素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

小春日和 忍陵(しのぶがおか)神社へ

2022年01月10日 | 日記
 11時からN-oneの1ヶ月点検を予約していたのでフリーになったのは昼から。小春日和、こんな日にジムの中で過ごすのはもったいない気がして自転車で気ままに走ることにした。

 家から4km内にある神社はほぼ参拝しているが、学研都市線忍ヶ丘駅の駅名の由来となっている忍陵(しのぶがおか)神社だけは訪れる機会がなかった。駅からは400m足らずの高台にあり車窓からはこんもりとした緑になっている。由緒ある神社だろうと思いつつなぜかスルーしていた。

 ひとまずここを目指すことにした。20分足らずで到着。石段を上がると先日登った飯盛山がきれいに見えた。
 
 神社の由緒を読むと「式内社」とあった。平安時代に、国に認められて正式に神社として把握、登録されていた神社である。

 平安時代の中期、西暦にして927年頃に、増加の一途であった神社を管理するための法律(律令)、「延喜式(えんぎしき)」が制定された。その延喜式の第9巻上巻である「神名帳(上)」と、第10巻下巻である「神名帳(下)」に記された神社が式内社である。 全部で2861社が式内社に名を連ねていた。

 平安の昔にはすでに神社として国の認可を得ていたのだから長い歴史を誇る由緒正しい神社と言える
  
 境内の案内板に「忍岡古墳」とあった。もともとここは4世紀中ごろの古墳時代に作られた全長87mの前方後円墳があった。

  昭和9年(1934年)、室戸台風により社殿が倒壊した。その修復作業中に前方後円墳の竪穴式石室が発見され、「忍岡古墳」と名附けられた。昭和47年(1972年)3月31日、忍岡古墳の石室が大阪府指定文化財に指定された、とあった。

 また、三好長慶が飯盛山城を居城とした永禄3年(1560年)頃に飯盛山の北東にある忍岡古墳の丘陵を利用して築かれた支城として岡山城が造られた。永禄、天正年間には当時の城主である結城氏が熱心なキリシタンで、キリシタン信仰の拠点となる。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、徳川方の本陣として同地が使われたようだが、その面影は残っていない。

 長い歴史の中でこの地が要所であったことは確かだ。そこで、四條畷市立歴史民俗資料館へ行くことを決めた。退職したすぐの頃、東高野街道を歩いた時に立ち寄った記憶がある。記憶をたよりに住宅地の中の迷路のような細い道路を走った。資料館は本来月曜日が休館だが、今日は成人の日の祝日なので開館していた。ラッキーだった。
 
 小ぢんまりとしているが、旧石器~縄文時代から鎌倉~安土桃山時代までの四條畷市で発掘されたものや資料などが展示されていて面白かった。飯森城関連の資料もあり得した気分で帰る。
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