に帰郷した折り、もとより親交のあった正岡子規に〈十年の汗を道後の温泉尓洗へ〉の句を贈られた人物である。この句はいま、道後温泉・椿の湯の男湯の湯釜に彫られているから、男性なら見たことのある方も多かろう。松山というのは本当に面白い土地である。

 

話が逸れてしまったが夏井の話である。若き日の夏井は、では、どうして黒田を知ったのだろう。ちょっとズルになるけれど、数ヶ月前に夏井と会ったときに、この話を振ってみた。曰く、本屋でたまたま黒田が載っている本を読み、「これだっ!」と叫んだ……とのことだった。以来黒田の熱心なファンになったらしい。

 

その夏井は、「牧鮮集」の第二回、一九八四年九月号にて、早々に巻頭を得ることになる。

 

乳を吸ふ吾子の全身雲の峰 夏井伊月(夏井の投句したすべての号のうちこの回のみ「夏井伊月」名義)

りんりんと乳房はる夜の夏薔薇

夏至の日のわれにふたつの乳房かな

乳房満ち夏あかつきとなりにけり

 

黒田はこのうち〈乳を吸ふ吾子の全身雲の峰〉を取り上げ、〈母親のみずみずしい情感が生命感あふれる詠法でアッピールしてくる。こういう青春の生の現場からのドキュメントもまた鮮らしい魅力だと思いました〉という選評を書いている。「青春」という当時の「俳句とエッセイ」のキーワードが見える点には注目したい。「青春」という言葉には、人生の春という語感が強くあるわけだが、結婚し、出産し、育児をするという、一つの社会的な営みを送る人間の人生が、ここでは「青春」と呼ばれている。実はこの時期、同じく育児生活の句を含む西村和子の第一句集『夏帽子』(牧羊社、一九八三)が「俳句とエッセイ」誌上においてしばしば「青春俳句」と評されていたのだが、西村と夏井の句に訪れたこうした事態は、極めて近い相似形を示していよう。黒田の当該選評は一九八〇年代の「俳句とエッセイ」が巻き起こした若手ブームにあって「青春」という言葉がどのように位置づけられていたのかを考えるよすがとなる一文である。文中に「鮮」という字が見えるのも、あながち偶然ではあるまい。

 

さておき、幸福なスタートを切った夏井は、こののち「牧鮮集」の常連投句者となる。平成二年四月号に至るまで、全一五七句が入選している。このうち巻頭は五回。一九八四年九月号、一九八六年二月号、一九八六年六月号、一九八七年一一月号、一九八八年一月号である。欠詠は八回。なお一九八六年八月号には「俳句とエッセイ」を二冊買って二組を投句した形跡がある。後世になってこんなことをねちねちと調べるファンが出現するとは夏井も想像しなかったろう。すみません。

 

 

全一五七句のうち、印象的な句を読んでいこう。

 

母となりてまぶしき夏野ひとりゆく 一九八四・一〇

 

巻頭を得た八四年九月号に引き続き、母となった自分を詠んでいる。この句で特徴的なのは、「母」という社会的な属性に作者が注目し、かつその属性が「まぶしき」という身体感覚と取り合わせられている点である。この構造は、その後、「男」という属性とその身体への注目という構造に交代する。

 

くらがりの男の前を踊り過ぐ 一九八四・一二

耳朶あつき男ねむれり首夏の家 一九八五・一〇

蚊帳深く男は棒のごと眠り 一九八五・一一

星月夜男の歩幅大きくて 一九八六・一

 

「くらがり」に姿まぎれる「男」、「耳朶あつき男」、「棒のごと眠」る「男」、「歩幅」の「大き」な「男」。

 

そして次に現れるのは「女」だ。

 

春一番女の髪を驚かす 一九八六・六(巻頭)

 

春一番に乱れるその長髪を「女の髪」と省略して描写しているわけだが、「女」という属性を援用することで省略が成立している点に夏井の鋭さがある。他に、

 

飛び板に女はゆれる夏の雲 一九八六・一〇

衿元にあざあるをんな菊花展 一九八八・二

 

という句もあるが、これらの「女」や、前出の「男」は、その属性への関心が、関心どまりになっている。俳句的表現の技術とその関心とが結びついている点で、〈春一番女の髪を驚かす〉が抜きんでているのではないだろうか。むろん、こうした属性が暗示するものが作者と読者の間で共有される世界とは、今日ではいささか大時代ではある。しかし当時の時代状況に鑑みると、遡及してとやかくすることは避けたい。少なくとも当時、こうしたまなざしのあり方に夏井の本領はあった。

 

一九八八年前後、夏井の作風は変化する。

 

ぼろぼろの駱駝は春の風の中 一九八八・八

頑固なる隣人愛せダリア咲く 一九八八・一〇

木のぼりのこの春の樹の瘤を愛す 一九八九・八

そんなにも飛ぶのが好きか濡燕 一九八九・九

秋蝶のしづかに狂ひはじめけり 一九九〇・三

 

など、発想や措辞のユニークさを好むようになるのだ。口語や句跨りを融通無碍に繰り出し、観念化をいとわない。空想の世界を愛する。のちの夏井は、

 

木枯を百年聞いてきた梟 『伊月集』(本阿弥書店、一九九九)

ふくろうに聞け快楽のことならば 『伊月集 梟』(マルコボ.コム、二〇〇六)

重力を離るるさびしさに蝶は 『蝶語』(マルコボ.コム、二〇一三)

 

といった作品を書くようになるが、その原型が「俳句とエッセイ」時代の後半にすでに見えるといってよい。動物がキャラクター化する作風にも通じあうものがある。

 

このような作品を残して夏井は、

 

枯蓮の葉の一枚の溺死せり 一九九〇年・四

冬鷗波荒ければ荒く飛び

 

を最後に、「俳句とエッセイ」の「牧鮮集」への投句を中止する。俳句から離れたのではもちろんない。一九九〇年という数字にピンと来た方もおれらよう。黒田杏子が主宰誌「藍生」を創刊した年である。夏井の第一句集『伊月集』に黒田が寄せた序文によると、夏井はかつて黒田に「先生がいつか主宰誌を持たれたら、いの一番で参加しますから、お願いします」と手紙を送ったことがあったという。

 

「藍生」創刊号である一九九〇年一〇月号の「藍生集」の二句欄に、夏井の名前がある。

 

虹の根の湖より生れ出づるかな 夏井いつき

殺めたる蛇ひからびてゆく真昼

 

こうして夏井は、黒田の「藍生」の投句者となったのである。その九年後、第一句集『伊月集』の「あとがき」に、夏井はこう書いている。

 

黒田杏子という俳人を知り、その人になりたいと願い、なれないことに愕然とし、そこから新しい自分を見つけるまでに一九年が過ぎた。そんな三十代までの私の格闘をまとめた三百三十句は、すでに懐しいものとして、いま、目の前にある。

 

思えば私は目を皿のようにして「牧鮮集」に現れる夏井の「格闘」を見たことになる。むろん、黒田の作品と照らしてみれば、もっとわかることは多かろう。この文章は、基礎調査の報告である。加うるに、一九年という数字からすると、「牧鮮集」よりずっと前から夏井は黒田を見ていたことになる。私の今回の調査では、これが限界。夏井の「登場」をもっと知りたい。いずれ、本人に聞いてみよう。

 

いま、夏井があちこちに持っている選句欄への投句者にも、夏井が黒田に抱いていたのと同じ思いでいる者がいるかもしれない。楽しみだ。

 

 

『伊月集』を読むうち、次の句を見つけて私はニッコリとしてしまった。

 

秋の蝶じわじわ狂ひはじめたる

 

これは「牧鮮集」一九九〇年三月号に載った〈秋蝶のしづかに狂ひはじめけり〉の改作。なるほど「しづかに」よりは「じわじわ」の方が面白い。推敲か、はたまた黒田の手が入ったのか。誰か私以上の物好きがいれば、『伊月集』の全三三〇句の初出を特定してみてくだされ。きっと「格闘」の痕跡が見えてくるはずだ(註5)(註6)。

 

(了)

 

(註1)もっともはやい例は一九八三年六月号の特集「俳句と青春性」で、執筆者として西村と和田が起用されている。牧羊社が創出した若手ブームによって登場した作家群に関わる評論を複数収める小林恭二『実用青春俳句講座』(福武書店、一九八八)が「青春」を冠しているのも注目に値する。ただしこれは小林の大学俳句会時代を回想したエッセイから採られた題なので厳密には意味合いが異なる。

(註2)この三人は直前に牧羊社から句集を刊行している。

(註3)挙げたらきりがない。当時の総合誌を読んでみてください。

(註4)ただしすでに「夏草」に入会していた者も多い。このへん、青邨と黒田に関わる人脈が複雑に絡んでいるので、黒田と投句者それぞれの関係の精査は断念した。夏井のごとく一対一の指導関係を求めて投句していた者ばかりではない可能性が想像されることを付言しておく。

(註5)なんだかいい話で終わったところで恐縮だが、個人的な好みを言えば、夏井作品自体は、今回は取り上げられなかった句に好きなものが多い。『伊月集』が収める〈幻聴やたかみにくらき桐の花〉〈桐は天のあをさに冷ゆる花なりき〉〈てのひらに桐の一花のおほきかり〉〈夢に桐の花房たをらむと走る〉などは、「牧鮮集」には見えないが「藍生」創刊以後の句だろうか? 空想の世界にスケールと格調が加わっていて、とても好きだ。いずれ別の場所に書きたい。

(註6)夏井さん、古いものを引っ張り出してスミマセン。

 

■堀下翔 ほりした・かける

一九九五年、北海道生まれ。二〇一四年、第六回石田波郷新人賞。二〇一八年、第五回芝不器男俳句新人賞にて対馬康子奨励賞 。「里」「群青」同人。つくば市在住。佐藤文香編『天の川銀河発電所』入集。