《視点・論点》は各界の有識者や専門家が、世相や時代の潮流を読むオピニオン番組で、国内外の諸問題をはじめ、科学・文化・現代芸術などテーマは多岐にわたる。さまざまな視点から さまざまな論点で "今"を見つめ直し、10分間という短い時間の中で、過度な演出を廃し直接語りかけるというシンプルなスタイルがかえって新鮮で愛聴している。
その元原稿をまとめた『なつかしい時間』は1つのテーマが新書の2~3ページほどなのでジムの有酸素運動の時読むのに好都合である。昨日、10kmの外走りをしているので、今日はひざに負担のかからないアークを60分間おこなった。『なつかしい時間』と『日本史の謎は「地形」で解ける』の2冊を気分にまかせて読みながら単調な運動の退屈さを紛らわした。
『なつかしい時間』の中の《異世代と同時代》という話がとても面白かった。1996年11月26日の放送となっているから17年余り前に書かれたものだが、今の方がもっと切実に響くのではないかと感じた。
幸田露伴の「人事予測表」や夏目漱石の「吾輩は猫である」を例に取り上げながら、明治の終わりごろは談話そのものが物語を発展させてゆく、座談小説が盛んに書かれていたと指摘する。そう言われれば国木田独歩の「牛肉と馬鈴薯」もそうだなとか小説ではないが中江兆民の「三粋人経綸問答」なども談論風発、丁々発止の談話を楽しんだことを思いだした。
露伴は、座談というのは「変な事」を、みんなでおおいに論じることで、それがもっとも大事なことだと言っている。長田さんは、そういう座談というものが、今、日常めったに見られないものになっていると指摘する。
座談ではなくて会議、討論というふうにどこを向いても「変な事」が話せないような話の仕方、話の交わし方が普通になっているという。それぞれの家庭でも「変な事」を話す団欒という座談のようなかたちは消えつつある。「変な事」を私は「取り留めもないこと」と言い換えるが、確かに減っていると思う。その結果、「世代」という物差しが、いまはあらゆることがら、あらゆる出来事を測る目盛りになっていると長田さんはいう。
《学校、会社、仲間、みんな世代で輪切りにされて、商品から文化まで、社会の問題のどんなことも、「世代」の問題として語られ、「同世代」ということがなにより優先されて考えられるようになって、それぞれに違う世代の経験は、時代が違うとして、おたがいに簡単に斥けあってしまう。》
「同世代」「異時代」という線引きによって、私たちの社会は寸断されているが、社会を生き生きとしたものとするのは、「異世代」同士による「同時代」の共有である。という指摘は鋭いと思った。
教育現場でも研修会は数多く企画されているが、それだけでは伝えられないものがある。それらを補うのが「異世代」による雑談である。とりとめもないちょっとしたやりとりの積み重ねが大きな財産となって残っていくように思う。その余裕と時間が失われてきているという嘆きもよく聞く。
長田さんは、こう締めくくっている。
《違った世代が同時代を共有する。そのことの大切さがなくてはならないものとして求められなければ、わたしたちは大切な何かを、かつては未来と呼ばれていたものを、これからも失いつづけることになるのかもしれません》
指摘から17年余り経った今、職場の人間関係とか技術の伝承とか深刻な問題が広がっている。また、商品や文化を供給する側はますます「世代」を特化して戦略を立てる傾向が強くなっている。その裏返しが「絆」という言葉の氾濫じゃないかと思う。
、「異世代」同士による「同時代」の共有。 からの発想がキーになると思った。まさに「コレだ!」である。
その元原稿をまとめた『なつかしい時間』は1つのテーマが新書の2~3ページほどなのでジムの有酸素運動の時読むのに好都合である。昨日、10kmの外走りをしているので、今日はひざに負担のかからないアークを60分間おこなった。『なつかしい時間』と『日本史の謎は「地形」で解ける』の2冊を気分にまかせて読みながら単調な運動の退屈さを紛らわした。
『なつかしい時間』の中の《異世代と同時代》という話がとても面白かった。1996年11月26日の放送となっているから17年余り前に書かれたものだが、今の方がもっと切実に響くのではないかと感じた。
幸田露伴の「人事予測表」や夏目漱石の「吾輩は猫である」を例に取り上げながら、明治の終わりごろは談話そのものが物語を発展させてゆく、座談小説が盛んに書かれていたと指摘する。そう言われれば国木田独歩の「牛肉と馬鈴薯」もそうだなとか小説ではないが中江兆民の「三粋人経綸問答」なども談論風発、丁々発止の談話を楽しんだことを思いだした。
露伴は、座談というのは「変な事」を、みんなでおおいに論じることで、それがもっとも大事なことだと言っている。長田さんは、そういう座談というものが、今、日常めったに見られないものになっていると指摘する。
座談ではなくて会議、討論というふうにどこを向いても「変な事」が話せないような話の仕方、話の交わし方が普通になっているという。それぞれの家庭でも「変な事」を話す団欒という座談のようなかたちは消えつつある。「変な事」を私は「取り留めもないこと」と言い換えるが、確かに減っていると思う。その結果、「世代」という物差しが、いまはあらゆることがら、あらゆる出来事を測る目盛りになっていると長田さんはいう。
《学校、会社、仲間、みんな世代で輪切りにされて、商品から文化まで、社会の問題のどんなことも、「世代」の問題として語られ、「同世代」ということがなにより優先されて考えられるようになって、それぞれに違う世代の経験は、時代が違うとして、おたがいに簡単に斥けあってしまう。》
「同世代」「異時代」という線引きによって、私たちの社会は寸断されているが、社会を生き生きとしたものとするのは、「異世代」同士による「同時代」の共有である。という指摘は鋭いと思った。
教育現場でも研修会は数多く企画されているが、それだけでは伝えられないものがある。それらを補うのが「異世代」による雑談である。とりとめもないちょっとしたやりとりの積み重ねが大きな財産となって残っていくように思う。その余裕と時間が失われてきているという嘆きもよく聞く。
長田さんは、こう締めくくっている。
《違った世代が同時代を共有する。そのことの大切さがなくてはならないものとして求められなければ、わたしたちは大切な何かを、かつては未来と呼ばれていたものを、これからも失いつづけることになるのかもしれません》
指摘から17年余り経った今、職場の人間関係とか技術の伝承とか深刻な問題が広がっている。また、商品や文化を供給する側はますます「世代」を特化して戦略を立てる傾向が強くなっている。その裏返しが「絆」という言葉の氾濫じゃないかと思う。
、「異世代」同士による「同時代」の共有。 からの発想がキーになると思った。まさに「コレだ!」である。
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