小春日や青空一枚指に触れ
世の中には封印された色があるといいます。その色が見えるということに喜びを感じる時があります。いくつかの色は、見えなくなってからでも名前をつけることができます。景色の記憶というか、(写真に記録することもその方法の一つですが)それには特に意味などなく、感覚の遊びが伴って世界に触れる感じ……俳句という短さのなかに閉じこめられた風景が私のなかで共鳴しています。
2018年に亡くなられた天野健太郎さんの残した句文集「風景と自由」のなかで紡ぐ言葉は、強度をもって色彩の記憶に対峙していると思えます。
天野健太郎さんは、台湾文学の翻訳家として活躍されていました。解説で斎藤真理子さんが言及していますが、天野氏は執筆生活の大半を、端正で奥行きのある日本語で、台湾の歴史・文化を多面的に伝えていました。
翻訳家という仕事は、言葉の海のなかで釣りをして、他者に引き渡す役割だといいます。餌。僕は、天野氏の言葉はすごく深い海で釣った深海魚みたいだ、ということを感じました。その後に、料理するとき、どう捌いたり調理法はどうすればいいか。五七五という入れ物のなかに希望や失望を投げ入れてあふれるところまで盛っていく記憶のようだ、と思いました。
こんなことを書いてると、否応にも俳句が「記憶の増幅装置」であることに気づかされます。そんな捉え方があるのか、と価値観が覆されることが多く、もっとこの世の味を噛みしめたくなるのです。
苦さとか熱さと牡蠣のそれ以外
牡蠣、は口で噛みしめるものです。苦いも熱さも口で感じられます。でも「それ以外」はまるで自分の居場所を、遠くの高いところから思っているような心の余裕があります。この句集の前書きに
「俳句は無限にある
そこに風景と自由さえあれば」
と言葉があります。牡蠣は虚空のひろがりの味なのかもしれません。
坂腹に黄金ひと染み銀杏かな
指腹にあまりにも脆き式部かな
句の配列からいうと、この句の間に二つの句を挟んだものとなっております。「かな」という切れ字を名詞の後ろにつけることはよくあることで、やもすると凡庸な句になってしまいがちですが、この二句の場合読み終えた後の余韻が、あまり膨らむことなく消えて行く感じがとても素敵でした。銀杏も、式部も、嗅覚を刺激してくれる生き物ですね。坂腹、指腹、という丸みをもったものと相まってどこか官能的なひびきを持つ句です。
駅前の落ち葉なぜみな裏返し
日日草揺れて日向と日陰かな
僕はラーメンを食べながらこの句を読んで思ったのですが、麺をすすると口の周りでくるくると跳ねるものがおもしろかったりする。その音は「どもったり、どもらなかったり」する。頬の形を試行錯誤する。その頬は「凹んだり、元に戻ったり」する。日々草を揺らすものがある。それは「風だったり、土だったり」する。まるで、カラオケに発音練習しにきたみたいに、僕はラーメンを食べた。跳ね上がる汁で顔がベトベトしはじめる。日日草は、どもりながら思考をはずませている。実は、分割されたピースではなく一つの車輪に平行して回ることを約束している。
葉は季節の移り変わりに枝から落ちますが、なぜかそれが全部うつ伏せでした。問いかけの俳句は、読者にそれぞれに答えを出すことを望んでいるかいないかわかりませんが、落ち葉は土であったりアスファルトであったり、どこかに触れてそこにある。それが心地いい句だと思いました。僕はそれが全部うつ伏せじゃなかったとしても良いと思います。というのは、写真を撮るときとかもそうですが、仰向けならばうつ伏せにすればいい!ということです。自分なりに構成して風景を変えてやれば面白いんじゃないかな、と思います。駅前で。
なんらかの完全な世界カナカナと
句がリズムにのっとられる瞬間というものがあるそうです。この句を紹介した後、みなさんに一つの問いをしたいと思いました。みなさんは、人間をやめようと思ったときはありますか。僕はできるなら人間が続けたいと思いますが、背中が無くなればいいと思ったことがあります。要するに、振り返らずとも後ろをみれると
いうこと。でもふくろうになりたいと思ったことはありません。この句の「完全」というのが望みたい不毛な事柄ならば、その積もりつもったものが「世界」なのではないかと思います。「カナカナ」は、動物の鳴き声のようで、でも特定されない「なんらか」なんですね。作者は、自分の中の動物を意識している。それになりたかったかどうかは別にして、カナカナがなんらかであったことで本当によかったと思いました。
のっとられても、句は平気であること、そこに勇気づけられました。
これからも、いい句に出会いたいなと思いました。
以上