NHK-FM「音楽遊覧飛行」を聴きながらの礼状配達、♪鴎♪という曲に出会ったのはラッキーだった。ちょうど番組の終わる10時の8分前に歯科医院に到着した。最後の2曲の紹介があった。フランクシナトラで「80日間世界一周/around the world」と「ひなたの道/on the sunny side of the street」の2曲。「ひなたの道」は朝ドラ「カムカムエヴリバディ」を貫いたキーソングで体に染みついてしまった感があるのでシナトラの歌を聴きたいと思ったが、ここは歯の治療を優先。
12月中旬に始まった歯の治療、次々にむし歯が見つかり4か月余り続いている、いまだ見通しはたたない。治療の後近くのフレンドタウン交野で買い物を済ませた。番組は「弾き語りフォーユー」になっていた。ピアニスト小原 孝さんが、クラシック、歌謡曲、J-POP、洋楽から民謡や童謡まで、幅広いジャンルの音楽を自在にアレンジして演奏。音楽の味付けの仕方が楽しめる。リスナーからのお便りの紹介や様々なエピソードを優しく語りてくれるが、春をテーマにしていた。ビバルディの四季より「春」の後♪花の街♪を特集した。この曲は中学の教科書で初めて出合ってすごくインパクトを受け、今でも時々口ずさむ。
小原さんの話で、この明るい歌の背景には「戦争」があったことを知り家に着いてから色々調べた。
作詞されたのは昭和22年頃。昭和24年1月4日開始のNHKラジオ番組「私の本棚」のテーマ曲として発表された。
花の街
作詞:江間章子
七色の谷のを越えて
流れてくる 風のリボン
輪になって 輪になって
駆けていったよ
歌いながら 駆けていったよ
美しい海を見たよ
溢れていた 花の街よ
輪になって 輪になって
踊っていたよ
春よ春よと 踊っていたよ
すみれ色してた窓で
泣いていたよ 町の角で
輪になって 輪になって
春の夕暮れ
独り寂しく 泣いていたよ
花の街 江間章子作詞・團伊玖磨作曲 テノール 井原義則 ピアノ 舘 美里
「花の街」を作詞した江間章子さんの解説があった。
● 「花の街」はわたしの幻想の街です。戦争が終わり、平和が訪れた地上は瓦礫の山と一面の焦土に覆われていました。その中に立って私は夢を描いたのです。ハイビスカスなどの花が空中に浮かんでいる「平和」という名から生まれた美しい花の街を。
詩の中にある「泣いていたよ、町の角で」の部分は、戦争によってさまざまな苦しみや悲しみを味わった人々の姿を映したものです。この詩が後になって、いっそう私の幻想の世界は広がり果てしなく未来へ続く「花の街」となりました。
中学1年生用の音楽教科書『中学生の音楽1』(教育芸術社、平成9年)より
● 昭和22年の東京は空襲の残骸と戦後の混乱で、瓦礫と闇市に埃が濛々としていた。
江間章子はNHK「婦人の時間」の委嘱で”今に東京にも花咲く街になってほしい”という、夢と希望を託して、この詞を書き上げた。”荒れ果てた当時の日本を見ていた私は、私の心に抱いていた幻の理想の街、神戸を頭に思い浮かべて書いた。神戸へは行ったことはなかったが、乙女心に神戸というエキゾチックな街に憧れていたのですよ”と述懐している。(日本抒情歌全集1の解説より)
●【花の無い焦土の花の街】
江間章子著『<夏の思い出>その想いのゆくえ』(宝文館出版、昭和62年)所収の一節「<花の街>のまちを想う」の抜粋。
NHKのTVの名曲アルバムの時間で「花の街」が流れてきたときに、それは“作者のイメージとは違いすぎて意外で”、“まず現れる南房総辺の菜の花が咲く風景では困るのである。<花の街>だから、当然<花>がなければおかしいのだが、じつは、その花は手が届くところにあってはこまるのである。”
“詩<花の街>は、私には幻想の街、夢のまちであった。戦争が終って、平和が訪れたという地上は瓦礫の山、いちめんの焼土に立って、思う存分肺いっぱい吸い込んだ<平和>という名の空気が私に見させてくれた夢が<花の街>であった。”
“<花の街>の詩のなかで、「泣いていたよ/街の窓で・・・・」という一行も、焼土に佇つ、戦いに敗れた国の庶民の、住む家も、仕事も失った、途方にくれた悲しみの姿を映しているのだと、作者自身、当時を振り返って想う。
<花の街>の詩には、そうした秘密が隠れている筈である”
“これを若き日の、まだ少年らしさが漂っていられた團伊玖磨氏が作曲された。・・・(中略)・・この曲は、まさしく、私の幻想を拡げ、羽ばたかせてくださったものである。”
私が中学の時から60年近く持ち続けていた♪花の街♪のイメージは、江間さんの解説の上のようなもの。
そして、今は下のような深層が加わった。
花の街 - 江間章子 - 團伊玖磨 - Hananomachi - We love Japan
昨日は、たまたま耳にしたラジオから深く考えさせられたことが多かった。一日では消化しきれなかったので2日に分けた。
12月中旬に始まった歯の治療、次々にむし歯が見つかり4か月余り続いている、いまだ見通しはたたない。治療の後近くのフレンドタウン交野で買い物を済ませた。番組は「弾き語りフォーユー」になっていた。ピアニスト小原 孝さんが、クラシック、歌謡曲、J-POP、洋楽から民謡や童謡まで、幅広いジャンルの音楽を自在にアレンジして演奏。音楽の味付けの仕方が楽しめる。リスナーからのお便りの紹介や様々なエピソードを優しく語りてくれるが、春をテーマにしていた。ビバルディの四季より「春」の後♪花の街♪を特集した。この曲は中学の教科書で初めて出合ってすごくインパクトを受け、今でも時々口ずさむ。
小原さんの話で、この明るい歌の背景には「戦争」があったことを知り家に着いてから色々調べた。
作詞されたのは昭和22年頃。昭和24年1月4日開始のNHKラジオ番組「私の本棚」のテーマ曲として発表された。
花の街
作詞:江間章子
七色の谷のを越えて
流れてくる 風のリボン
輪になって 輪になって
駆けていったよ
歌いながら 駆けていったよ
美しい海を見たよ
溢れていた 花の街よ
輪になって 輪になって
踊っていたよ
春よ春よと 踊っていたよ
すみれ色してた窓で
泣いていたよ 町の角で
輪になって 輪になって
春の夕暮れ
独り寂しく 泣いていたよ
花の街 江間章子作詞・團伊玖磨作曲 テノール 井原義則 ピアノ 舘 美里
「花の街」を作詞した江間章子さんの解説があった。
● 「花の街」はわたしの幻想の街です。戦争が終わり、平和が訪れた地上は瓦礫の山と一面の焦土に覆われていました。その中に立って私は夢を描いたのです。ハイビスカスなどの花が空中に浮かんでいる「平和」という名から生まれた美しい花の街を。
詩の中にある「泣いていたよ、町の角で」の部分は、戦争によってさまざまな苦しみや悲しみを味わった人々の姿を映したものです。この詩が後になって、いっそう私の幻想の世界は広がり果てしなく未来へ続く「花の街」となりました。
中学1年生用の音楽教科書『中学生の音楽1』(教育芸術社、平成9年)より
● 昭和22年の東京は空襲の残骸と戦後の混乱で、瓦礫と闇市に埃が濛々としていた。
江間章子はNHK「婦人の時間」の委嘱で”今に東京にも花咲く街になってほしい”という、夢と希望を託して、この詞を書き上げた。”荒れ果てた当時の日本を見ていた私は、私の心に抱いていた幻の理想の街、神戸を頭に思い浮かべて書いた。神戸へは行ったことはなかったが、乙女心に神戸というエキゾチックな街に憧れていたのですよ”と述懐している。(日本抒情歌全集1の解説より)
●【花の無い焦土の花の街】
江間章子著『<夏の思い出>その想いのゆくえ』(宝文館出版、昭和62年)所収の一節「<花の街>のまちを想う」の抜粋。
NHKのTVの名曲アルバムの時間で「花の街」が流れてきたときに、それは“作者のイメージとは違いすぎて意外で”、“まず現れる南房総辺の菜の花が咲く風景では困るのである。<花の街>だから、当然<花>がなければおかしいのだが、じつは、その花は手が届くところにあってはこまるのである。”
“詩<花の街>は、私には幻想の街、夢のまちであった。戦争が終って、平和が訪れたという地上は瓦礫の山、いちめんの焼土に立って、思う存分肺いっぱい吸い込んだ<平和>という名の空気が私に見させてくれた夢が<花の街>であった。”
“<花の街>の詩のなかで、「泣いていたよ/街の窓で・・・・」という一行も、焼土に佇つ、戦いに敗れた国の庶民の、住む家も、仕事も失った、途方にくれた悲しみの姿を映しているのだと、作者自身、当時を振り返って想う。
<花の街>の詩には、そうした秘密が隠れている筈である”
“これを若き日の、まだ少年らしさが漂っていられた團伊玖磨氏が作曲された。・・・(中略)・・この曲は、まさしく、私の幻想を拡げ、羽ばたかせてくださったものである。”
私が中学の時から60年近く持ち続けていた♪花の街♪のイメージは、江間さんの解説の上のようなもの。
そして、今は下のような深層が加わった。
花の街 - 江間章子 - 團伊玖磨 - Hananomachi - We love Japan
昨日は、たまたま耳にしたラジオから深く考えさせられたことが多かった。一日では消化しきれなかったので2日に分けた。
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