捨てるため、忘れるため書くというパッセージが幾たびも刻まれるこの句集はやはり「結晶」しなければならなかったのだろうと思う。福田若之にとってのエックス山が謎を残しつづけるように、ジャベスにとっての砂漠が空隙と空隙の間に開かれつづけるように、或る未完の書物は書きつづけられることを宿命とするからだ。しかし、改めて言うまでもないかもしれないがこの「結晶」は句集が物語的時間の中に閉じていることを意味しない(物語ではなく句集、一本道の時間ではなくあまたの植物をかかえる空間なのだから)。末尾の「孵る。それは、二度と戻れない仕方で帰るということだ。別の自生地に」という言葉から、冒頭の「気がつくと、ふたたび」という周到な言葉に帰るとき、そのときはもう「孵る」、と言うしかないではないか。
かまきり、そしてかまきりもどきとは何だろう、と『自生地』を読んで考えないわけにはいかない。ともかく、「言葉に似ている」(p.20)が「語でしかないのだろうか」(p.222)という戸惑いを記されるようなものではある。それは存在しているが実在しているわけではない。中西夏之が描く紫が、もう色ではなくて、紫だということを思い出す。
恐怖にゆがんだ顔と、その顔を恐怖にゆがませるものとは類似していない、という話はどこで読んだのだったか、忘れてしまったがたぶんドゥルーズだったと思う。恐怖にゆがんだ顔は、それを恐怖でゆがませる世界の状態で顔を包み込んでいる、という話で、個々の表現が、そのような表現を導いた世界をそれなりに表現している、というかたちで「可能世界論」に繋がっていくのだったと思う。かまきりはただ「顔」の部分に相当して、表現や表現されるものに振り分けがたい、そういう印象になる。
七五調という俳句の韻律(と、されてきたもの)を改めて考えなおすきっかけとしても恐らく十分すぎる句集なのだが、今私にできることと言えばせいぜい議論の前提になるような部分を確かめるくらいだろう。有名なバンヴェニストのスケーマ(「図式」)とリュトモス(「リズム」)の定義に触れなおしてみる。
スケーマとリュトモスのあいだには差異が存在する。スケーマは固定され実現されいわば対象として措定された「形式」(forme)として定義される。逆にリュトモスはというと、不安定で動的で流動的なものによって形式が受け止められた瞬間におけるその形式を指示している。それは堅固な有機的構成を持つことなき形式である。(……)それは即興的で束の間の形式、変更可能な形式である(Emile Benveniste : La notion de “rythme” dans son expression linguistique, in Problèmes de linguistiques générale, Gallimard, 1966, p.333)。
結局、五七調のスキームを一瞬にして裏切ったとき泡立つリュトモスについて、ということになるのか。しかし、それではあまりに足りない。句集には音楽とのアナロジーを拒むような言葉もあるが、俳句にとってのリズム論はここからいつでも生起しうるという印象もやはり、ある。
複数である「僕」のことと、「僕」が複数(つまり、われわれ)であることとの差を考えもする。「われわれ」という言葉は恐らく力を持てない句集だろう(「ぼくたち」は出てくるがその「つながり」は「よわい」……)。個人的、涙が出るほど個人的な句集だが、独善ではない。複数性への開かれ。
仮に助詞が作中主体の統覚を示すのならば、助詞が欠如したかのような断続的なフレーズに、静物画のような無関係の並置を見てしまうことが、これはこの句集に限った話ではないが、ある。
世界に対する言葉の無力を信じつつ、ひとつの書記行為の結晶のたびにその主体の先端が書きなおされ、生まれなおすのを信じること。人の抱える時間が芸術行為に介在することを主体の出現と捉えたメショニックも想起しつつ。
いやになるほど素晴らしい句集に、実際に何か拒絶を示したのか高熱を発した身体を引きずりながら断片を書き進めるうちに、と言い訳がましいことをなぜ書くのかといえば、現在時の手と筆先の震えとの関係性がこの句集にも書きとめられているような気がしているからなのだが、今の手が、時間の幅がせき止めてやまないものに自覚的であるこの句集の主体はやはりメショニックのモダニティの淵源としての主体を想起、させつつ……。
かまきり、そしてかまきりもどきとは何だろう、と『自生地』を読んで考えないわけにはいかない。ともかく、「言葉に似ている」(p.20)が「語でしかないのだろうか」(p.222)という戸惑いを記されるようなものではある。それは存在しているが実在しているわけではない。中西夏之が描く紫が、もう色ではなくて、紫だということを思い出す。
恐怖にゆがんだ顔と、その顔を恐怖にゆがませるものとは類似していない、という話はどこで読んだのだったか、忘れてしまったがたぶんドゥルーズだったと思う。恐怖にゆがんだ顔は、それを恐怖でゆがませる世界の状態で顔を包み込んでいる、という話で、個々の表現が、そのような表現を導いた世界をそれなりに表現している、というかたちで「可能世界論」に繋がっていくのだったと思う。かまきりはただ「顔」の部分に相当して、表現や表現されるものに振り分けがたい、そういう印象になる。
七五調という俳句の韻律(と、されてきたもの)を改めて考えなおすきっかけとしても恐らく十分すぎる句集なのだが、今私にできることと言えばせいぜい議論の前提になるような部分を確かめるくらいだろう。有名なバンヴェニストのスケーマ(「図式」)とリュトモス(「リズム」)の定義に触れなおしてみる。
スケーマとリュトモスのあいだには差異が存在する。スケーマは固定され実現されいわば対象として措定された「形式」(forme)として定義される。逆にリュトモスはというと、不安定で動的で流動的なものによって形式が受け止められた瞬間におけるその形式を指示している。それは堅固な有機的構成を持つことなき形式である。(……)それは即興的で束の間の形式、変更可能な形式である(Emile Benveniste : La notion de “rythme” dans son expression linguistique, in Problèmes de linguistiques générale, Gallimard, 1966, p.333)。
結局、五七調のスキームを一瞬にして裏切ったとき泡立つリュトモスについて、ということになるのか。しかし、それではあまりに足りない。句集には音楽とのアナロジーを拒むような言葉もあるが、俳句にとってのリズム論はここからいつでも生起しうるという印象もやはり、ある。
複数である「僕」のことと、「僕」が複数(つまり、われわれ)であることとの差を考えもする。「われわれ」という言葉は恐らく力を持てない句集だろう(「ぼくたち」は出てくるがその「つながり」は「よわい」……)。個人的、涙が出るほど個人的な句集だが、独善ではない。複数性への開かれ。
仮に助詞が作中主体の統覚を示すのならば、助詞が欠如したかのような断続的なフレーズに、静物画のような無関係の並置を見てしまうことが、これはこの句集に限った話ではないが、ある。
世界に対する言葉の無力を信じつつ、ひとつの書記行為の結晶のたびにその主体の先端が書きなおされ、生まれなおすのを信じること。人の抱える時間が芸術行為に介在することを主体の出現と捉えたメショニックも想起しつつ。
いやになるほど素晴らしい句集に、実際に何か拒絶を示したのか高熱を発した身体を引きずりながら断片を書き進めるうちに、と言い訳がましいことをなぜ書くのかといえば、現在時の手と筆先の震えとの関係性がこの句集にも書きとめられているような気がしているからなのだが、今の手が、時間の幅がせき止めてやまないものに自覚的であるこの句集の主体はやはりメショニックのモダニティの淵源としての主体を想起、させつつ……。