「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 俳句を見ました(6) 鈴木 一平

2016年03月01日 | 日記
 俳句の入門書的なものをいくつか買ったのですが、入門書は作例として載っている作品にいいものがあって助かります。『俳句技法入門』?という本に載っていた作品からひとつ。

 物置けばすぐ影添ひて冴返る 大野林火

 物の下に影が落ちている、という距離感に動きがあたえられていて、しかも、影そのものが意識を持って動いているかのような不穏さが、「すぐ」と「添う」によって強められているところがいいとおもいます。解説をすると同じ言葉を二回くり返すしかないような簡潔さが十七字のなかに収まり、作品を読む時間と作品の意味を了解する時間が一致してしまうぎりぎりのところで生まれる認識のだまのようなものが、影の輪郭を強める「冴返る」に送りつけられる手前でうごめいている感じ。影に対する注目が、影に注目する私を用意せずに完結できるところに、俳句の怪物的な力があるようにおもいます。
 話はずれますが、読んでいる時間とその意味を了解する時間が一致してしまう、という感覚は、作品に対して自分の取りうる動作があらかじめ先取りされているかのような感覚、経過していたはずの時間が宙に浮いたような感覚を引き起こしますが、言い換えればそれは、この作品を読んでいる時間が作品に還元できない、という感覚でもあります。写生のめざす方向のひとつである現在時の瞬間性は、作品の了解の成立の瞬間性である一方で、現在時がそれを生きる私の外にはどうしても記録できないものであるということが、意味するものと意味されるものとの一致(の感覚)によって成り立っている、といえます。写生とはこの襞のようにもたつく時間の還元できなさをとおして獲得される、俳句の外が準備する持続をこそ意味するのではないのではないか、とおもいます。
 攝津幸彦『攝津幸彦選集』を読んで、次の句に目が止まりました。

 「悔い改めよ」野鼠の夜が又来るぞ
 攝津幸彦

 俳句は、わりあい台詞と親和性がある媒体なのではないかとおもいます。括弧は地の文との時間および空間的な解離の指示を意味するところに由来し、「ここに収まっている私(言葉)は、そうでない言葉とは別のレベルに属する存在である」という指示を持っています。けれど、この間接性の提示は同時に、括弧で示される記述が引用という手続きを経由しながら、記述それ自体として表面化する、あらゆる言い換えを否定してあらわれる度外れな直接性の露出でもあります。「悔い改めよ」の、どこか笑えるようなハッタリを含んだ不気味さは、それがだれか(出典元)の声でありながら、だれの声かわからない(補足的な「野鼠の夜がまた来るぞ」という呼びかけは、せいぜい作中主体を仮構するとしても)、発話者をもたない声としてあるといえます。とはいえ、声は「それが声である」という認識さえあれば、特定の発話者を持たなくてもとりあえず声として解釈できるもので(だからこそ、だれもいないはずのところから声がするとこわい)、俳句もまた、ある記述が俳句として成立するためのルールに則ってさえいれば、とりあえず俳句として読めてしまえます。この論理を突いて、正体不明の「悔い改めよ」は、底が抜けたまま不気味に立ち上がってくる。だれの声かはわからないが、聞こえてしまった声である「悔い改めよ」とは、逆説的に神の声として定位されることになるのかもしれません。
 その他、「蛇が〈隠れて生きよ〉と人妻に」もよかったです。
『阿部完市句集』(砂子屋書房、1994年)所収の「あべかんの難解俳句入門」に、おもしろいなとおもった話がありました。

 実際に俳句を読む場合を考えてみる。「五七五」と一行に書かれている俳句を読み下すとき、一音をすべて同じ長さで読むことはまずない。(…)決して指折り数えて一歩一歩ーー音歩という言い方そのもののように読みすすむことはまずない。そして反対に「字足らずの句」「字余りの句」必ずしもつよく音の不足、過剰が意識されることなく五七五に読みおさめられるのである。「俳句に向けての音歩律、音数律」による読みは事実として絶対のものではない。(…)定型はこのようにかちんかちんの鉄製の容器ではなく、ゆるい「定型感」とでもいう一種の直感であって、少々の伸縮は可能あるいは許容されるのがその実態である。

 ここで、著者は「自分の読みあげる自分の作品」と「他人が読みあげる自分の作品」が異なる調子で読まれてしまうことにおどろいた、という歌人のエピソードを引っ張っていますが、それは定型であることが特定の音数であることを基準にしないということ、五七五のリズムは作品の内部に埋め込まれているものではなく、読み手と作品のあいだ、その間取りにおいて生み出されるものであることを意味します。つまり、リズムは客観的な相関物を持ってはおらず、おなじ作品から異なる調子がいくらでも出てくる可能性があるということであり(蕪村「遠近をちこちとうつきぬた哉」とか)、それは単に複数の読みを可能にする向きがある一方で、あるひとつの作品がひとつの作品として読まれる機会を持てなくなる、ということでもあります。制作の過程において作品をつくる上でその基調になっていたリズムが、他にもありえたバリエーションのうちのひとつとして、反転してしまうこともあるのでしょう。すぐれた作品が正しく暗記されずに覚えられてしまうとき、それは読み手の記憶力の問題なのかどうか。
 考えてみると、定型が一定の柔軟性を持ち、著者の作品「しら帆百上げる十一月末日の仕事」が五七五として読まれうるのであれば、逆にまっとうに五七五で分かれるように書かれた作品でも、定型としては不十分なものでありえるという話になります。俳句とは常につくられた作品の達成を前にしてしかありえない、という話なのかもしれませんが、ここで定型は一般的に言われる意味とはちがうものに化けてしまうような気がします。表現をその内に搭載する器のようなものから、それ自体が常に表現をとおして実現されるものへと変化する感じ。そうなると、定型とは俳句にとってのものではなく、(作品の完成度と絶えず判断がすり替えられつつも)当座の作品にとってのものとして妥当であるかが問われるわけで、作品の数だけ定型が異なるという見方もできます。そこで、個々の作品から差し向けられる一貫性があるとすれば、理想形としての定型をしめすことになるのでしょう。「俳句はなぜ五七五なのか」を問うのではなく、「五七五とは何か」を考えるきっかけになる、いい話だとおもいます。
 著者の作品をいくつか引用します。

 芍薬のうつらうつらとふえてゆく
 むらさきの他人ふたりがみてとおる
 夕べ痛いと言つて自転車とおるなり
 もくれんの花はたいせつ蔵にいれる
 茶の花けしき雨のまねしてとおるなり
 昼顔のか揺れかく揺れわれは昼顔
 天飛ぶやひよどりはなかまなりけり
 木ぶしの山をみみずはゆれてとおるなり
 わがからだ虫かごであり大きい
 うす曇りかもめの心にさわるかな
 鮎たべてそつと重たくなりにけり
 妻産めば雲いたわりに来る夜明け
 ほろほろと人いるよ雲追ったりす
 草木より病気きれいにみえいたり
 ふたごいる白い模様をいつぱいもち
 夕方流れていればすぐ会う八咫烏
 この野の上白い化粧のみんないる