自由律俳句を主に楽しむ人間がこちらに寄稿させていただくのは珍しい、とお聞きした。若干緊張しながら、現在の自由律俳句界隈の様子と、自分が思う自由律俳句の楽しみ方、未来展望をご紹介していきたいと思う。
■自由律とSNS■
本当にそれらを自由律俳句と呼ぶかどうかは別として、最近の自由律俳句横丁において、SNSでの活動を無視するわけにはいかない。もちろんボリュームは定型俳句の比ではないと思うが、それでも、Twitterでは#自由律俳句または#自由律のタグで1時間に10以上の句が投稿され、週末・連休には兼題で、写俳で、かるた製作委員会で、など数々の投句イベントがひしめきあう。
特に又吉・せきしろ氏の影響は絶大で、句集もベストセラーになり、彼らをメンターとするような”新たな層“がTwitter・NOTEなどに続々自作の句を発表している。
新しい層=今まで句であれなんであれ、自分が俳句を詠むなんて思いもしなかった人が今日から詠み始める。とても良いことで、若干古くなっている僕の頭に刺激を与えてくれる。
しかし、実際には「自由律俳句」に対する意識はいろいろ。特にSNSで発表している新しい層の自由律俳句の「定義」はどんなものなんだろう、とちょっと不安を感じている。例えば、下の図のように、なにか括りがあるのではなく、詩歌のなかで定型でもなければ川柳でもない、自由なのが自由律、そう思われてたら、逆にどう説明しようかと思っている(質問されてもいないが)。
■自由律とは■
さて、「自由律とは」の答えのよりどころのひとつ、結社。実は、といってもバレていると思うが、自由律俳句の結社は少ない。高齢化も進み、数年前に先輩俳人にきいたところ、結社に限れば40弱程度ではないかということだった。
※ここでの「結社」は、定期的に句会を持ち、定期的にあるいはたまに句誌をだすようなものを言う。
「自由律俳句協会」が満を持して発足した。個人会員は増えているが、登録結社はまだまだ少ないそうである。10人程度の句会は(世間には)かなりあるようなので、もっと体系化して、協会に属して、というところまでは進まない、望まない、ということなのかもしれない。
歴史的には、河東碧梧桐(海紅・三昧)、中塚一碧楼(海紅)、荻原井泉水(層雲)、尾崎放哉・種田山頭火の世代に全盛期が訪れ、一般にドーンと広まり、戦争を乗り越え、次の世代に引き継がれた。今でも、海紅系、層雲系、感動律系の結社は残っているが、結社間はもちろん句会の中でも「自由律俳句とは」という定義がきっちりしているところもあれば、自由に任せてふわっとしているところも。いろいろだ。
■そうはいっても韻文でしょう■
例えば、「自由律俳句は韻文かどうか」。結社の外でも中でも主張はバラバラだ。このあと具体的に、「自由な韻律の楽しさ」を紹介するつもりであるが、同じような内容の話を、自由律俳句協会のシンポジウムの基調講演を頼まれた際にしたところ、反応は全否定・考えたことが無かった・なるほど腑に落ちた、まで様々だった。
僕は、いやいやいやいや散文じゃないし韻文でしょ?の立場である。リズムや音を自分なりに組みあげてあーでもないこうでもないと詠んでみたくて自由律俳句を始めたんじゃないの?の立場である。スッキリとした良いリズム。だらだらタラタラしているのになぜか惹き込まれる韻。自由に選択して作っていくのが自由律の魅力のひとつ、個人的には最大の魅力ではないかと思っている。
■韻と律の楽しさ■
ここからは自由律は韻文である前提で「自分で作る韻律の楽しさ」について、具体的に作品とともにご紹介する。まず「韻律」について、「韻」と「律」それぞれに分けるとしよう。
★韻
まずは韻。 ここでは韻を「言葉の音声的な響き」あるいは「言葉の意味の調べ」とする。
「言葉の音声的な響き」母音子音など日本語を構成する最小単位「単音」のうち、一定の 単音の含有率がはたらいている作品例だ。
(岩渕幸弘)
あくびとろとろココアのほとり
a ku bi to ro to ro ko ko a no ho to ri
―14音中母音 oが9音で 64%、同時に言葉どうしの意味の共鳴も感じる。 「あくびとろとろ」の場景と「ココアのほとり」、ココアにほとりがあるとの心象による情景の描写 を組み合わせている(取り合わせ)。発音しただけでわかっていただけると思う。
次は、本人は無意識かもしれないが、頭韻脚韻など、押韻の効果、ラップでいえばライム。の素晴らしい作品例。
(梶原由紀)
影よ春は輝く
ka ge yo ha ru wa ka ga ya ku
―10音中a母音が6個で60%、同時に頭韻も踏んでいる。母音揃えと押韻の組み合わせである。
「言葉の意味の調べ」は手前味噌の作例を示す。言葉の取り合わせ、相乗効果を狙いつつ、リズムも意識している(笑)。
(石川聡)
引き波足うら砂時計
★律
次に律。リズムである。音数の組み合わせである。昭和の俳人の例を示す。
(山崎多加士)
ぴあのひとりでに鳴らないかそれも冬の日のひくいおん
―3+5+5+3+5+5 3音と5音の組み合わせ。こちらの例も含め、ああリズムがよいなぁ、と思うところには奇数音あり。
(関口父草)
山に山のかげが冬
―声にだすとリズムがいいなぁと感じる。定型は5+7+5を基本とするが、結局はその音数を「リズムがよい」と染みついた和の心がそう感じているのかもしれない。 次はミュージシャン俳人の新人の時の作品。
(大迫秀雪)
焼きそば焼く人詰める売る人買う人食べる人
―宣伝のコピーなどでもこういったリズムは多いと思う。定型俳句の資料の受け売りなどころもあるが、休符を含めてタタタタ・タタタタ・タタタタ・タ(ヤスミ)とやっぱり奇数+休符の四拍子を「リズムがよい」と感じているのではないかと思う作例である。
最後は感動律系の俳人からである。
(三好草一)
鳥もけものも来ない雪に雪がさらに雪ふり
―3+4+3+3+3+4 雪、がなんども助詞や助動詞を変えて登場するが、軽快でありながら考え抜かれた律を感じる。3音がこんこんと降り続く様を、最後の七音に着地感。
以上、詩因(テーマや題材)に絡んで韻律が自在に組み上げられるメカニズム的な楽しさを少しでも感じてもらえただろうか。
■「自由律」は止まらない■
■自由律とSNS■
本当にそれらを自由律俳句と呼ぶかどうかは別として、最近の自由律俳句横丁において、SNSでの活動を無視するわけにはいかない。もちろんボリュームは定型俳句の比ではないと思うが、それでも、Twitterでは#自由律俳句または#自由律のタグで1時間に10以上の句が投稿され、週末・連休には兼題で、写俳で、かるた製作委員会で、など数々の投句イベントがひしめきあう。
特に又吉・せきしろ氏の影響は絶大で、句集もベストセラーになり、彼らをメンターとするような”新たな層“がTwitter・NOTEなどに続々自作の句を発表している。
新しい層=今まで句であれなんであれ、自分が俳句を詠むなんて思いもしなかった人が今日から詠み始める。とても良いことで、若干古くなっている僕の頭に刺激を与えてくれる。
しかし、実際には「自由律俳句」に対する意識はいろいろ。特にSNSで発表している新しい層の自由律俳句の「定義」はどんなものなんだろう、とちょっと不安を感じている。例えば、下の図のように、なにか括りがあるのではなく、詩歌のなかで定型でもなければ川柳でもない、自由なのが自由律、そう思われてたら、逆にどう説明しようかと思っている(質問されてもいないが)。
■自由律とは■
さて、「自由律とは」の答えのよりどころのひとつ、結社。実は、といってもバレていると思うが、自由律俳句の結社は少ない。高齢化も進み、数年前に先輩俳人にきいたところ、結社に限れば40弱程度ではないかということだった。
※ここでの「結社」は、定期的に句会を持ち、定期的にあるいはたまに句誌をだすようなものを言う。
「自由律俳句協会」が満を持して発足した。個人会員は増えているが、登録結社はまだまだ少ないそうである。10人程度の句会は(世間には)かなりあるようなので、もっと体系化して、協会に属して、というところまでは進まない、望まない、ということなのかもしれない。
歴史的には、河東碧梧桐(海紅・三昧)、中塚一碧楼(海紅)、荻原井泉水(層雲)、尾崎放哉・種田山頭火の世代に全盛期が訪れ、一般にドーンと広まり、戦争を乗り越え、次の世代に引き継がれた。今でも、海紅系、層雲系、感動律系の結社は残っているが、結社間はもちろん句会の中でも「自由律俳句とは」という定義がきっちりしているところもあれば、自由に任せてふわっとしているところも。いろいろだ。
■そうはいっても韻文でしょう■
例えば、「自由律俳句は韻文かどうか」。結社の外でも中でも主張はバラバラだ。このあと具体的に、「自由な韻律の楽しさ」を紹介するつもりであるが、同じような内容の話を、自由律俳句協会のシンポジウムの基調講演を頼まれた際にしたところ、反応は全否定・考えたことが無かった・なるほど腑に落ちた、まで様々だった。
僕は、いやいやいやいや散文じゃないし韻文でしょ?の立場である。リズムや音を自分なりに組みあげてあーでもないこうでもないと詠んでみたくて自由律俳句を始めたんじゃないの?の立場である。スッキリとした良いリズム。だらだらタラタラしているのになぜか惹き込まれる韻。自由に選択して作っていくのが自由律の魅力のひとつ、個人的には最大の魅力ではないかと思っている。
■韻と律の楽しさ■
ここからは自由律は韻文である前提で「自分で作る韻律の楽しさ」について、具体的に作品とともにご紹介する。まず「韻律」について、「韻」と「律」それぞれに分けるとしよう。
★韻
まずは韻。 ここでは韻を「言葉の音声的な響き」あるいは「言葉の意味の調べ」とする。
「言葉の音声的な響き」母音子音など日本語を構成する最小単位「単音」のうち、一定の 単音の含有率がはたらいている作品例だ。
(岩渕幸弘)
あくびとろとろココアのほとり
a ku bi to ro to ro ko ko a no ho to ri
―14音中母音 oが9音で 64%、同時に言葉どうしの意味の共鳴も感じる。 「あくびとろとろ」の場景と「ココアのほとり」、ココアにほとりがあるとの心象による情景の描写 を組み合わせている(取り合わせ)。発音しただけでわかっていただけると思う。
次は、本人は無意識かもしれないが、頭韻脚韻など、押韻の効果、ラップでいえばライム。の素晴らしい作品例。
(梶原由紀)
影よ春は輝く
ka ge yo ha ru wa ka ga ya ku
―10音中a母音が6個で60%、同時に頭韻も踏んでいる。母音揃えと押韻の組み合わせである。
「言葉の意味の調べ」は手前味噌の作例を示す。言葉の取り合わせ、相乗効果を狙いつつ、リズムも意識している(笑)。
(石川聡)
引き波足うら砂時計
★律
次に律。リズムである。音数の組み合わせである。昭和の俳人の例を示す。
(山崎多加士)
ぴあのひとりでに鳴らないかそれも冬の日のひくいおん
―3+5+5+3+5+5 3音と5音の組み合わせ。こちらの例も含め、ああリズムがよいなぁ、と思うところには奇数音あり。
(関口父草)
山に山のかげが冬
―声にだすとリズムがいいなぁと感じる。定型は5+7+5を基本とするが、結局はその音数を「リズムがよい」と染みついた和の心がそう感じているのかもしれない。 次はミュージシャン俳人の新人の時の作品。
(大迫秀雪)
焼きそば焼く人詰める売る人買う人食べる人
―宣伝のコピーなどでもこういったリズムは多いと思う。定型俳句の資料の受け売りなどころもあるが、休符を含めてタタタタ・タタタタ・タタタタ・タ(ヤスミ)とやっぱり奇数+休符の四拍子を「リズムがよい」と感じているのではないかと思う作例である。
最後は感動律系の俳人からである。
(三好草一)
鳥もけものも来ない雪に雪がさらに雪ふり
―3+4+3+3+3+4 雪、がなんども助詞や助動詞を変えて登場するが、軽快でありながら考え抜かれた律を感じる。3音がこんこんと降り続く様を、最後の七音に着地感。
以上、詩因(テーマや題材)に絡んで韻律が自在に組み上げられるメカニズム的な楽しさを少しでも感じてもらえただろうか。
■「自由律」は止まらない■
ほんの10年前までは結社での活動のみが自由律俳人の表現の場だった。詠み溜めては句会に行き、評してもらい、句誌に載る。誰かに勧められて若くして句集を作ることもあるけれど、だいたいの方は晩年に一世一代のハードカバーを作る。今は全く違う。大喜利・書き出し小説・RAP・現代詩・短歌・定型・川柳などをSNSで楽しんでいいた人が、あるいは単に眺めていただけの人が、ある日突然ハッシュタグ「自由律俳句」をつけて発表するのだ。
約100年の歴史を持つ自由律俳句。そもそも人のやっていないモノを作りたくて当時の若者が始めたものだ。伝統に縛られるのは本意ではないだろう。すでに新しく太い潮流は生まれている。捨てられてしまった視点もリサイクルしながら、古い頭ももう一度楽しませたいと思う。
■おまけ■
最近自分が感じている「詩歌のベン図」だ。1年ほど前から川柳も楽しんでいるが、実はなんだかんだ重なってるのではないかと思う。ここにはいろんなバックグラウンドの方がいらっしゃるとお聞きしたので、うん、同感だ、いやいや違うだろう、などこの図をきっかけに詩歌のカテゴリの境界について楽しんでいただければ幸甚である。
石川聡 プロフィール
★1998年より自由律俳句結社「海紅」所属。
★自由律俳句協会会員(団体)
★2019年4月、初句集「ゆいしき ベータ版~石川聡自由律句抄 喩意式~」を発行。
★2018年に川柳結社「川柳スパイラル」入会(会員参加)