「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 向きあえる人 森本 直樹 (第1回)

2018年07月22日 | 日記

 先日、大阪北部で歴史的な地震が起きた。私も震源地のすぐ近くを走っていた電車の中で被災し、二時間半ほど電車に閉じ込められたうえ、京都の家まで歩いて帰った。家に着く頃には夕方になっており、ただただ疲れたことだけは覚えている。
 電車に閉じ込められていた時に、ふと。

   本日はお日柄もよく関揺れる

 という俳句を思い出した。2012年、東日本大震災が起こってから一か月もしないうちに邑書林から発刊された御中虫さんの句集『関揺れる』の一句だ。帯には「これは『震災句集』ではない」とある。いきなりだが、『関揺れる』の後書きの一部を引用する。


  虫は我が身のことして 東日本大震災を ひきうけられはしない人格の持ち主である。
    た
    だ
    し
  関悦史さんという被災者がゐた。
 
(中略)
  
  云わば虫は関悦史の「揺れツイート」を通してのみ、この震災に向き合つてゐる。
  それ以外は、ない。


 この「関揺れる」の関とは俳人関悦史さんのことであり、関さんの「あ、揺れた」などのツイート群を基にして御中虫さんは捏造季語をを作りあげた。幾つかの句を引く。

 関揺れる人のかたちを崩さずに
 神仏の力を超えて関揺れる
 横揺れの関ほど怖いものはない
 三度目の揺れはおそらく関のせい
 「関じゃない!その揺れ!」「え!?何!?地震なの!?」

 一句目、関さんは揺れているが、あくまで人としてのかたちを保っている。
 しかし、二句目、もはや神仏をも超越しているではないか。地震のなかで神仏に祈った方も多いだろう。しかし、揺れている関さんはその神仏を超えている、状況は絶望的だ。
 三句目、地震が関さんを揺らしているのか、関さんが地面を揺らしているのか分からなくなる。それもそうか、関さんの「揺れた」ツイートによってしか、関さんのいる場所が揺れたかどうか分からないのだから。だが、もしかして、いやきっと、関さん=地震なのでは、という疑念が沸き起こる。
 そしてとうとう確信をもって関さんが地面を揺らしていると詠んでみせた。これは関さんがいる茨城県がか、あるいは御中虫さんの居る場所がか。なんとなく後者の気もする。
 そして、終盤に五句目をもってくる、ちょっと怖いユーモア。

 北大阪の地震以降、よくニュースを見るようになった。
 地震に続き、大雨や猛暑が続いたりと大変な日々が終わらない。記録的な地震や大雨があったにもかかわらず休校の連絡が大幅に遅れる学校や、そんな状況であるはずなのにどうにかして仕事に向かおうとする人の姿が見えた。猛暑で体調を崩したことを訴えながらも皆と同じ行動を先生に取らされた結果亡くなってしまった児童も出てしまった。
 どうやらイレギュラーを認めたがらない、あるいは私たちが皆横並びで繰り返しいつもと同じ行為をし続けることを望む層が一定数いるらしい。立て続けに起こった震災や異常気象によってそのことが以前に増して浮き彫りになってきた。
 しかし、その時の状況や状態は人それぞれだ。そして、それぞれの立場からの少しずつ違った、目の前の出来事への受け止め方が存在する。そのことを強く意識していかなくてはいけないと思う。

作者自身の立場を表明し、東日本大震災と自身が最も強く向き合える言葉を生み出した力強さ。その上で『関揺れる』からしっかりと立ち上がってくる主体の姿を改めて眩しく思う。


俳句時評 第99回 教育としての俳句に関わる全てのおとなへ 樫本由貴

2018年07月07日 | 日記

▼6月14日発売の『俳句αあるふぁ』2018年夏号(毎日新聞社)に、俳句賞「25」のリポートが掲載されている。この賞の大きな特徴は、既存の高校生対象の大会・賞の“空白期間”である2月に締め切りを設定したことだ。実行委員長の小山玄黙は「いわゆる「俳句甲子園オフシーズン」に、高校生を奮闘させる仕掛けが必要なのであった。」と、自らの高校生活を踏まえて書く1 。自分たちの経験した空白期間、いわば俳句に対する熱が冷めていた 勿体ない期間を無くすために、その期間に賞を作ってしまうという大胆さは、青天の霹靂であった。部活動という教育活動の空白期間を、俳人の側から埋めていくことで、生徒に、より密度の高い言語生活環境を提供したといえるだろう。


『俳句』6月号(角川文化振興財団)には、阪西敦子が江東区の小・中学生を対象とした「きらり☆こうとう俳句祭」に関する時評を書いている。時評の中で阪西は、中学生になると、提出される句に「モラルにおける類似」(例:自然の摂理を説く内容)が現れ、それは教師や指導者が、多忙さゆえに「リズムが良く、安定した内容を持った句を選ぶ」ことに起因するのではないかと指摘する。教える側の要望を忖度して、俳句で重要な「書きたくなるようなこれまでにない何かを発見する」ことを疎かにしてほしくない、ものを見て「自由に語らうこと」の視点を子供たちに与えられるのは、「学校にいない者、こどもたちの身近にいる者こそ」なのではないかという論旨には、おおむね同意できる。行政や教育に携わる大人が、俳人を招いて、児童・生徒に自身の暮らす土地で育まれた伝統的な言語文化に親しんでもらう講座を実施することは子供たちにとって上質な経験となるだろう。

だが、今後、これらのような活動は希少で得難いものとなることを強調しておきたい。

▼俳句が言語文化である以上、国語教育とは切っても切れない関係にある――と、思っているのは“俳句の側”だけかもしれないからだ。

▼例えば、平成34年度から施行される、高等学校・次期学習指導要領に触れよう。本改定で、高等学校国語科の科目は大きく変更された。一年次には共通必修科目として「現代の国語」「言語文化」(各2単位)が設けられ、二年次・三年次には「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」(各4単位)から2つの科目を選択することとなる。俳句は、現行の教科書では、高校三年間にまたがって「国語総合」「現代文B」2に掲載されている 。次期学習指導要領でも、共通必修科目はもちろん、二、三年次で使用する教科書では「文学国語」か「国語表現」に掲載されるだろう。問題は、大学受験を目指す生徒の多い普通科高校が果たしてこの2つを選択するか、ということだ。現在、学校教育は社会の要請に応じ、「国際化」に向けて論理的思考力を持った人間の育成に力を傾けている。実用的な文章(マスメディア、評論文といったもの)を読み、理解し、それを応用させ、主体的・対話的に他者とコミュニケーションが取れる人物の育成3 ――となると、二、三年次には「論理国語」が現代文を扱う科目として選択される。そして、もう一科目は「我が国の言語文化の担い手としての自覚を持ち、生涯にわたり国語を尊重」4 する態度を育成するために(そして大学受験に対応するために)、「古典探究」が選択されることは大いに予想できる。

つまり、次期学習指導要領が施行されれば、普通科高校に通う生徒が俳句を教科書で見る機会はともすれば高校一年生で終了し、俳句どころか、小説などの文学的文章に触れる機会さえ格段に減る。そして、科目として取り扱われないということは、生徒だけでなく、教員もまた、俳句に関わる時間を失うということだ。そういった土壌で、果たしてこれまで学校教育に、部外者でありながら、子供たちや教育関係者と学校という枠内で関わることができていた俳人は同じようにいられるだろうか。

今年の俳句甲子園では、出場校が規定に満たなかったため、例年開催されてきた北海道での地方大会が開催されず、去年開催されていた宮崎大会も同様の理由で非開催となった5 。全体のエントリー数も、第20回は159チーム、第21回は143チームと減少している 6。要因は様々あろうが、私は今後、社会全体の部活動の時間を削減しようという動きに加え、先に述べた科目変更の影響も受けるだろうとみている。

わざわざ俳句と関わることで、子供たちは何を得られるのか。これからは、魔法の言葉――「感性や情緒を養える」の一言だけでは、私たちが協力関係を築かねばならない大人を動かすには不十分なのである。今後は、そもそも子供たちに俳句の場を提供したいのならば、子供たちを取り巻く文化を向上させる努力を払い、そして、そのための努力をすでに積み重ねている教育の大人との連携を図らねばならない。また、安全面の問題もある。これについて、私はTwitterで何度か呟き、それを堀下翔がまとめてくれている 7。要約すると、俳句の大人は俳句の大人に過ぎず、教育の大人のように、生徒に何かあったとき、責任をとることは到底かなわないということである。

以上のような現状を認識せず、「俳句」という伝統文化に胡坐をかき、目の前の協力者を、俳句と子供を出会わせる際の「壁」と捉えるばかりで、そもそも対等に見られない大人は、もはや教育の場にふさわしくないだろう。

俳句賞「25」の実行委員会は、その点、良い意味で必死だった。大学生が様々な大人の協力を得るために奮闘したことは容易に察しが付くし、「高校生に場を作る」目的を最優先し、2月に締め切りを設定するという賭け8 に出たことも成功を収めた。運営の主軸が大学生だったために、賞の実行委員会だという驕りを自制できたのかもしれない。しかし、裏返せば“大学生”は、大人と同等の責任はとれないということでもある。教育と連携し続けるためには、これからの活動で大人の信頼を勝ち取る必要がある。継続こそ最大の難関だということは、小山を始めとした実行委員会一同、すでに承知のことだろうが、一言書き添えておきたい。

「きらり☆こうとう俳句祭」の活動などは、俳句の大人と教育の大人が場を作り続けていくモデルとしてすでに成功している。あとは、先に述べたような誠実な態度を持ち大人同士の良い関係を築き上げてもらいたい。

これから8月に向けて盛んになる全ての教育的俳句活動に関わる俳句の大人も、体制ができた後は、腐らず、懸命に、誠実に、子供たちの生活を豊かにする一助となることを信じて、教育と対等に関わる姿勢でいてほしい。その大人同士のやり取りを、子供は見ているのだから。
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1 小山玄黙「続ける幸せ―俳句賞「25」設立の背景―」
2 教科書編修趣意書 高等学校 国語http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/tenji/1371186.htm
3 高等学校学習指導要領の改訂のポイント http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/__icsFiles/afieldfile/2018/04/18/1384662_3.pdf
4 高等学校学習指導要領http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2018/04/24/1384661_6_1.pdf
5 俳句甲子園公式HP http://www.haikukoushien.com/list/index.php/topics/2648/
6 俳句甲子園公式HP http://www.haikukoushien.com/list/wp-content/uploads/2018/05/2018entry-list.pdf
7 「俳句甲子園指導の心構え」https://togetter.com/li/1226046
8 学校での部活動は、運動部文化部に関わらず、4月に入学した一年生も含めて実力・チームワークが固まり始める8月に一番の盛り上がりを見せる。夏休みということもあり、応募手続きをしなければならない教員も比較的時間を割ける期間なので、各種文芸コンクールの締め切りも8月設定のものが多い。