「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 ドーナツの穴、真空の状態にぽつんと、しんしんと カニエ・ナハ

2016年06月30日 | 日記
 ひどく疲れています。
 時間の感覚がおかしく、昨日だと思っていたことが1週間前のことだったり、明日の予定がすでに3日前に過ぎていたり、めまぐるしく、読みたい本はたくさんあるのだけど、そのまえに読まなければならない本が、毎月ダンボールいっぱい送られてくるのだけど、そのほかにも日々いろいろな本が家にやってきて、そのうえ、私はストレスがたまると本を大量に買ってしまう悪癖をもっていて、日々本が増えつづけ、増えつづけ、昔、ポール・オースターの小説に、本がありあまっていて、テーブルも椅子もすべて本で代用して、というような小説があった気がするけれど、私もじきにそうなるかもしれません。


 本だらけで家に足の踏み場もないので、すこしでも時間があると出かけます。でも特に趣味もなくて行くところもないので、美術館やギャラリーをまわります。月に50から60くらい。いっけん、熱心な美術愛好家のように思われるかもしれませんが、ちがうんです。行き場がないだけなんです。


 いつもそんな散歩がてらにいく馬喰町のαMギャラリーで、牛腸達夫さんという方の、彫刻/インスタレーションの展覧会をやってました。いただいたハンドアウトの、かれの文章がとてもよくて、「ドーナツの穴を手に入れたいと思っている。「穴」はそれ自身では存在出来ないので、穴を手に入れようとすれば必然的にドーナツを作らなければならない」云々。以下、彫刻と空間の関係をドーナツとその穴の関係とに重ねて考察されているのですが、彫刻家の方の考えていることはおもしろい、おもしろいなあ、と思いながら、牛腸さんのつくられた彫刻/インタレーションの、ぽっかりとした空間のなかに、しばらくぽけーっと、佇んでいました。


 いま出てる「ミュージック・マガジン」の最新号が、特集「90年代の邦楽アルバム・ベスト100」で、今年オザケンやフィッシュマンズがツアーをやるとかで、のことなどをひとつの契機としての特集みたいだけれど、そんなトピックも手伝ってか、1位はオザケンの『LIFE』、2位はフィッシュマンズの『空中キャンプ』、3位はコーネリアスの『ファンタズマ』・・・みたいな感じで、まあ順当な感じと思いますが、7位サニーデイ・サービスの『東京』、このアルバムのウィキペディアの項目を見てみたら、引用されてる曽我部さんのコメントがよくて、「(…)同じ月にフィッシュマンズの『空中キャンプ』も出たんだよ。『東京』とは全然違うんだけど、俺の中ではつながっていて。90年代の空気というか、なんかすごいいい時代というか。90年代に『空中キャンプ』や『東京』を聴いていられた日々っていうか……いまだと絶対こんなアルバム出てこないもん。神聖かまってちゃんにしろ相対性理論にしろ、聴いてるとものすごい情報の渦の中に引っぱられるんだけど、『空中キャンプ』とか『東京』とかは真逆で、真空の状態にぽつんといるような状態にしてくれるんだよね。そういう音楽ってもうあんまないよね」。


 そんなわけでいま、フィッシュマンズやサニーデイ・サービスを聴きながらこの文章を書いている、私の手もとには、藤井あかりさんの句集『封緘』(文學の森)があって、封緘(ふうかん)、とは、「手紙などの封をすること」とのことです。すこしパールがかった白に、うすい金の文字でタイトルや著者名がしるされていて、うつくしい、とても品のよい、手紙のようで、ひらいてみると、一頁に二句ずつ、見開きでも四句、とゆったりと組まれていて、私のように疲れた人間にも、読みやすい、ゆたかな余白。余白とは、やさしさかもしれません。四つの章に分かれていて、「冬」「春」「夏」「秋」とあるのだけど、「冬」からはじまることが、どうしてかはわからないけれど、この句集には必然のような気がして、一見オーソドックスでありながら、ほんのすこしずらされている、というのがこの句集の勘所なのかもしれないし、いずれにせよ、表紙のうつくしい白をめくると、「冬」からはじまる、というのを、ごく自然な流れとして受け止めました。いま、私がこれを書いているのが夏なので、「夏」の章を見ていきたいと思います。「夏」の最初の句、


  別館の窓に映れる若葉かな  藤井あかり


 さっき、「ほんのすこしずらされている」と、直感的に書いたのですが、この句も本館ではなくて「別館」、そして直接視る若葉ではなく、窓に映った若葉、という屈折が、なんでもない若葉を(そして別館の窓を)、新鮮な光景として、立ちあがらせているように思います。本館の窓、じゃだめなんですよね。そして、私たちはあるものを、直接視るのではなく、なにかを通して視ることで、はじめて本当に視える、ということがあることに、気づかされます。


  明日へと雨降りつづく柿若葉


 先週からずっと雨がつづいていて、移動が、とか、洗濯物が、とか思ってしまって、いやだなあと思ってしまっていたところへ、この句に出会って、自分の都合で、つまらない世界の感受のしかたをしてしまっていたなあ、とちょっぴり反省した次第です。若葉というのがどれくらいの期間、あるいは時間、「若葉」でいられるのかわからないけれど、それは私が思っているのよりもずっと、一瞬なのかもしれません。


  若楓誰より長く仰ぎ見る


 そうおもうと、若葉、若楓、ということの、なんとはかなく、いとおしく思えてくることでしょう。そして言葉、言の葉よりも、ただの葉っぱのほうが、より多くのことを私たちに語りかけているのかもしれなくて、木の梢などは、手紙なのかもしれません。


  あとさきにこまやかな雨初蛍

  せつせつと波打ち寄する蛍かな



 子どものころに蛍を見た記憶がないのだけど、どうしてか、大人になってからは毎年見ていて、そう思うと、大人になることもわるいことばかりではないのかもしれません。都心から、電車で1時間も行けば、蛍の見られる場所をいくつか知っているのだけれど、なかなか行かれなくて、ある雨が上がった夜、都心のホテルの有名な蛍の見られる庭園にふらっと出かけていって、でも蛍よりもひとのほうがずっと多くて、だけど清少納言が書いているように、蛍などは、「ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし」で、それにひとにしたって、おおきな時間で見ればはかないことは蛍とたいして変わらず、ときどき誰かが取り出すスマートフォンの灯りが、明滅して、じきにまた、雨が降り出すでしょう。目を閉じると、蛍の光も人の光もいっしょになって、明滅して、明滅して、どこからともなく、打ち寄せる波の音が、せつせつと、


  青梅や傘畳むとは人悼む


 だから、私たちは、忘れないために、ときどきは雨にぬれなければならないのかもしれません、(死ということが熟す、ということが、果たしてあるのでしょうか、)


  もの書けば余白の生まれ秋隣


 いつか私たちの誰もが死んでしまうことをおもうと、なにかを書くということはすべて死者に宛てて書くことなのかもしれないし、死者になにかを語れるとしたら、それは余白でしか語ることはできないのかもしれません、だから、


  書出しのインクを垂らしたき泉


 ほんとうの手紙は、ほんとうはこのようにしてしか書かれ得ないのかもしれなくて、


  しんとありしんしんとあり蓮の水


 藤井さんの俳句は、この宇宙の、ドーナツの穴の、真空の状態にぽつん、と咲いた、蓮の花みたいで、つれかた私たちを、私を、やさしい余白のその白で、なぐさめてくれます。