「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 「澤」七月号とか、めくってみた 高塚謙太郎

2014年07月27日 | 日記
 これでたぶん終わりにしたい。現代俳句の今昔を勤勉に追っていない身にとって、書くべきものもなく、数年前に話題になった若手のアンソロジー数冊をぱらぱらめくって言えることがあれば、くらいに思っていた。そこに「澤」(二十六年七月号)で若手のアンソロジーが編まれていたので、そちらをちらちら見ながら「おもしろいなあ」くらいのことを以下に書いていく。


櫻井茂之
  あぢさゐや薄曇りして影のなく

 もちろん「あぢさゐ」雲が「あぢさゐ」としての「」を見せ消ちしているわけだが、句の滞りなさの方がおもしろいのかもしれない。


今泉康弘
  溺れても溺れても水見えざりき

 「春の水とは濡れてゐるみづのこと」という名句を横に置いたとき、「」という詩語の使い勝手の良さと悪さを思ってしまう。だいたいはぶざまなことになるようだが、この句は「」が澄んでいてきれいだ。


本多 燐
  水鳥の水割る胸の耀けり

 こちらの「」は「水鳥」の「濡れてゐる(見えている)」その様が仕立てられている。あえての「耀けり」という念押しもうるさくない。

  三月菜犇きあひてひらひらす

 同じ書き手のものだが、「ひしめき」「あひて」「ひらひら」の連なり、「ひし」「ひらひら」が擬態語であるため、「あひて」も擬態語になってしまっていると踏んだ方がたのしかろう。


鴇田智哉
  ひあたりの枯れて車をあやつる手

 ちょっとおどろいたが、「枯れ」ているのはどうやら「」の方であるようだ。しかしそう理詰めで読むのは惜しい。「ひあたりの」から「あやつる手」まで単に流しておけばいいと思う。

  白息のほかにかすれてゐる木々も

 これも同じ書き手。こちらは先の句に比すると理路を通そうという手先が見える。つまりこれはいっそう上から下まで流し読めばいいのかもしれない。
この鴇田智哉という人は先年のアンソロジー(『新撰21』)で以下の秀句が拾われていた。念のため。

凍蝶の模様が水の面になりぬ
にはとりの煮ゆる匂ひや雪もよひ
ゆく方へ蚯蚓のかほの伸びにけり
ぼんやりの金魚の滲む坂のうへ



九堂夜想
  麦秋の縄目かすかに日の乙女
  野巫なんで美食の鳥を眸(まみ)の上
  天外やなべて阿呆の螺旋立ち


 こちらは三つ並べてみた。鑑賞めいたことを書きたくないな、と思う。ただ一つだけ言っておくと、これらは決して何かのメタファーではないし、俗シュルレアリスム(?)的なこけおどしでもなく、言葉の重なりの複雑さを楽しんでいるものだということだ。この人も先年のアンソロジー(『新撰21』)に次のような句がある。

夜語りの視野を舐め合う盲窓
起上り小法師ふしぶし朧朧し
斜塔このオブジェの朝の足拍子



益永涼子
  優曇華や真ん中にある喉仏

 三千年に一度の花に坐している仏のことを「喉仏」と思えば心楽しいばかりでおもしろい。

  夏負けの城主の心天気雨

 こちらは「城主」だが、「負け」戦の心模様が可笑しい。


宮本佳世乃
  うらうらと重なり轍わたしたち

 「うらうら」と、「」と「わたし」が「重なり」あって「わたしたち」となる、そんなうららかな句である。

  山茶花のひらききつたる中を犬

 これはちょっとあざとさがあるような気もするが、単純におもしろい句だと思った。


如月真菜
  書初めのもちのもの字のながながと

 「もちのもの字のながながと」そのものが「ながなが」と書きとめられていて、句というもの(あるいは言葉というもの)の不思議さを思わずにいられないが、いずれにしても流麗な言葉だけの句であって頼もしいかぎりだ。

  橋の下に冬日を映し満ち潮来

 これはこれで美しい写生句を模した言葉の連なりがあって好もしい。


紀本直美
  はなのよいふたごもどきがふたりのり
  あちこちをつつくきつつきすっとする


 この二つの句、オブジェのように仕事机のファイル棚などにそっと飾っておきたいと思う。この、人の世に向かって完全に無力な、いや、人外の、この言葉の流れをこそ、言葉で遊ぶ人たちは目指した方がましではないかと思う。


御中虫
  やよ花よ匿つて呉れ胞衣(えな)お呉れ
  観音よゥ手らァ斬りなョ飛べねェゾ
  やままめとささやきながら桜散る


 言いさし、言いさし、で句は成るし、それ以外はどうでもいいとさえ思えてくる。


小野裕三
  初富士へ寄りつ戻りつ吾子と吾子

 ただただ楽しいだけの句なのだと思うが、楽しいと言っていれば済む句でもないのは確かで、いつかしっかりと分析してみたいと考えている。たぶんめんどくさくてしないだろうが。だが実はそれくらいこの人の句が好みで、先年のアンソロジー(『超新撰21』)などでも次のような句を抜き出してノートに書いたものだ。

夕焼は彼方ニューヨーク大空襲
花合歓や一寸法師尖りだす
林檎投げピンチランナー走りだす
ギリシア人夜の魚を食べにけり
とろろ汁パンダがごろごろしている
初富士やふっくらとした文庫本
手の長い三人でゆく初詣
高きに登る具体的には犬
あじさいが郵便局を開きけり
滝の夜少女のような和室かな
跳び箱を二人で運ぶ遅日かな
侍をたくさん噴いて弥生山



池田瑠那
  太陽のはじめは気体鳥の恋

 この句は晴れ晴れとした気分にしてくれるし、「鳥の恋」という句を用いるにはこれしかない、というくらいしっかりとはまった句だと思う。


鎌田 俊
  地虫出づ天竺の砂額にのせ

 この句はにやにやとさせてくれるし、「天竺の砂」という句を用いるにはこれしかない、というくらいしっかりとはまった句だと思う。


中村安伸
  総崩れの寺引いてゆく花野かな

 この句は先年のアンソロジー(『新撰21』)でも見られた句だが、同書からこの人の他の句を拾ってみると、

でうす様 自転している花の庭
濃姫の脚のあいだの春の川
春風や模様のちがう妻二人
儒艮(じゅごん)とは千年前にした昼寝
京寒し金閣薪にくべてなお


 等があり、いずれも艶と格式でしっかりと勝負しているにも関わらず、底抜けの馬鹿さかげんが他にない魅力となっている。


山田露結
  矢印を曲がると滝の凍ててをり
  そばうどん天ぷら春の雪各種
  階段を上れば二階下れば冬


 この人もいずれきちんと分析したい対象の一人だが、それは一つの夢としてここで終わらせておこう。夢は夢のままでいい。疲れたのでアンソロジー(『俳コレ』)やこの人の句集(『ホームスウィートホーム』)からたくさん拾って転記してお終いにしておく。


閂に蝶の湿りのありにけり
はくれんのどこかこはれてゐるやうな
水の音させず椿の落ちにけり
風船の結び目固くして家族
朧夜のための欄間と思ひけり
遅き日の亀をはみ出す亀の首
くちなはとなりとぐろより抜け出づる
てのひらとなりきることも踊かな
帯解いて五体崩るる鰯雲
声となりほどなく鶴となりにけり
煮凝や音なく荒るる日本海
釣瓶より盥へうつす春の月
夜の新樹までの襖の無数なる
玉虫や死して評価の定まりぬ
くらげひとつむりよくむりよくとただよへり
傾城を尋ねてもみる穴惑(あなまどひ)
天秤のかたむくはうに虫の闇
唐土にもろもろの智者鳥渡る
階段を下りてるところ冬の波
海鼠嚙み浮世離れを切切と
愛撫を許せばまぶしいさくらがみんな見える

俳句評 気になる夕暮れ  カニエ・ナハ

2014年07月26日 | 日記
 いまこれを書いている私の視界は見わたすかぎり「お~いお茶」のペットボトルで覆われていて、さながらアンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の「お~いお茶」版といったところ。一つのペットボトルに一句から五句ほどの俳句が載っているのだけど、たいていその中に一句はどこかしら「おっ」と思うものがあり、べつの一句は(それこそ)「お~い」とツッコミたくなるものがあり、なんとなく捨てられず、それどころか積極的に集めるようになって、そうこうしているうちにこんなことになってしまった。しかしこれまでに総勢何百名、何千名の俳句がここに載ったのだろう。「誰でも15分間は有名人になれる」はウォーホルの名言だけど、日本のキャンベルスープである「おーいお茶」は、誰でも15分間は俳人にしてしまうのかもしれない。

 本読む人の本が気になる夕暮れ電車  川村真由

 いきなり変化球なのだけど、これ全然五七五じゃない、へんなリズムで、それゆえなんだか妙に気になる(こういう定型外のものに魅かれてしまうのは、私が自由詩をやっているからかもしれない)。私としては、本読む人の本が気になる人が気になって、読書に集中できない。できれば本読む人の本が気になる人に気に入られるような本の選択をしたいと思うのだけど、本読む人の本が気になる人はどんな本が好きなのだろうか。あまり通俗的過ぎても、高尚過ぎてもいけない気がする。装幀は清潔感のあるものがいいだろう。その点、俳句の本は装幀がしゅっとしているものが多いので、間違いない気がする。私はこないだ榮猿丸さん『点滅』、野口る理さん『しやりり』、長嶋有さん『春のお辞儀』という三冊の句集を買ったのだけど、それらならどれでも間違いない気がする。榮さんの句集は表紙にホログラム箔が、野口さんの句集は金箔が、ほどこしてありそれらが夕暮れの電車に映える気がする。長嶋さんの句集は活版印刷で、これもまた夕暮れの電車にふさわしいと思う。

 サヨナラがあめ玉になる夕間暮れ  天田大樹

 こちらは夕暮れではなくて夕間暮れで、視界がせばまっていくのに反比例して、風景のなかにあめ玉のサヨナラ味が溶けてひろがっていく。どんなサヨナラもそれが永遠のサヨナラであり得ないサヨナラなど無いし、舌の上にザラザラとした感触をのこさなかったサヨナラも無かった。

 じじばばにちちははがいて大夕焼  伊藤沙智

 昨年末に私の最後の生きている「じじばば」であった祖母が他界したが、やはり最後に会ったときこれが最後のサヨナラになるとは思わなかった。会ったことのない彼女の「ちちはは」はイメージの中でまだ年若く、すると祖母もまた、いつのまにか少女に戻っているのだった。

 夕暮れの郷里に帰るシャボン玉  谷村康太

 通りがかりの家の玄関先にぶらさがっているホオズキ。その下でおさない浴衣の女の子が父母に見守られて花火をしている。火薬のにおい。せつなの炎が、舗道のアスファルトに永遠に消えないしみを落としている。お盆だ。