素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

大阪マラソンまであと31日、参加案内等をダウンロードする。

2014年09月25日 | 日記
 第4回大阪マラソン組織委員会からのメールが入っていた。スポンサー企業からの関連メールがよくあったのでうっかり削除してしまうところだった。
今は、学校現場での指示、伝達などはメールになっていると聞いた。定期的にファイルを開いてチェックする習慣がやっとついてきたと先日お会いした方から聞いたところだ。

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◇◇ 第4回大阪マラソン参加案内等のお知らせ ◇◇
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 今大会から参加案内・ナンバーカード引換証・健康チェックリストの郵送を取りやめ、インターネット経由での配信としましたので、参加されるみなさまには、大会ホームページのマイページからこれらをダウンロードしていただきますようお願いいたします。
 2014年10月24日(金)・25日(土)のランナー受付へ、ナンバーカード引換証・健康チェックリストを必ず印刷(A4サイズ両面)してお持ちの上ご来場ください。


 「大会案内など郵送してくれないのや」と時代の変化を感した。郵便受けから封筒を取り出し、封を開くことで大会の近づいてきたと気分を新たにするのだが、経費節減などを考えれば致し方ないか。

 ナンバーカード引換証をプリントアウトしてゼッケンンナンバーJ21106を見ると気も引き締まる。

 ジムへ行くと今回の大阪マラソンに落選したHさんと会った。「あと1ヶ月、あまり無理をしないように」と気遣ってくれた。Hさんは来年の1月25日にある第34回大阪国際女子マラソンと同時開催される大阪ハーフマラソンにエントリーしたとのこと。

 ヤンマースタジアム長居を出発する大阪国際女子マラソンと同時に大阪城公園東側をスタートしてヤンマースタジアム長居でフィニッシュするので、
女子マラソンと同じコースを走る部分が多く、女子マラソンのランナーも口にする“大阪の沿道の元気な声援”をもらいながら、国際大会の熱気、興奮を感じながら走るのが楽しみだと言っていた。

 ただ、女子マラソンが折り返してきてヤンマースタジアム長居でフィニッシュするので、制限時間が2時間と厳しい。時速10kmではアウト!だから私などはとても無理である。Hさんは「きついけれど、達成感がまた違うのでは」と目標ができて見違えるほどいきいきとした顔をしていた。

 目標を持つというのは大切なことであるとあらためて思った。


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キクイモ

2014年09月24日 | 日記
 「キクイモが倒れそうや」と外から妻の声がした。中国南東部の海岸まで北上した台風16号が直角に進路を変えて接近してくるという予報もあり、植木鉢の確認をしていたのである。窓から見ると3m余りにまで伸びたキクイモが風でユラユラと揺れていた。隣の家の方に倒れていったらやっかいなので何とかしなければならない。「やれやれいつまでも迷惑なキクイモや」と思わず口に出た。
 キクイモの存在を知ったのは5年程前に法隆寺へ行った帰りに立ち寄った地産地消を売りにしている店であった。「天然のインシュリン」というふれこみで並んでいた。当時、妻が血糖値上昇を気にしていたこともあり、試しに買ってみた。効用のほどはさだかではないが、くせもないのでスライスしてサラダや甘酢漬けでよく食べた。こちらの方では見かけなかったので奈良県の特産かなと思っていた。

 交野で初めて見たのは環境フェスタでの有機農業をしている団体のテントであった。そこで、どこでも栽培できる強いものだということを教えてもらった。「ただし、ものすごく背が高くなるので畑の隅に植えないと他の作物がやられてしまう」と念を押された。

 家でも2年ほど作ってみたが、思うようにイモが収穫できなかったので今年はやめていたのにかかわらず、いつの間にか勝手にグングン成長してきた。土の中にイモが残っていたのだろう。そうとは知らずに植えていたキュウリやトマトを圧迫する勢いだったので抜こうとしたが、妻が「せっかくだから、せめて花を見てから」と言ったのでそのままにしておいた。

 この温情が仇となった。この夏よく聞いた『これまでに見たことのない』という前置きがつく成長ぶりでキュウリはそのため全滅。トマトも半減というありさま。
  花も高い所で咲き、見栄えもしない。とりあえず隣に倒れ掛かって迷惑かけないようにして花の季節が終わったら畑の大改修をしようと思っている。キクイモの栽培は専門家にまかせ店で買うにかぎる。これがここ5年で得た教訓。
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そろそろ朝井まかてワールドに!『恋歌』(講談社)を開く

2014年09月23日 | 日記
昨日、Amazon.co.jpから新刊案内のメールが入った。朝井まかてさんの直木賞受賞後第一作『阿蘭陀西鶴』である。有川浩さん、三浦しをんさんと寄り道をしていたが、このメールで軌道修正された。内容紹介だけでもググっと心が惹かれた。

内容紹介

「好色一代男」「世間胸算用」などの浮世草子で知られる井原西鶴は寛永19年(1642)生まれで、松尾芭蕉や近松門左衛門と同時代を生きた俳諧師でもあり浄瑠璃作者でもあった。俳諧師としては、一昼夜に多数の句を吟ずる矢数俳諧を創始し、2万3500句を休みなく発する興行を打ったこともあるが、その異端ぶりから、「阿蘭陀流」とも呼ばれた。
若くして妻を亡くし、盲目の娘と大坂に暮らしながら、全身全霊をこめて創作に打ち込んだ西鶴。人間大好き、世間に興味津々、数多の騒動を引き起こしつつ、新しいジャンルの作品を次々と発表して300年前のベストセラー作家となった阿蘭陀西鶴の姿を描く、書き下ろし長編時代小説。
芭蕉との確執、近松との交流。娘と二人の奇妙な暮らし。
創作に一切妥協なし。傍迷惑な天才作家・井原西鶴とは何者か?


 一冊残しておいた『恋歌』を読まなければと本棚から取り出した。
  目次には魅力的な言葉が並ぶ。序章を読み終えたが、今までの5冊、「花競べ向嶋なずな屋繁盛記」「先生のお庭番」「すかたん」「ちゃんちゃら」「ぬけまいる」とは時代設定もテーマも異なり、別人のような印象を受ける。直木賞受賞作だが、余分な情報は入れず、純粋に趣きの違うワールドを楽しみたい。

 次に、西鶴がひかえていると思うとワクワク感が増す。いいタイミングの案内メールであった。
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♪里の秋♪の3番にオヤッ!?

2014年09月22日 | 日記
 『BS日本・こころの歌』でフォレスタの歌声をBGMに「余録」の書き写しをしていた。♪しずかな しずかな ~ ♪と始まった。♪里の秋♪である。いつもの9月だと残暑も厳しく、熱帯夜もあり「暑さ寒さも彼岸まで」と言いながら秋の訪れを待つのだが、今年は「扇風機をもうしまってもいいのでは」とか「運動会の練習で熱中症というニュースがないね」などと早々と秋モードになってきている。

 「♪里の秋♪がピッタリマッチする夜やなあ」と思いながら「余録」を書き進めていた。秋を代表する歌だが、私は1番の♪しずかな しずかな 里の秋  おせどに木の実の 落ちる夜は ああかあさんと ただ二人 栗の実 にてます いろりばた♪しか記憶に残っていない。

 フォレスタは省略することなく歌うので2番以後少し歌の方に意識が向いた。
♪あかるい あかるい 星の夜  なきなきよがもの 渡る夜は ああとうさんの あのえがお 栗の実 食べては おもいだす♪ 

 秋が深まりゆく山里の静かな生活を歌った歌というイメージあり、2番で「お父さんがいないんやな」と思い、真っ先に出稼ぎ、次に山の事故か何かで早逝したのかと考えた。

 そして3番が始まった。 ♪さよなら さよなら 椰子の島~♪ ここで「エッ!?何で椰子の島???」と書く手は止まり、画面に集中した。 ♪お舟にゆられて かえられる ああとうさんよ ご無事でと 今夜も かあさんと 祈ります♪

 1番、2番とのギャップに頭の中は???が100%。「余録」どころではなくなり、すぐに調べた。いろいろな資料にあたった結果、次のようなことがわかった。

 もともとは、「里の秋」ではなくて「星月夜(ほしづきよ)」という題名で、太平洋戦争が始まった昭和16(1941)年に、斎藤信夫が東北の田舎を舞台に戦地の父への慰問文として書いたものである。

 それを、当時無名であった作曲家の海沼實のもとへ送ったが、海沼からは何の反応もなく、曲がつかないまま月日が過ぎ去った。

 1番、2番は今の「里の秋」と同じだが、3番、4番は異なっていた。太平洋戦争が始まろうとしていた時代が強く反映されていた。

(3番) きれいな きれいな 椰子の島     (4番)大きく 大きく なったなら
しっかり 護って くださいと         兵隊さんだよ うれしいな
ああ 父さんの ご武運を           ねえ 母さんよ 僕だって
今夜も ひとりで 祈ります          必ず お国を 譲ります
  


 終戦となり、国民学校の教師をしていた斎藤は、自分が子どもたちに教えてきたことに対して自責の念にかられ教師をやめぶらぶらとしていた。そんな斎藤に海沼からすぐに会いたいという電報が届いた。

 南方からの復員兵を乗せた第一船が1週間後に神奈川県の浦賀港に入港することを受け、JOAK(現NHK)では「外地引揚同胞激励の午後」というラジオ番組の中で「兵士を迎える歌」を流すことになった。

 その歌の作曲を依頼された海沼は、適当な詞を古い童謡雑誌などで調べているうちに以前送られてきていた斎藤の「星月夜」に目がとまった。

 1番、2番はともかく3番、4番はこのままでは使えない内容なので3番、4番に替えて新たな3番を斎藤に依頼した。

 四苦八苦してようやく放送の当日にできたのが、私の≪オヤッ!?とアンテナ》にひかかったものである。曲名も海沼の提案で「星月夜」から「里の秋」に変更された。

 昭和20(1945)年12月24日の番組で初めて川田正子によって歌われた♪里の秋♪は大反響を呼び、翌年に始まったラジオ番組「復員だより」の曲として使われた。

 今日の『BS日本・こころの歌』のテーマは《時代》であった。最初はこのテーマともそぐわないなと思ったが、曲ができるまでの背景を知ると♪里の秋♪が選ばれたことに納得した。単なる抒情歌ではないのである。そういうことをふまえて川田正子さんの歌を聴くと今までとは違う感慨を覚える。

里の秋_川田正子さん
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寝屋川公園往復新10kmコースようやく記録更新

2014年09月21日 | 日記
 寝屋川公園往復新10kmコースのベスト記録は2013年4月23日の58分40秒である。この時は3月3日に寝屋川ハーフマラソン(2時間12分45秒)、3月10日に京都マラソン(4時間58分20秒)、4月7日に交野チャリティーマラソン10km(57分42秒)と連続して大会に出場した後だった。代表幹事さんからも走り過ぎを心配され、警告もされていたのでケアと休養については細心の注意をはらっていた。

 おかげで3つの大会を無事乗り切り、4月23日に1時間を切ったので、古傷である左膝は完治したと思った。そして12月上旬の奈良マラソンにエントリーできたので欲を出してしまった。生駒山管理道の存在を知り、7月後半から8月前半に12Kmと18Kmを2回ずつ計4回詰めて走ってしまった。今、思えばこれが致命的なミスである。3月から4月の疲労を抜くべき時期に追い込んでしまったため一番弱い左膝が悲鳴をあげたのは当然の成り行きだった。

 気持ちが高揚している時は体の疲労に気づかないのである。「調子の良い時ほど、休養をしっかりとる」というのが得た教訓である。

 2013年8月20日に寝屋川公園往復新10kmコースを1時間15分36秒かかった時に、気持ちとは裏腹に体のほうは限界に来ていると気づくべきであったが、ジムのランニングマシーンでハイペースの走りを続けてしまった。8月末には歩くのも苦痛な状態になった。

 再び新10kmコースを走るというより歩くことができるようになったのが7ヶ月後の2014年3月29日である。2時間2分24秒かかった。その後7日~10日ぐらいあけながら1km7分というペース(10km1時間10分)を一応の目標にしつつ無理のないペースで走りを重ね、6月2日にやっと10分を切る1時間8分44秒で完走できた。故障する前の自分であればここで一気に記録を縮めようとしただろうが、一年前に失敗した夏場、無理をしないで休養をとりながらバランスの良いトレーニングを心がけた。

 今日2週間ぶりに新10kmコースを走った。記録は二の次で久しぶりの外走りを楽しむつもりであったが、気象条件が良かったこともあり後半になっても体がよく動き失速しなかった。結果1時間8分10秒と30秒余り6月2日の記録を縮め、復活後の新記録となった。6月は余力ゼロという感じでゴールしたが、今日はゴール後ペースダウンをして22分間フリーランニングを楽しむ余裕があった。体全体のスタミナがついてきていることが実感できた。金哲彦さんが大切だと言っている週1回の90分間走もできたので良かったと思っている。

 何度か書いた故障の話をしつこく書いたのは、調子に乗りすぎて追い込むことへの戒めを込めている。

 

 

 
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