先の東日本大震災や今タイでの大雨による大洪水の影響で、部品の調達ができなくなり自動車を始め基幹産業といわれているものに深刻な影響が出ているというニュースがメディアで報じられている。
それらを見聞きしている時、吉野源三郎さんの『君たちはどう生きるか』という本のことが思い浮かんだ。中学生年代を対象に書かれた本ではあるが名著だと思う。昭和44(1969)年に発行されたものだが、原本は昭和12(1937)年に出版されている。“あとがき”で吉野さんは次のように書いている。
『君たちはどう生きるか』という、この作品がはじめて出版されたのは、昭和12年(1937年)7月で、いまから32年前のことでした。それが、印刷も終わって、もうまもなく世の中に出ようとしていたとき、7月7日、北京の近くの盧溝橋で日本と中国と両国の軍隊の衝突がおこり、たちまちに大規模な戦争状態に移ってゆきました。長い日中戦争のはじまりでした。
この作品は、本来、山本有三先生の総編集で昭和10年の秋から出版をつづけていた『日本少国民文庫』という16巻の双書の中の一巻であって、このとき、すでに15巻の出版を終え、その最後に出版されたのでした。ですから、この双書は、日中戦争のはじまるギリギリの直前に完成されたわけで、リレーの競争でいえば16人のティームの最終のランナーとして、この作品がゴールに駆けこんだというわけです。
今日になってふりかえってみると、このとき最後のランナーがゴールに駆けこんだということは、偶然ながら大きな仕合せでした。日中の戦争がはじまると共に、日本ははっきりと軍国主義の時代に入り、出版・言論の自由はみるみるうちに狭められていって、数年後には、この双書さえ自由主義的だといわれて、出版ができないようになってしまいました。もう少し時期がおくれたならば、この双書も『君たちはどう生きるか』という作品も、生まれないでしまったろうと思われます。
物語は中学生の本田純一(あだ名がコペル君)君とおじさん(おかあさんの弟で大学を出たばかりの法学士)の間でかわされるやりとりで進んでいく。「人間分子の関係、アミ目の法則」というのはコペル君のつくりだした言葉である。
ある日、おじさんと一緒にビルの屋上から街を見下ろしていたコペル君の心に1つの変化が起きる。
霧のような雨は、話をしているふたりの上に、やはり静かにふりそそいでいました。チラチラとふるえながらおりてくる雨のむこうに、暗い市街がどこまでもつづいているばかり、そこには、人っ子ひとり、人間の姿は見えませんでした。しかし、この下には、うたがいもなく、なん十万、なん百万の人間が、思い思いの考えで、思い思いのことをして生きているのでした。そして、その人間が、まい朝、まい夕、うしおのようにさしたり引いたりしているというのです。
「ねえ おじさん。」 「なんだい。」
「人間て・・・・」と言いかけて、コペル君は、ちょっと赤くなりました。でも思い切って言いました。
「人間て、まあ、水の分子みたいなものだねえ。」 「そう、世の中を海や川にたとえれば、ひとりひとりの人間は、たしかに、その分子だろうね。」
その後、コペル君とおじさんはそのことについてやりとりをしながら帰路につくのだが、自分を広い世の中の一分子として見たということは、けっして小さな発見ではない。とコペル君の成長に心を動かされたとおじさんはノートに書きとめた。
また、違う日に、コペル君にニュートンの話をした後におじさんは 「だからねえ、コペル君。あたりまえのことというのがクセモノなんだよ。わかり切ったことのように考え、それで通っていることを、どこまでも追っかけて考えてゆくと、もうわかり切ったことだなんて、言っていられないようなことにぶつかるんだね。こいつは、物理学にかぎったことじゃあないけど・・・・」 と言って別れた。
そして、その言葉に触発されたコペル君は赤ん坊の時飲んだ“粉ミルク”に関係のあることを、どこまでも考えていったら、どうなるかなと思い、オーストラリアの牛から、自分の口に粉ミルクがはいるまでのことを、順々に考え始めた。するととてもたくさんの人間が出てきてきりがないということに気づき、おじさんに手紙を書く。
ぼくは、粉ミルクが、オーストラリアから、赤ん坊のぼくのところまで、とてもとても長いリレーをやってきたのだと思いました。工場や汽車や汽船を作った人までいれると、なん千人だか、なん万人だか知れない、たくさんの人が、ぼくにつながっているんだと思いました。でも、そのうちぼくの知っているのは、前のうちのそばにあった薬屋の主人だけで、あとはみんなぼくの知らない人です。むこうだって、ぼくのことなんか、知らないにきまっています。ぼくは、じつにへんだと思いました。・・・ぼくは、これは一つの発見だと思います。だって、今まで、ちっとも考えなかったのに、そう思って見ると、何から何まで、みんなそうだとわかったからです。ぼくは、学校に行く途中や、学校に行ってからも、なんでも手あたり次第、目にいるものを取って考えて見ましたけれど、どれもこれも同じでした。そして、かぞえ切れないほど、おおぜいの人とつながっているのは、ぼくだけじゃあないということを知りました。・・・・
だから、ぼくの考えでは、人間分子は、みんな、見たことも会ったこともないおおぜいの人と、知らないうちに、アミのようにつながっているのだと思います。それで、ぼくは、これを“人間分子の関係、アミ目の法則”ということにしました。
この気づきは、自分中心の世界から脱け出て社会の中の一員としての自分というものを考える点でとても大切である。以前、粉ミルクではなく“自分の弁当箱”の中身から同じようなことを調べていく実践をしたことがある。すると、何気なく見ていた八百屋、果物屋さんの段ボールの箱に書かれている産地に目が行くようになり、実にさまざまな所から届いていることに驚いたという感想を生徒から聞いた。
中途半端な職業体験をするよりも“人間分子の関係、アミ目の法則”を発見するための実践を追求したほうが面白いのではないかと考える。不幸ではあるが、大災害を通じて今まで見えていなかった“生産活動における社会のつながり”が見えたのだから、あらためて考えるいいきっかけにしなければいけないのではないかと考えた。
それらを見聞きしている時、吉野源三郎さんの『君たちはどう生きるか』という本のことが思い浮かんだ。中学生年代を対象に書かれた本ではあるが名著だと思う。昭和44(1969)年に発行されたものだが、原本は昭和12(1937)年に出版されている。“あとがき”で吉野さんは次のように書いている。
『君たちはどう生きるか』という、この作品がはじめて出版されたのは、昭和12年(1937年)7月で、いまから32年前のことでした。それが、印刷も終わって、もうまもなく世の中に出ようとしていたとき、7月7日、北京の近くの盧溝橋で日本と中国と両国の軍隊の衝突がおこり、たちまちに大規模な戦争状態に移ってゆきました。長い日中戦争のはじまりでした。
この作品は、本来、山本有三先生の総編集で昭和10年の秋から出版をつづけていた『日本少国民文庫』という16巻の双書の中の一巻であって、このとき、すでに15巻の出版を終え、その最後に出版されたのでした。ですから、この双書は、日中戦争のはじまるギリギリの直前に完成されたわけで、リレーの競争でいえば16人のティームの最終のランナーとして、この作品がゴールに駆けこんだというわけです。
今日になってふりかえってみると、このとき最後のランナーがゴールに駆けこんだということは、偶然ながら大きな仕合せでした。日中の戦争がはじまると共に、日本ははっきりと軍国主義の時代に入り、出版・言論の自由はみるみるうちに狭められていって、数年後には、この双書さえ自由主義的だといわれて、出版ができないようになってしまいました。もう少し時期がおくれたならば、この双書も『君たちはどう生きるか』という作品も、生まれないでしまったろうと思われます。
物語は中学生の本田純一(あだ名がコペル君)君とおじさん(おかあさんの弟で大学を出たばかりの法学士)の間でかわされるやりとりで進んでいく。「人間分子の関係、アミ目の法則」というのはコペル君のつくりだした言葉である。
ある日、おじさんと一緒にビルの屋上から街を見下ろしていたコペル君の心に1つの変化が起きる。
霧のような雨は、話をしているふたりの上に、やはり静かにふりそそいでいました。チラチラとふるえながらおりてくる雨のむこうに、暗い市街がどこまでもつづいているばかり、そこには、人っ子ひとり、人間の姿は見えませんでした。しかし、この下には、うたがいもなく、なん十万、なん百万の人間が、思い思いの考えで、思い思いのことをして生きているのでした。そして、その人間が、まい朝、まい夕、うしおのようにさしたり引いたりしているというのです。
「ねえ おじさん。」 「なんだい。」
「人間て・・・・」と言いかけて、コペル君は、ちょっと赤くなりました。でも思い切って言いました。
「人間て、まあ、水の分子みたいなものだねえ。」 「そう、世の中を海や川にたとえれば、ひとりひとりの人間は、たしかに、その分子だろうね。」
その後、コペル君とおじさんはそのことについてやりとりをしながら帰路につくのだが、自分を広い世の中の一分子として見たということは、けっして小さな発見ではない。とコペル君の成長に心を動かされたとおじさんはノートに書きとめた。
また、違う日に、コペル君にニュートンの話をした後におじさんは 「だからねえ、コペル君。あたりまえのことというのがクセモノなんだよ。わかり切ったことのように考え、それで通っていることを、どこまでも追っかけて考えてゆくと、もうわかり切ったことだなんて、言っていられないようなことにぶつかるんだね。こいつは、物理学にかぎったことじゃあないけど・・・・」 と言って別れた。
そして、その言葉に触発されたコペル君は赤ん坊の時飲んだ“粉ミルク”に関係のあることを、どこまでも考えていったら、どうなるかなと思い、オーストラリアの牛から、自分の口に粉ミルクがはいるまでのことを、順々に考え始めた。するととてもたくさんの人間が出てきてきりがないということに気づき、おじさんに手紙を書く。
ぼくは、粉ミルクが、オーストラリアから、赤ん坊のぼくのところまで、とてもとても長いリレーをやってきたのだと思いました。工場や汽車や汽船を作った人までいれると、なん千人だか、なん万人だか知れない、たくさんの人が、ぼくにつながっているんだと思いました。でも、そのうちぼくの知っているのは、前のうちのそばにあった薬屋の主人だけで、あとはみんなぼくの知らない人です。むこうだって、ぼくのことなんか、知らないにきまっています。ぼくは、じつにへんだと思いました。・・・ぼくは、これは一つの発見だと思います。だって、今まで、ちっとも考えなかったのに、そう思って見ると、何から何まで、みんなそうだとわかったからです。ぼくは、学校に行く途中や、学校に行ってからも、なんでも手あたり次第、目にいるものを取って考えて見ましたけれど、どれもこれも同じでした。そして、かぞえ切れないほど、おおぜいの人とつながっているのは、ぼくだけじゃあないということを知りました。・・・・
だから、ぼくの考えでは、人間分子は、みんな、見たことも会ったこともないおおぜいの人と、知らないうちに、アミのようにつながっているのだと思います。それで、ぼくは、これを“人間分子の関係、アミ目の法則”ということにしました。
この気づきは、自分中心の世界から脱け出て社会の中の一員としての自分というものを考える点でとても大切である。以前、粉ミルクではなく“自分の弁当箱”の中身から同じようなことを調べていく実践をしたことがある。すると、何気なく見ていた八百屋、果物屋さんの段ボールの箱に書かれている産地に目が行くようになり、実にさまざまな所から届いていることに驚いたという感想を生徒から聞いた。
中途半端な職業体験をするよりも“人間分子の関係、アミ目の法則”を発見するための実践を追求したほうが面白いのではないかと考える。不幸ではあるが、大災害を通じて今まで見えていなかった“生産活動における社会のつながり”が見えたのだから、あらためて考えるいいきっかけにしなければいけないのではないかと考えた。
私にも小学生の姉妹がおりますが、折に触れ「あなた達の世界は学校の中にだけ有るのではないよ」と話しています。
学校と言うミニマムな世界を全てだと思い、些細な事に一喜一憂する子供達に気付かせてやりたいお話です。
ご紹介、有難うございました。