句集を読むということをやってみようかと思っている。
個人の句集を原本で通して読んだことが一度もなかった。
句集(や歌集)という本を読むというのは、読書とは違うことのように思える。たいてい1行で1つの作品が等間隔で並んでいて、頭から順に読んでいくことを強制はしてこない、順に読んでいくことをうながさない、というか、そのような読み方にとっては単調でこたえてくる、といった感じか。この禁欲的で単調な「つくり」、俳句の提示のされ方に、「たまらないもの」を感じる。
句そのものは、やはりそれで1つの作品である。たとえば、ランダムに配置されているようなレイアウトの句集があったとしたら、それは、句の鑑賞のさまたげになる(気がする)。等間隔の単調さというのは、一つ一つの句の一本立ちを成り立たせるため、といっていい。といっても、句集において、いくつもの句が並んでいることに、並んでいる以上の意味がないわけではない。句集というものは、普通の意味での「構成」が作りづらい。それでも、さすがに全体がただ等間隔の句の集まりだととりつくしまがないということなのだろうか、いくつかのパートにわかれていることが多いような気がする。しかし、この句の次にこれが来て次にこれとか、部分的にはやるだろうが、全体にわたって考え出したら、たちまち行きづまるかもしれない。
いま読もうとしているのは、石田波郷『雨覆』(七洋社、1948年3月25日)である。
読み出して、読む前にも、つまずいたのは、読めない字が多いということだ。
タイトルからして、「あまおおい」「あめおおい」「うふく」、どう読むのだろう。後記に、「雨覆は風切羽に接して主翼を構成する鳥の羽の名である」とある。いい感じの造語ということも最初は少し思って後記を読んで違ったのだけど、この語はどうなのかわからないが、日常生活ではあまり使わない語で、俳句近辺では使われる、季語とは限らない、雅語とかいうのもふくまれるのかしらないけど、ちょっとかっこいい感じの非情なことばの一つなのだろうか。むずかしいというか、こういう「語」だけですでにちょっとかっこいいようなものって、かっこいいと思って使ってしまっていいものかどうか、判断できるところにまでまだ踏み入っていない。
「雨覆」に関していえば、塚本邦雄『百句燦燦――現代俳諧頌』で、「あまおほひ」とルビが振ってあった。何を根拠にしているのかわからないが、「雨覆」は、普通に議論の余地なく「あまおおい」だということなのかもしれない。『百句燦燦』には、石田波郷の句が3句取られているが、どれも『雨覆』からのものなのが気になる。本文のほうでは、石田波郷のほかの句集にもふれられているが。『雨覆』という句集が、石田波郷にとってどんな位置にあるのか、また、俳句の歴史にとってどんな意味を持つのか知らないので、余計に気になるかたよりである。
『雨覆』は石田波郷の戦後最初の句集なのだろうか。収録作品は、「昭和二十年夏より二十二年秋まで」と、これも後記にある。
2
「雨覆」という語をいったんわかった気にはなったが、辞書的にわかっただけというのは、違う気がしてきた。ネットで調べると、図解しているのがある(画像検索してみると、気持ちがわるい)。そこで出ている鳥の羽は、ことばだけで説明するのがなかなかむずかしい。片翼は縦に大きく三つの部分に分かれている。そのうち、外側が横に三つの部分、中側が横に四つの部分、内側が二つの部分に分かれているようだ。この、それぞれに横に分けたときの、一番下に来る羽を「風切」というらしい。外側の風切が「初列風切」、中側が「次列風切」、内側が「三列風切」である。石田波郷が書いているように、その一つ上のラインが「雨覆」といっていいのだが、もう少しめんどうくさいようだ。「初列風切」の上は「初列雨覆」でわかりやすいのだが、四つに分けられる中側の「次列風切」の上三段が、下から順に「大雨覆」「中雨覆」「小雨覆」と全部「雨覆」の名前がついている。それで、今名前を挙げなかった、外側の一番上は「小翼羽」、内側の一番上は「肩羽」ということになっている。つまり、「雨覆」という範囲がさすのは、外側の下から二段目、中側の下から二、三、四段目ということになる。ただし、これは、ネットでたまたま見た、その画像だけを見て書いたものであるから、鳥というものがすべてそうだとはとても思われない(一度絵を描いてみるとおぼえやすい)。
この「覆」という文字は、他の羽(それぞれその下に来る羽)にかぶさるようになっている、気流の流れをスムーズにする働きをしているらしい。
これらはどのくらいの人に知られていることなのだろうか。手もとの中学生用の『スーパー理科事典 改訂版』(恩藤知典編著、受験研究社、1998)にはそこまでくわしくは出ていなかった(これはこの時期の中学生に対応したもので、ぼくが中学生のときや現在とは違う可能性がある。それにしても、この本の奥付には刊行年月日が書いていない(著作権の取得年?は1998年)。前書きに、1998年10月に改訂したとある。学習指導要領に対応して、かどうかわからないが、1985年生まれ以降が使うものと想定できるかもしれない)。
3
この本をほとんど退屈せずに読んだ。「焼跡」などが出てくる句にあらいところを少し感じたように思うが、全体に「張り」がある。
最初の句は「口に出てわが足いそぐ初しぐれ」である。いきなりに、よくわからない。「口に出て」というのをどうとらえたらいいのか。意味として考えると、どこかの出口に出たということか。建物の出口とか改札口とか。その線で考えた場合、「口」とだけいってしまっているところに、具体性の余計な部分だけを剥ぎとって、むきだしになった、抽象一歩手前の具体性のたねのようなものを感じる。そしてそれは、「に出てわが足いそぐ」と、アクションにつながっていて、「初しぐれ」の情景へと転じる。切れていながら、「初しぐれ」へとぶつかった、気づいた、という動きになっている。
「口に出て」、と、入口とも出口とも具体的なものと明示されない「口」は、句集の巻頭に置かれることで、新しい場所に出た、というふくみを強くしている。そのための、何ものともつかない「口」というふうに。
新しい場所に出た、がそれは何かがはじまって解放されたとまでののびのびしたものではない。何かわからないが、足はいそいでいる。少し緊張感が走っている。そこへ「初しぐれ」のつめたさ。句の力の動きとしていうなら、足、ようするに人、主人公というかわれというか、にこもらされていた理由の書かれないあせりが、「初しぐれ」という場所に拡散している。
また、「口」が人間の身体の部位も示す語であることが、そのあとに出てくる「足」への接続の中で、奇妙なつながり方、ありえない動きを作りだしている(以下に述べる、「おかしな解釈」かもしれないものを、ぼくにもたらした)。
この句がどのように鑑賞されるのが一般的なのかわからない。
以上書いたものは、読み返してみて、いま思いついたことを書いたのだが、一読目に思ったことを思い出すと、「口に出」たものが「初しぐれ」、というような解釈である。そんなふうに読む人がいるのかどうかしらないが、「初しぐれ」が「口に出てわが足いそぐ」ということだったのか。どうもそうとばかりはいえない気がする。自分の中のかすかな納得を説明するのもむずかしいのだが、単に「擬人化」ということとはちがっていた。「口に出て」ということから、「ことば」が含意されているものと思った。目の部分が消された人のような「口」からなにやら熱心なことばがしゃべられたという感じである。つじつまが合わないようなことにもなるだろうが、「口に出て」と「わが足いそぐ」と「初しぐれ」がそれぞれ切れてくっつけられているというふうに読んで変に面白かったというのが一つ。
そのあとに、「初しぐれ」が「口に出てわが足いそぐ」、がよぎったような気がする。「初しぐれ」というのがあまり自分の中でどういうものかイメージできていなかったからかもしれない。しゃべるときに出る泡のようなものとして思ったのかもしれない。これはおそらく、大根おろしを「しぐれ」ということがあるというイメージが重なったものと見える。
これらが、ある程度自然に導かれがちな読みかたなのか、ぼくの頭がおかしいのかどうかも、よくわからない。
筋のとおらない納得をする。いや、納得しているのでも、解釈しているのでもない。不安なところで意味が結んでいるのがたのしいのだ。一人勝手にそうしているわけではない、作品がそうさせている、と一応思っておきたい。
個人の句集を原本で通して読んだことが一度もなかった。
句集(や歌集)という本を読むというのは、読書とは違うことのように思える。たいてい1行で1つの作品が等間隔で並んでいて、頭から順に読んでいくことを強制はしてこない、順に読んでいくことをうながさない、というか、そのような読み方にとっては単調でこたえてくる、といった感じか。この禁欲的で単調な「つくり」、俳句の提示のされ方に、「たまらないもの」を感じる。
句そのものは、やはりそれで1つの作品である。たとえば、ランダムに配置されているようなレイアウトの句集があったとしたら、それは、句の鑑賞のさまたげになる(気がする)。等間隔の単調さというのは、一つ一つの句の一本立ちを成り立たせるため、といっていい。といっても、句集において、いくつもの句が並んでいることに、並んでいる以上の意味がないわけではない。句集というものは、普通の意味での「構成」が作りづらい。それでも、さすがに全体がただ等間隔の句の集まりだととりつくしまがないということなのだろうか、いくつかのパートにわかれていることが多いような気がする。しかし、この句の次にこれが来て次にこれとか、部分的にはやるだろうが、全体にわたって考え出したら、たちまち行きづまるかもしれない。
いま読もうとしているのは、石田波郷『雨覆』(七洋社、1948年3月25日)である。
読み出して、読む前にも、つまずいたのは、読めない字が多いということだ。
タイトルからして、「あまおおい」「あめおおい」「うふく」、どう読むのだろう。後記に、「雨覆は風切羽に接して主翼を構成する鳥の羽の名である」とある。いい感じの造語ということも最初は少し思って後記を読んで違ったのだけど、この語はどうなのかわからないが、日常生活ではあまり使わない語で、俳句近辺では使われる、季語とは限らない、雅語とかいうのもふくまれるのかしらないけど、ちょっとかっこいい感じの非情なことばの一つなのだろうか。むずかしいというか、こういう「語」だけですでにちょっとかっこいいようなものって、かっこいいと思って使ってしまっていいものかどうか、判断できるところにまでまだ踏み入っていない。
「雨覆」に関していえば、塚本邦雄『百句燦燦――現代俳諧頌』で、「あまおほひ」とルビが振ってあった。何を根拠にしているのかわからないが、「雨覆」は、普通に議論の余地なく「あまおおい」だということなのかもしれない。『百句燦燦』には、石田波郷の句が3句取られているが、どれも『雨覆』からのものなのが気になる。本文のほうでは、石田波郷のほかの句集にもふれられているが。『雨覆』という句集が、石田波郷にとってどんな位置にあるのか、また、俳句の歴史にとってどんな意味を持つのか知らないので、余計に気になるかたよりである。
『雨覆』は石田波郷の戦後最初の句集なのだろうか。収録作品は、「昭和二十年夏より二十二年秋まで」と、これも後記にある。
2
「雨覆」という語をいったんわかった気にはなったが、辞書的にわかっただけというのは、違う気がしてきた。ネットで調べると、図解しているのがある(画像検索してみると、気持ちがわるい)。そこで出ている鳥の羽は、ことばだけで説明するのがなかなかむずかしい。片翼は縦に大きく三つの部分に分かれている。そのうち、外側が横に三つの部分、中側が横に四つの部分、内側が二つの部分に分かれているようだ。この、それぞれに横に分けたときの、一番下に来る羽を「風切」というらしい。外側の風切が「初列風切」、中側が「次列風切」、内側が「三列風切」である。石田波郷が書いているように、その一つ上のラインが「雨覆」といっていいのだが、もう少しめんどうくさいようだ。「初列風切」の上は「初列雨覆」でわかりやすいのだが、四つに分けられる中側の「次列風切」の上三段が、下から順に「大雨覆」「中雨覆」「小雨覆」と全部「雨覆」の名前がついている。それで、今名前を挙げなかった、外側の一番上は「小翼羽」、内側の一番上は「肩羽」ということになっている。つまり、「雨覆」という範囲がさすのは、外側の下から二段目、中側の下から二、三、四段目ということになる。ただし、これは、ネットでたまたま見た、その画像だけを見て書いたものであるから、鳥というものがすべてそうだとはとても思われない(一度絵を描いてみるとおぼえやすい)。
この「覆」という文字は、他の羽(それぞれその下に来る羽)にかぶさるようになっている、気流の流れをスムーズにする働きをしているらしい。
これらはどのくらいの人に知られていることなのだろうか。手もとの中学生用の『スーパー理科事典 改訂版』(恩藤知典編著、受験研究社、1998)にはそこまでくわしくは出ていなかった(これはこの時期の中学生に対応したもので、ぼくが中学生のときや現在とは違う可能性がある。それにしても、この本の奥付には刊行年月日が書いていない(著作権の取得年?は1998年)。前書きに、1998年10月に改訂したとある。学習指導要領に対応して、かどうかわからないが、1985年生まれ以降が使うものと想定できるかもしれない)。
3
この本をほとんど退屈せずに読んだ。「焼跡」などが出てくる句にあらいところを少し感じたように思うが、全体に「張り」がある。
最初の句は「口に出てわが足いそぐ初しぐれ」である。いきなりに、よくわからない。「口に出て」というのをどうとらえたらいいのか。意味として考えると、どこかの出口に出たということか。建物の出口とか改札口とか。その線で考えた場合、「口」とだけいってしまっているところに、具体性の余計な部分だけを剥ぎとって、むきだしになった、抽象一歩手前の具体性のたねのようなものを感じる。そしてそれは、「に出てわが足いそぐ」と、アクションにつながっていて、「初しぐれ」の情景へと転じる。切れていながら、「初しぐれ」へとぶつかった、気づいた、という動きになっている。
「口に出て」、と、入口とも出口とも具体的なものと明示されない「口」は、句集の巻頭に置かれることで、新しい場所に出た、というふくみを強くしている。そのための、何ものともつかない「口」というふうに。
新しい場所に出た、がそれは何かがはじまって解放されたとまでののびのびしたものではない。何かわからないが、足はいそいでいる。少し緊張感が走っている。そこへ「初しぐれ」のつめたさ。句の力の動きとしていうなら、足、ようするに人、主人公というかわれというか、にこもらされていた理由の書かれないあせりが、「初しぐれ」という場所に拡散している。
また、「口」が人間の身体の部位も示す語であることが、そのあとに出てくる「足」への接続の中で、奇妙なつながり方、ありえない動きを作りだしている(以下に述べる、「おかしな解釈」かもしれないものを、ぼくにもたらした)。
この句がどのように鑑賞されるのが一般的なのかわからない。
以上書いたものは、読み返してみて、いま思いついたことを書いたのだが、一読目に思ったことを思い出すと、「口に出」たものが「初しぐれ」、というような解釈である。そんなふうに読む人がいるのかどうかしらないが、「初しぐれ」が「口に出てわが足いそぐ」ということだったのか。どうもそうとばかりはいえない気がする。自分の中のかすかな納得を説明するのもむずかしいのだが、単に「擬人化」ということとはちがっていた。「口に出て」ということから、「ことば」が含意されているものと思った。目の部分が消された人のような「口」からなにやら熱心なことばがしゃべられたという感じである。つじつまが合わないようなことにもなるだろうが、「口に出て」と「わが足いそぐ」と「初しぐれ」がそれぞれ切れてくっつけられているというふうに読んで変に面白かったというのが一つ。
そのあとに、「初しぐれ」が「口に出てわが足いそぐ」、がよぎったような気がする。「初しぐれ」というのがあまり自分の中でどういうものかイメージできていなかったからかもしれない。しゃべるときに出る泡のようなものとして思ったのかもしれない。これはおそらく、大根おろしを「しぐれ」ということがあるというイメージが重なったものと見える。
これらが、ある程度自然に導かれがちな読みかたなのか、ぼくの頭がおかしいのかどうかも、よくわからない。
筋のとおらない納得をする。いや、納得しているのでも、解釈しているのでもない。不安なところで意味が結んでいるのがたのしいのだ。一人勝手にそうしているわけではない、作品がそうさせている、と一応思っておきたい。