井上ひさしさんの書かれたものを読む機会が最近多くなった。平田オリザさんとの対談をまとめた「話し言葉の日本語」では、日本語の魅力、むずかしさ、それらを駆使して創る演劇の話などが縦横無尽に語られている。こまつ座の公演を見るチャンスがなかなかなかった。
本の中の注釈に“こまつ座”:1984年、井上氏を「座付き作者」として、『頭痛肩こり樋口一葉』で旗揚げ。名前の由来は、井上氏の故郷が山形県小松町(現・川西町)であることから。公演ごとに発刊する雑誌『the座』は、公演のテーマに沿った特集が充実しており、公演パンフレットの域を超えた出色のものである。とあった。
『頭痛肩こり樋口一葉』はかなり前に見る機会があったが、こまつ座ではなかったように思う。それ以後井上さんの作品を舞台で見ることはなかった。本の中で語られていることは、生の舞台を見ることを通して理解が深まるのではないかという思いが強くなった。また雑誌『the座』についても興味を持った。
昨日、今日と大阪のシアター・ドラマシティーでこまつ座公演『キネマの天地』があることを知り、うまくチケットもとれたので出かけた。平日の昼に自由の身であるというのはありがたい。対談の中で、平田さんの「井上さんもあまり稽古場では口を出さない?」という問いかけに答えて「本を渡したあとは、何も言いません。口出しは、一切しないようにしています。渡した以上、その芝居は僕の手を離れて、俳優のものになったり、演出家のものになったり、そして最後はその芝居を見てくれたお客さんのものになると思っていますから。幸いにも、こまつ座の場合は、木村光一、鵜山仁、栗山民也といった名演出家が揃っていますし、僕が何をおもしろがっているかを知っていますから、安心しておまかせしています。
それに、役者さんたちの身体によって、せりふが思った以上によく響いたりもしますし、そんなときは役者さんを拝みたい気持ちです。・・・」と語っている。その栗山民也さんの演出である。
栗山さんは『the座』の中で、この作品について “誰より演劇を愛した作家による俳優論” と題して書いている。
『・・・・・また、この作品は井上ひさしの俳優論であり演技論だと思う。先に挙げた小さな変転を繰り返す劇構造をたどっていくと、そこには「演技」と「素」の間を往還しなければ生きられない俳優の業と、常に演じることを余儀なくされる人間の性(さが)のようなものが浮かび上がってくる。そこは、構造やトーンは異色でも「本物の人間を描く」というその一点に関して、やはり井上作品以外の何ものでもないことは確かだ。
その作家人生において、多彩な俳優に向け書き続けた井上さんの、理想の俳優とはどんなものか。ながく仕事をさせていただき、今作初演では井上さんの演出助手も務めた私だが、残念ながら直接それを聴く機会はなかった。・・・・・・井上さんにとって、俳優の出自やジャンルは恐らく問題ではなかったのだろう。求めることはただひとつ、「ちゃんと言葉が喋れる」こと。台詞が持つ意味と意図、作家が求める「音」を理解し、発語する。これは容易なことではない。そしてさらに加えるならば「見事に化ける」ことではなかったか。・・・・・・
他のどの作品より『キネマの天地』では、井上さんから俳優へシビアな要求が書かれているように思う。ここで俳優に求められているのはテキストの体現レベルではなく、すべての台詞と動きを「確かに俳優ならば、こんなときこうするに違いない」と観客に納得させることだからだ。言葉で説く演技論ではなく、感情表現から舞台での居方までを演技論として成立させる。それが今作で俳優に課せられた使命だろう。・・・・・』
麻美れい、三田和代、秋山奈津子、大和田美帆、木場勝己、古川耕史、浅野和之の七人の俳優が、劇の中で語られた「芝居はひとりじゃできやしない、アンサンブルである」ということを、銀幕や舞台からはうかがい知ることのできない俳優の裏の部分を面白おかしく表現しながら伝えてくれた。対談の中で井上さんは 「・・・簡単に言うと、せりふは文学だと思うんですよね。そしてト書きは演劇である。・・・」 と言っているが、浅野さん演じる映画監督小倉虎吉郎に、ここという場面でビシッと言わせている。
物語は二転三転していくが、詳しく書くとネタバレする。実際に見てだまされ、笑いそしてホロリとすればよい。私は見事にだまされた。
詳細は決まっていないみたいだが、来年の3月に森ノ宮ピロティホールでのこまつ座公演(作:井上ひさし 演出:鵜川仁)『雪やこんこん』が決定したとのことである。タイミングがあえばいいなあと思っている。
本の中の注釈に“こまつ座”:1984年、井上氏を「座付き作者」として、『頭痛肩こり樋口一葉』で旗揚げ。名前の由来は、井上氏の故郷が山形県小松町(現・川西町)であることから。公演ごとに発刊する雑誌『the座』は、公演のテーマに沿った特集が充実しており、公演パンフレットの域を超えた出色のものである。とあった。
『頭痛肩こり樋口一葉』はかなり前に見る機会があったが、こまつ座ではなかったように思う。それ以後井上さんの作品を舞台で見ることはなかった。本の中で語られていることは、生の舞台を見ることを通して理解が深まるのではないかという思いが強くなった。また雑誌『the座』についても興味を持った。
昨日、今日と大阪のシアター・ドラマシティーでこまつ座公演『キネマの天地』があることを知り、うまくチケットもとれたので出かけた。平日の昼に自由の身であるというのはありがたい。対談の中で、平田さんの「井上さんもあまり稽古場では口を出さない?」という問いかけに答えて「本を渡したあとは、何も言いません。口出しは、一切しないようにしています。渡した以上、その芝居は僕の手を離れて、俳優のものになったり、演出家のものになったり、そして最後はその芝居を見てくれたお客さんのものになると思っていますから。幸いにも、こまつ座の場合は、木村光一、鵜山仁、栗山民也といった名演出家が揃っていますし、僕が何をおもしろがっているかを知っていますから、安心しておまかせしています。
それに、役者さんたちの身体によって、せりふが思った以上によく響いたりもしますし、そんなときは役者さんを拝みたい気持ちです。・・・」と語っている。その栗山民也さんの演出である。
栗山さんは『the座』の中で、この作品について “誰より演劇を愛した作家による俳優論” と題して書いている。
『・・・・・また、この作品は井上ひさしの俳優論であり演技論だと思う。先に挙げた小さな変転を繰り返す劇構造をたどっていくと、そこには「演技」と「素」の間を往還しなければ生きられない俳優の業と、常に演じることを余儀なくされる人間の性(さが)のようなものが浮かび上がってくる。そこは、構造やトーンは異色でも「本物の人間を描く」というその一点に関して、やはり井上作品以外の何ものでもないことは確かだ。
その作家人生において、多彩な俳優に向け書き続けた井上さんの、理想の俳優とはどんなものか。ながく仕事をさせていただき、今作初演では井上さんの演出助手も務めた私だが、残念ながら直接それを聴く機会はなかった。・・・・・・井上さんにとって、俳優の出自やジャンルは恐らく問題ではなかったのだろう。求めることはただひとつ、「ちゃんと言葉が喋れる」こと。台詞が持つ意味と意図、作家が求める「音」を理解し、発語する。これは容易なことではない。そしてさらに加えるならば「見事に化ける」ことではなかったか。・・・・・・
他のどの作品より『キネマの天地』では、井上さんから俳優へシビアな要求が書かれているように思う。ここで俳優に求められているのはテキストの体現レベルではなく、すべての台詞と動きを「確かに俳優ならば、こんなときこうするに違いない」と観客に納得させることだからだ。言葉で説く演技論ではなく、感情表現から舞台での居方までを演技論として成立させる。それが今作で俳優に課せられた使命だろう。・・・・・』
麻美れい、三田和代、秋山奈津子、大和田美帆、木場勝己、古川耕史、浅野和之の七人の俳優が、劇の中で語られた「芝居はひとりじゃできやしない、アンサンブルである」ということを、銀幕や舞台からはうかがい知ることのできない俳優の裏の部分を面白おかしく表現しながら伝えてくれた。対談の中で井上さんは 「・・・簡単に言うと、せりふは文学だと思うんですよね。そしてト書きは演劇である。・・・」 と言っているが、浅野さん演じる映画監督小倉虎吉郎に、ここという場面でビシッと言わせている。
物語は二転三転していくが、詳しく書くとネタバレする。実際に見てだまされ、笑いそしてホロリとすればよい。私は見事にだまされた。
詳細は決まっていないみたいだが、来年の3月に森ノ宮ピロティホールでのこまつ座公演(作:井上ひさし 演出:鵜川仁)『雪やこんこん』が決定したとのことである。タイミングがあえばいいなあと思っている。
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