「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 天野健太郎句文集「風景と自由」(新泉社・2020) 鈴木 康太 

2020年12月12日 | 日記

  小春日や青空一枚指に触れ

 世の中には封印された色があるといいます。その色が見えるということに喜びを感じる時があります。いくつかの色は、見えなくなってからでも名前をつけることができます。景色の記憶というか、(写真に記録することもその方法の一つですが)それには特に意味などなく、感覚の遊びが伴って世界に触れる感じ……俳句という短さのなかに閉じこめられた風景が私のなかで共鳴しています。
 2018年に亡くなられた天野健太郎さんの残した句文集「風景と自由」のなかで紡ぐ言葉は、強度をもって色彩の記憶に対峙していると思えます。
 天野健太郎さんは、台湾文学の翻訳家として活躍されていました。解説で斎藤真理子さんが言及していますが、天野氏は執筆生活の大半を、端正で奥行きのある日本語で、台湾の歴史・文化を多面的に伝えていました。
 翻訳家という仕事は、言葉の海のなかで釣りをして、他者に引き渡す役割だといいます。餌。僕は、天野氏の言葉はすごく深い海で釣った深海魚みたいだ、ということを感じました。その後に、料理するとき、どう捌いたり調理法はどうすればいいか。五七五という入れ物のなかに希望や失望を投げ入れてあふれるところまで盛っていく記憶のようだ、と思いました。
 こんなことを書いてると、否応にも俳句が「記憶の増幅装置」であることに気づかされます。そんな捉え方があるのか、と価値観が覆されることが多く、もっとこの世の味を噛みしめたくなるのです。

  苦さとか熱さと牡蠣のそれ以外

 牡蠣、は口で噛みしめるものです。苦いも熱さも口で感じられます。でも「それ以外」はまるで自分の居場所を、遠くの高いところから思っているような心の余裕があります。この句集の前書きに
「俳句は無限にある
 そこに風景と自由さえあれば」
 と言葉があります。牡蠣は虚空のひろがりの味なのかもしれません。

  坂腹に黄金ひと染み銀杏かな

  指腹にあまりにも脆き式部かな

 句の配列からいうと、この句の間に二つの句を挟んだものとなっております。「かな」という切れ字を名詞の後ろにつけることはよくあることで、やもすると凡庸な句になってしまいがちですが、この二句の場合読み終えた後の余韻が、あまり膨らむことなく消えて行く感じがとても素敵でした。銀杏も、式部も、嗅覚を刺激してくれる生き物ですね。坂腹、指腹、という丸みをもったものと相まってどこか官能的なひびきを持つ句です。

  駅前の落ち葉なぜみな裏返し

  日日草揺れて日向と日陰かな

 僕はラーメンを食べながらこの句を読んで思ったのですが、麺をすすると口の周りでくるくると跳ねるものがおもしろかったりする。その音は「どもったり、どもらなかったり」する。頬の形を試行錯誤する。その頬は「凹んだり、元に戻ったり」する。日々草を揺らすものがある。それは「風だったり、土だったり」する。まるで、カラオケに発音練習しにきたみたいに、僕はラーメンを食べた。跳ね上がる汁で顔がベトベトしはじめる。日日草は、どもりながら思考をはずませている。実は、分割されたピースではなく一つの車輪に平行して回ることを約束している。
 葉は季節の移り変わりに枝から落ちますが、なぜかそれが全部うつ伏せでした。問いかけの俳句は、読者にそれぞれに答えを出すことを望んでいるかいないかわかりませんが、落ち葉は土であったりアスファルトであったり、どこかに触れてそこにある。それが心地いい句だと思いました。僕はそれが全部うつ伏せじゃなかったとしても良いと思います。というのは、写真を撮るときとかもそうですが、仰向けならばうつ伏せにすればいい!ということです。自分なりに構成して風景を変えてやれば面白いんじゃないかな、と思います。駅前で。

  なんらかの完全な世界カナカナと

 句がリズムにのっとられる瞬間というものがあるそうです。この句を紹介した後、みなさんに一つの問いをしたいと思いました。みなさんは、人間をやめようと思ったときはありますか。僕はできるなら人間が続けたいと思いますが、背中が無くなればいいと思ったことがあります。要するに、振り返らずとも後ろをみれると
 いうこと。でもふくろうになりたいと思ったことはありません。この句の「完全」というのが望みたい不毛な事柄ならば、その積もりつもったものが「世界」なのではないかと思います。「カナカナ」は、動物の鳴き声のようで、でも特定されない「なんらか」なんですね。作者は、自分の中の動物を意識している。それになりたかったかどうかは別にして、カナカナがなんらかであったことで本当によかったと思いました。
 のっとられても、句は平気であること、そこに勇気づけられました。
 これからも、いい句に出会いたいなと思いました。
                        以上


俳句時評 第129回 水に映れば――神野紗希句集『すみれそよぐ』を読む 若林 哲哉 

2020年12月11日 | 日記

 『すみれそよぐ』は、『星の地図』と『光まみれの蜂』に次ぐ、神野紗希の第3句集である。前回の時評で俳句甲子園のことを書いたが(https://blog.goo.ne.jp/sikyakuhaiku/e/a92eaa49ddcff5d2851d2f4249d99639?fm=entry_awc)、彼女もまた、俳句甲子園を通じて俳句の魅力に取り憑かれ、現在も尚俳人として活躍しているうちの一人であることは、もはや言うまでもない。
 あとがきにもあるように、『すみれそよぐ』は、女性として、結婚・妊娠・出産・育児といったライフイベントを経る中で作られた句が多く収録されている。筆者である僕は、生物学的にも、戸籍上も、また自認の面でも男性である。それゆえ、魅力を感じながらも、簡単な共感を寄せて片付けてはいけないのではないかと思いながら句集を読み進めた。

  抱く便器冷たし短夜の悪阻

 僕にも、便器に向かって嘔吐した経験はある。その時に身体を預ける便器が冷たいということも、ありありと分かる。しかし、「悪阻」は経験したことがないし、経験しようがない。「冷たし」という季語が伝える「便器」の質感と身体感覚が、「悪阻」を体感したことない読者にもそのしんどさを伝えてくれる、というようなことは、僕には到底書き得ない。そこにはおそらく、漸近こそ出来ても、一致はしない、微妙な差異がつきまとうのだろうと思う。

  産み終えて涼しい切株の気持ち

 それまで自分の身体の一部であった子が自分を離れた時の喪失感、一方で、出産という大仕事を終えた達成感や、これから成長する子を見守る期待の眼差しも奥に感じられる一句。「切株」が纏う喪失感のイメージは、例えば〈切株は じいんじいんと ひびくなり/富沢赤黄男〉(『蛇の笛』)など、先人の俳句の蓄積の先にあろうが、季語と組み合わせて「涼しい切株」という言葉を組み立てたことで更新されている。しかしながら、この句も、出産を経験しようがない僕からすると、どこまで共感してよいものか、慎重にならざるを得ない。

 他方で、生物の質感を写し取った句、また、一句が現代社会の在りようへと開かれている俳句には、神野紗希の力量を特に感じた。
 
  ぶどうより柔らか雨蛙のおなか

 「雨蛙のおなか」の柔らかさを述べる時に、「ぶどう」というジューシーな果物を引き合いに出したことが面白い。水のイメージを通底させながら、片や植物、片や動物という、生物どうしの手触りの違いを捉えており、また、「おなか」という口語的でキュートな言い回しが、この発見を無邪気に楽しんでいる雰囲気を生む。

  コンビニやバナナ一本ずつ売られ

 バナナが一本ずつ売られていることに驚きを覚えるのは、バナナは束で売っているものだという前提があるからである。一本ずつ売られているコンビニのバナナは、恐らく、一人暮らしの人や、一人で食事をする人向けのものであり、現代に生きる人々の孤独が反映されている。『光まみれの蜂』に収録されている〈コンビニのおでんが好きで星きれい〉は神野紗希の代表句の一つだが、同じコンビニの句でも、「バナナ」の句は陰りが印象的である。「バナナ」という夏の、ともすれば陽気なイメージを醸し出す季語を裏切るような陰影だ。

 最後に、
  水に映れば世界はきれい蛙飛ぶ

 〈水に映れば世界はきれい〉という措辞は、水に映っていない世界そのものはきれいではないという認識があった上で導かれるものだろう。この一句を通奏低音のようにして『すみれそよぐ』を読むと、神野紗希によって描かれる「私」や子、生き物たちがいっそう健気に感じられる。「私」たちが生きている世界は決してきれいなものではないのかも知れないけれど、俳句という「水」に映れば、きれいで愛すべき場所になる。そういうことなのかも知れない。

〇書誌情報
神野紗希『すみれそよぐ』(2020年11月9日、朔出版)

https://twitter.com/kono_saki/status/1326688264888045568?s=20
(神野紗希さんご本人のTwitterより、購入方法のまとめ)