素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

叔母が亡くなった

2021年04月08日 | 日記
 夜、松阪の弟から電話があった。早朝と夜遅くの電話は心臓に悪い。「母に何かあったのか?」と不安がよぎる。1月に亡くなった浜島の叔父の後を追うように叔母が亡くなった。という知らせが入ったとのこと。先月4カ月ぶりに志摩方面に帰った時に父の墓参りの後立ち寄ろうと電話を入れたが留守電になっていた。叔母は20年近く肝臓に疾患を持っており定期的に検査入院をしていたので従兄妹に尋ねると施設に入っているという話だった。コロナの感染予防のため面会できないためそのまま帰ったが、自力で生活できないぐらい体の状態が悪かったのかと思い返した。
 最後に会ったのは去年の夏の盆の頃、墓参りの帰りに寄らせてもらった。母と同じ昭和4年生まれの叔父が「90も過ぎると思うように体がいかん。もういつ迎えが来てもいいわ」と珍しく弱気なことを言った。横に座っていた叔母が「何言うとんかいな。病気との付き合いは私のほうが年季が入っているから先に行かせてもらうわ」と笑った。叔母に言わせると主治医の先生とも長~い付き合いで、つい先だっての診察でも「あんたはなかなかしぶとい!わしの方が早くくたばりそうや」と言われ「それは困るんな。ちゃんと最後まで面倒見てくれんと」というようなことも言い合える仲だそうだ。
 どんな時でも飄々として屈託のない人であった。
 しかし、私が小学生の頃は浜島の祖父母の家で1週間滞在していても叔母の姿を見たことがなかった。平屋で3つの部屋と台所しかない小さな家だったが叔父叔母の部屋は開かずの間で人のいる気配すらなかった。高校生になるまで叔母の顔も声も知らないままだった。親しく話をするようになったのは、叔父叔母が浜島の実家を離れ、賢島にできたコクヨの保養所の住み込み管理人になってからだ。
 夏期休暇で、保養所がフル回転の時は掃除やベッドメイキングちょくちょく手伝いに行った。二人で、宿泊する人を出迎え、観光のアドバイス、お世話をし、新鮮な魚料理でもてなしている姿は私にとっては新しい発見でもあった。特に、叔母が明るくよく喋るだったというのは驚いた。小学生の頃の”開かずの間の住人”という横溝正史の世界を絵に描いたような強烈な印象とのギャップは私に人間を見る目を深くさせてくれたように思う。
 それからは帰省するたびに叔母とはよく喋った。「むつかしいことはわからんけど...」で始まる叔母の話はなぜか心をほぐしてくれた。
 他の叔父叔母も同じだが、お互いに現役で働いている時はゆっくり昔話をする心のゆとりはなかった。私が退職して60代半ばにさしかかり、叔父叔母も80歳前後になってくると私の記憶にない時代の話を聞く機会が多くなってきた。若かりし時の話を聞くと私の中にあった「小さな疑問」が氷解していく。このことが人生を見つめ直すきっかけにもなり楽しいいひと時となった。
 今度叔母に会った時はあの「開かずの間」の不思議を思い切って尋ねてみようと思っていた。その矢先の訃報。永遠に謎のままになってしまった。また志摩に帰る楽しみがひとつ消えた。
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