実在の人物の一代記は知らなかった歴史を掘り起こすという面の面白さはあるものの物語のフィクション性において必然的に制約があるので展開の意外性は期待できない。新しく始まった朝ドラ「まれ」は「てっぱん」「あまちゃん」「ごちそうさん」路線でドラマとして楽しめる。役者の布石が肝だと思うが、私好みの顔ぶれが多く、これからの展開に期待できる。
舞台の能登半島の景色も懐かしい。大学生になって友人3人と初めて本格的な旅行に行ったのが能登半島である。車の免許をとったばかりの友人の車で3泊4日の名古屋→福井→金沢→輪島→七尾→福井→名古屋と強行軍であった。思い出のアルバムを引っ張り出した。
「暑い」「忍耐」「バテた」という言葉がアルバムに10数個書いてある。当時は学生の身分でホテルや旅館に泊まるという発想はなかった。以前に書いたが鉄道であれば夜行列車の座席か通路もしくは駅のベンチや構内である。車だったので基本は野宿。テントとシュラフを積み込んでいた。
一日目の福井ではお寺の境内にテントを張らせてもらおうと住職に頼んだところ本堂を使って良いことになり仏様と一緒に寝ることになった。ラッキーなスタートを喜んだ。2日目の福井、金沢、輪島は過酷であった。猛暑だが、当時の車にはエアコンはついていない。しかも能登半島の道路は未舗装で砂ぼこりがもうもうと立つので窓を開けることができない。昼に食べようとスイカを1個買っていたが、能登金剛に着いた時は煮たっていて食べられてものではなかった。今思えばよくぞ熱中症にならなかったと思う。崖から眺める日本海の美しさは鮮明に覚えている。朝ドラでも随所に見ることができるが変わっていない。
ニ日目の輪島では小学校の校庭にテントを張らせてもらった。教育大生ということで宿直室によばれ当直の若い先生と話をした。内容は記憶にないが、のんびりとした古き良き時代であった。輪島から禄剛崎を経て七尾までの景色も圧巻だった。特に貝付島(別名軍艦島)はインパクトがあった。
3日目の宿泊は福井に戻ったが公園の遊具になっている土管となった。台風が接近してきていたことは後で知ったのだが、強風が土管の中を吹き抜けていたことも良き思い出。
『日本大地図』で当時のルートをたどってみたが若いから出来たという感じである。
そんなことも思い出しながら毎朝、「まれ」を楽しんでいる。
舞台の能登半島の景色も懐かしい。大学生になって友人3人と初めて本格的な旅行に行ったのが能登半島である。車の免許をとったばかりの友人の車で3泊4日の名古屋→福井→金沢→輪島→七尾→福井→名古屋と強行軍であった。思い出のアルバムを引っ張り出した。
「暑い」「忍耐」「バテた」という言葉がアルバムに10数個書いてある。当時は学生の身分でホテルや旅館に泊まるという発想はなかった。以前に書いたが鉄道であれば夜行列車の座席か通路もしくは駅のベンチや構内である。車だったので基本は野宿。テントとシュラフを積み込んでいた。
一日目の福井ではお寺の境内にテントを張らせてもらおうと住職に頼んだところ本堂を使って良いことになり仏様と一緒に寝ることになった。ラッキーなスタートを喜んだ。2日目の福井、金沢、輪島は過酷であった。猛暑だが、当時の車にはエアコンはついていない。しかも能登半島の道路は未舗装で砂ぼこりがもうもうと立つので窓を開けることができない。昼に食べようとスイカを1個買っていたが、能登金剛に着いた時は煮たっていて食べられてものではなかった。今思えばよくぞ熱中症にならなかったと思う。崖から眺める日本海の美しさは鮮明に覚えている。朝ドラでも随所に見ることができるが変わっていない。
ニ日目の輪島では小学校の校庭にテントを張らせてもらった。教育大生ということで宿直室によばれ当直の若い先生と話をした。内容は記憶にないが、のんびりとした古き良き時代であった。輪島から禄剛崎を経て七尾までの景色も圧巻だった。特に貝付島(別名軍艦島)はインパクトがあった。
3日目の宿泊は福井に戻ったが公園の遊具になっている土管となった。台風が接近してきていたことは後で知ったのだが、強風が土管の中を吹き抜けていたことも良き思い出。
『日本大地図』で当時のルートをたどってみたが若いから出来たという感じである。
そんなことも思い出しながら毎朝、「まれ」を楽しんでいる。
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