「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評90回 福田若之『自生地』メモランダム 紆夜曲雪

2017年10月15日 | 日記
捨てるため、忘れるため書くというパッセージが幾たびも刻まれるこの句集はやはり「結晶」しなければならなかったのだろうと思う。福田若之にとってのエックス山が謎を残しつづけるように、ジャベスにとっての砂漠が空隙と空隙の間に開かれつづけるように、或る未完の書物は書きつづけられることを宿命とするからだ。しかし、改めて言うまでもないかもしれないがこの「結晶」は句集が物語的時間の中に閉じていることを意味しない(物語ではなく句集、一本道の時間ではなくあまたの植物をかかえる空間なのだから)。末尾の「孵る。それは、二度と戻れない仕方で帰るということだ。別の自生地に」という言葉から、冒頭の「気がつくと、ふたたび」という周到な言葉に帰るとき、そのときはもう「孵る」、と言うしかないではないか。

 かまきり、そしてかまきりもどきとは何だろう、と『自生地』を読んで考えないわけにはいかない。ともかく、「言葉に似ている」(p.20)が「語でしかないのだろうか」(p.222)という戸惑いを記されるようなものではある。それは存在しているが実在しているわけではない。中西夏之が描く紫が、もう色ではなくて、紫だということを思い出す。
恐怖にゆがんだ顔と、その顔を恐怖にゆがませるものとは類似していない、という話はどこで読んだのだったか、忘れてしまったがたぶんドゥルーズだったと思う。恐怖にゆがんだ顔は、それを恐怖でゆがませる世界の状態で顔を包み込んでいる、という話で、個々の表現が、そのような表現を導いた世界をそれなりに表現している、というかたちで「可能世界論」に繋がっていくのだったと思う。かまきりはただ「顔」の部分に相当して、表現や表現されるものに振り分けがたい、そういう印象になる。

 七五調という俳句の韻律(と、されてきたもの)を改めて考えなおすきっかけとしても恐らく十分すぎる句集なのだが、今私にできることと言えばせいぜい議論の前提になるような部分を確かめるくらいだろう。有名なバンヴェニストのスケーマ(「図式」)とリュトモス(「リズム」)の定義に触れなおしてみる。
  スケーマとリュトモスのあいだには差異が存在する。スケーマは固定され実現されいわば対象として措定された「形式」(forme)として定義される。逆にリュトモスはというと、不安定で動的で流動的なものによって形式が受け止められた瞬間におけるその形式を指示している。それは堅固な有機的構成を持つことなき形式である。(……)それは即興的で束の間の形式、変更可能な形式である(Emile Benveniste : La notion de “rythme” dans son expression linguistique, in Problèmes de linguistiques générale, Gallimard, 1966, p.333)。
 結局、五七調のスキームを一瞬にして裏切ったとき泡立つリュトモスについて、ということになるのか。しかし、それではあまりに足りない。句集には音楽とのアナロジーを拒むような言葉もあるが、俳句にとってのリズム論はここからいつでも生起しうるという印象もやはり、ある。

 複数である「僕」のことと、「僕」が複数(つまり、われわれ)であることとの差を考えもする。「われわれ」という言葉は恐らく力を持てない句集だろう(「ぼくたち」は出てくるがその「つながり」は「よわい」……)。個人的、涙が出るほど個人的な句集だが、独善ではない。複数性への開かれ。
 仮に助詞が作中主体の統覚を示すのならば、助詞が欠如したかのような断続的なフレーズに、静物画のような無関係の並置を見てしまうことが、これはこの句集に限った話ではないが、ある。

 世界に対する言葉の無力を信じつつ、ひとつの書記行為の結晶のたびにその主体の先端が書きなおされ、生まれなおすのを信じること。人の抱える時間が芸術行為に介在することを主体の出現と捉えたメショニックも想起しつつ。
 いやになるほど素晴らしい句集に、実際に何か拒絶を示したのか高熱を発した身体を引きずりながら断片を書き進めるうちに、と言い訳がましいことをなぜ書くのかといえば、現在時の手と筆先の震えとの関係性がこの句集にも書きとめられているような気がしているからなのだが、今の手が、時間の幅がせき止めてやまないものに自覚的であるこの句集の主体はやはりメショニックのモダニティの淵源としての主体を想起、させつつ……。

 

俳句評 俳句を嗜む人を嗜む 久真 八志

2017年10月11日 | 日記
 「俳句を作る人」と聞いたとき、誰を思い浮かべるだろうか? そしてそれはどんな人物だろうか?
現代俳句に興味を持つ前の僕にとって、それは例えば松尾芭蕉とか種田山頭火であった。教科書に載っているような有名人である。漠然と、漂泊の人として俳句を作る人の像を描いていたように思う。
 現在の僕は、俳句を作る人を以前よりは多く知っている。個別の例を知れば知るほどその多様さが理解でき、俳句を作る人を一つの典型で捉えるのは難しくなる。一方で、俳句を作る人を新たに知るたびに、その知識によって僕の頭のなかの俳人の像は更新され、追加され、いくつかのバラバラなカテゴリーに分類されながら変化していく。僕が俳句を作る人に関する個別の知識を得ることは、僕のなかの「俳句を作る人」のイメージにも影響を与えずにはおかないのだ。

 僕以外の人にとって俳句を作る人といえば誰だろうか? 
 それを知ることで僕のなかの俳人像はどのように変化するだろうか?



 大手SNSであるTwitterの日本国内のユーザー数は4000万人と言われ、一日に発されるTweet数は国内だけでも数千万件と推定されている。
今回は日本国内のTwitter上でのつぶやきから、「俳句」を含むTweetを収集し、その中で人名を含むtweetを分析してみた。

 なお、調査対象としてTwitterを選択した理由は以下の通りである。
 (1)LINEやFacebookとともに日本国内で多くのユーザーが利用しており、俳句に対する関心の強弱に関係なく、広い範囲での人々の俳句に関する語りを捉えることが期待できる点。
 (2)TwitterではStreaming APIというサービスで、一般ユーザーにTweetの収集および利用を可能としており、またその収集の支援を行うライブラリを筆者が利用可能であった点。ちなみに収集にはPhirehoseというPHPライブラリを使用させてもらった。

 収集期間は2016年11月19日~2017年9月30日。取得したTweet数は124,471,204件であった。
 なおStreamingAPIの仕様上、取得できるTweetは全体の1%程度になるとされている。また上記期間中、諸事情で収集を中断した期間を断続的に含んでいる。

 Tweetの分析にあたっては計量テキスト分析ソフト「KHcoder」を用い、形態素解析エンジンとしてはMecabを使用している。
 これらのツールを用いてTweet本文を形態素と呼ばれる単語相当のレベルに分解し、統計的な解析を行うことができる。

 さて、これらのデータをもとに、誰が俳句に関連してTweetされているか、そしてその人は俳句とどう関わっているのかを探っていきたい。全データから「俳句」を含むTweetを抽出したところ8308件で、全体の0.0067%であった。
 取得比率から逆算すると、「俳句」を含むTweetはおよそ10ヶ月で83万件、月あたりで8万件以上発されていることになる。

 次に人名を抜き出す。形態素解析では名詞のなかで更に人名を分類することができる。例えば「香取」「慎吾」など一般的に苗字や名前に使われる単語、あるいは歴史上の有名人の名前などを集計することが可能である。これを利用して、今回は人名として仕分けられた単語上位を含むツイートを参照し、人物名として言及されていることを確認できたものを参考に、その人物のフルネームを含むtweetを改めて抽出する方法をとった。なお、架空のキャラクターの名前も人物として数えることとした。
 この方法では、そもそも人名として判定されにくい単語を俳号として使用している俳人は補足することができないが、筆者の知識の範囲で俳人を検索対象として追加することは選択が恣意的になると考えられるため行わなかった。また確実な識別を考慮してフルネームで抽出することとしたため、苗字や名前のどちらか、ニックネームで言及されたケースは集計されず実際の言及数よりも数値が少なくなるはずである。

 以下が、「俳句」を含むTweetに出現する人名の上位19位(21名)である。



 先に述べた通り今回対象としたデータは全体のおよそ1%程度になることを考慮すると、1位の「正岡子規」を「俳句」とともに含むツイートは対象期間中で5800件前後あったと推定される。
 なお今回のような標本調査の結果が実際の全Tweetを調査したときと比べどのぐらい誤差があるかは、統計的に推定することができる。「正岡子規」の「俳句」Tweet件数の比率は、この標本では0.70%となったが、95%信頼区間は0.51%~0.88%と算出された。よって標本の取り方によっては2位の「松尾芭蕉」と順位が入れ替わる可能性もあるが、3位以下となる可能性は非常に低い。


 さて、集計結果を見てまず僕が驚いたのは、21人中、女性が夏井いつきの一人しかいない点である。
 つまりTwitterで俳句という単語と一緒に人物に言及しているようなケースでは、それが男性である確率が圧倒的に高いのである。これがどういった背景によるものかを考察するために、彼らを主に3つのグループに分類してみよう。

(1)古典俳人
 近世から近代までに主に活躍した人物。教科書等にも掲載され、俳人として知名度が高い。
 正岡子規、松尾芭蕉、夏目漱石、尾崎放哉、種田山頭火、小林一茶、与謝蕪村、高浜虚子らが該当する。

(2)現役俳人
 現役で活動しており、俳壇にも影響力があると思われる人物。句集の刊行、俳句結社への所属、俳句総合誌への寄稿などを行っている。
夏井いつき、金子兜太、小澤實らが該当する。
 なお山口誓子は存命でないためこのグループには括れないものの、活動時期を考慮すると(1)と(2)の中間と考えてよいかもしれない。

(3)芸能人
 テレビをはじめとしたメディアに登場し、その活動の一環として俳句とかかわる人物。これはさらに出演する番組や企画によって分類できる。
横尾渉、梅沢富美男、北山宏光らはTV番組「プレバト!!」内の、芸能人の俳句の才能をランク付けするコーナーに出演している。なお本コーナーでは夏井いつきが先生役としても出演している。
香取慎吾、山本耕史はTV番組「おじゃMAP!!」にて俳句を読みながら旅をするという企画で共演している。
 いとうせいこうは金子兜太とともに東京新聞「平和の俳句」の選をつとめている。
 山下智久は自身がパーソナリティを務めるラジオ番組で俳句を披露したことでの反響があったようである。
 佐藤勝利は特定の番組ではなく、様々な場面で俳句を披露するキャラクターとして知られているようである。

 また上記の分類の例外として、和泉守兼定が挙げられる。これは刀剣を擬人化したキャラクターたちが登場するゲーム「刀剣乱舞」のキャラクターであるが、Twitterの反響の多くは、ゲームを原作にしたミュージカルに関するものであった。該当キャラクターの演出として俳句を詠むことが恒例になっているようである。


 以上の分類それぞれにおいて、男女比の偏りを説明できるか検討してみよう。

(1)古典俳人
 言及されることの多い古典俳人の上位を男性が占める理由は、俳句の主流な担い手が近世から近代の始めまではほぼ男性であったためと説明できるだろう。このため、功績を残した有名な俳人もまた男性ばかりとなる。
 仁平勝は「俳句が文学になるとき」にて、「近世に女流の俳人が少ないのは、詩型自体の問題とは別のところで、俳句(俳諧)という文芸が男性的な世界であったことを意味している」(p145)と述べたあと、その背景について武士や町人などの新興階級が貴族文化に憧れつつ対抗する形で、和歌といった雅の文芸に対する俗の文芸として俳諧を発展させてきたと説明している。



(2)現役俳人
 今回のグループでは最も少なく、男性が2人、女性が1人である。これだけみれば男女比が偏っているとは言えない。現役の俳人の取り上げられ方の男女比がそこまで偏るといった印象はなく、僕の実感にもそぐう。

(3)芸能人
 俳句と関連付けて言及される芸能人の上位を男性が占めているのはなぜだろうか。
 今回の集計はRT(リツイート)されたものも含んで計上しているので、同内容のツイートも重複して数えられている。つまりこの順位は、テレビをはじめとするメディアを通して俳句を詠む人物を見た視聴者の反響の大きさを表すともいえるだろう。
(なお、RTの重複分を削除しても順位の変動はあるが、男女比は大きく変化しない)
 例えば「プレバト!!」の場合、俳句の才能ランキングは人気コーナーであり、毎回複数人の芸能人が句作に挑戦している。その放映回数もかなりの数にのぼり、女性の芸能人も数多く出演している。また「おじゃMAP!!」の俳句旅は単発の企画であるが、調べてみたところ女性の出演者も同行していたようである。しかし結果的に多くの視聴者の反響を得たのは、男性の芸能人が俳句を作るケースのようだ。

 名前のあがった男性芸能人について調べてみると、その多くが男性アイドルであることに気づく。横尾渉、北山宏光、山下智久、佐藤勝利、そして香取慎吾らである。彼らは一般に容姿のすぐれた男性だといえそうだ。この視点で見た場合、俳優である山本耕史も含んでよいだろう。
またゲームキャラクターである和泉守兼定もやはり容姿のすぐれた男性として描かれている。
 さらに、正岡子規と夏目漱石は古典俳人としての扱いだけでなく、ゲームである「文豪とアルケミスト」のキャラクターとして言及されているケースも一定の割合を占めていることがわかった(夏目漱石の場合、ほぼ半数を占める) 「文豪とアルケミスト」とは、かつての文豪たちが転生したキャラクターが登場するゲームである。文豪たちの名前はそのまま使用されているが、外見は写真に残っている実際のものとは異なり、ゲーム用に格好よくデザインされた姿で描かれているのである。

 このように、ランキング上位に容姿のすぐれた男性を多く見つけることができる。その背景にあるのは「俳句を嗜む、容姿のすぐれた男」がエンターテイメントとして提供される文脈である。今回取得したデータでは「俳句を嗜む、容姿のすぐれた男」がエンターテイメントとして提供される機会が多いのか、それに対する反響が大きくなりやすいのかを調べることはできなかった。それについてはまた別の方法の検討が必要であろう。

 このような現象は俳句以外の分野でも起きているのだろうか。
 比較のために、短歌で同様の条件で人名を検索した結果の上位20名を示してみよう。




 20名中、男性は12名、女性は8名となっており、偏りは俳句ほどではない(18位の星野しずるは短歌を自動で生成するサービスの名称であるが、架空の女性歌人という設定が与えられているため、女性として数えた)
また芸能人に属する人物は俳句ほどは多くない。
 石川啄木には「文豪とアルケミスト」のキャラクターとしての反響も含まれるとみられるが、全体として「短歌を嗜む、容姿のすぐれた男」は俳句のそれよりも少ないと言えそうである。
 このことから短歌では俳句と同様の傾向は観察できないと言えそうである。

 以上、これらの調査を進め、結果を整理する過程で、僕の中で「容姿のすぐれた男」という俳人の像が新たに形成されていった。しかもそれはエンターテイメントの枠組みで登場するため、俳句を嗜む姿が嗜まれていると言えるかもしれない。


///久真 八志(くま やつし)///
1983年生まれ。
短歌同人誌「かばん」所属。
2013年「相聞の社会性―結婚を接点として」で第31回現代短歌評論賞。
2015年「鯖を買う/妻が好き」で短歌研究新人賞候補作。
短歌評論を中心に短歌、川柳、エッセイその他で活動中。
Twitter&Facebook ID : okirakunakuma
SlideShare:https://www.slideshare.net/YatsushiKuma
Blog:https://blogs.yahoo.co.jp/okirakunakuma