3月6日、今週末は雪が舞う金沢です
皆さま気持ち良く、体調良く3月をお過ごしでしょうか。来週末は逆に最高気温が20℃くらいまで上昇する所もあるとか。
朝夕や日々の変化にうまく対応して桜が咲くのをお待ちください
さて、全日本鍼灸学会雑誌の最新号に、私の鍼灸、人生の師匠 東洋医学研究所®黒野保三先生の追悼文が掲載されましたので、ここに残させていただきます。
文章は、黒野保三先生の長きに亘る理解者である明治国際医療大学 名誉教授 北出利勝 先生です。
黒野保三先生が主催する二葉清友会の新年会でご挨拶される北出先生
北出先生、追悼の文章、ありがとうございます。
また、全日本鍼灸学会の役員の皆様に感謝です。
追悼文より
令和3年(2021年)9月27日に天寿を全うされ91歳で永眠された。心からご冥福をお祈り申し上げます。
黒野先生は、昭和35年、新潟大学から名古屋大学に生理学教授として赴任してきた高木健太郎先生の教室を訪ね、鍼灸の生理学を勉強したいと高木門下生の一人として鍼の生理学的研究を始めることになる。
高木先生との師弟の絆で、鍼灸医学向上へのあくなき執念により、昭和48年、名古屋大学豊田講堂で開催された第20回日本鍼灸学会学術総会に中国医師団6名を招聘し、6都市で鍼麻酔の特別講演及びシンポジウムを開催した。これは日中国交回復直後での中国医師団を招聘した大事業であり、これにより日本中に鍼灸医学のブームが巻き起こったと言っても過言ではない。
昭和54年、東西両医学の協調を目指し東洋医学研究財団の設立、昭和55年、社団法人全日本鍼灸学会の設立(昭和50年に日本鍼灸学会が日本鍼灸医学会と発展的改称されてから法人化に向けて尽力し、30数回にわたり文部省に出向き、遂に日本鍼灸治療学会と日本鍼灸医学会をひとつにまとめ法人化を成し遂げた)等、鍼灸医学の発展に多大な貢献をされた。また、全国各都道府県も地方会創設のために、高木先生とともに全国行脚され、数百名であった会員が一躍、千数百名と増え、学術研究の内容の精度も高くなり、国内はもとより、国際的にも有識者に認められるようになり、鍼灸師の資質の向上に繋がった。
また、昭和42年には3階建ての東洋医学研究所®(名古屋市千種区春岡)を開設し、後輩の育成を始められた。東洋医学研究所®の設立は当時としては驚くべきことであり、このことからも黒野先生の情熱を感じられる。そして、鍼灸師でも名古屋市立大学医学部の研究員になれる門戸を開き、自らも研究員となって鍼灸医学の有効性を基礎的に研究し多数の論文を残された。
私は思う、大学教育では学生が卒業すれば、その後は本人の努力で進まなければならない。黒野先生が言われる「修行」とは、鍼灸学とともに躾および開業する道を導かれたものであり、卒後教育の最たるものと思う。黒野先生の60年以上の臨床歴の中において、多くの開業者を育てられ、その開業された先生方は、今も鍼灸界で活躍されている。
私にとっても、黒野先生は人生の師であり、これまで多くのことを教えていただいた。黒野先生は、「鍼灸医学の道に足を踏み入れて以来、昨今に至るまでの道は決して平坦ではなく、試行錯誤の連続、成功や失敗の繰り返しであったこと、それは、鍼灸医学の発展と鍼灸診療を行う仲間とともに資質の向上を計ろうとするロマンの道程であり、それに注ぐ情熱の道程でもあった」と時間をいとわずにお話いただいたことは今でも忘れることができない。師との出会いにより、物の考え方、取り組み方、行い方、すべてが変わり、そこに信念と情熱が加わることにより、無から有を生じる摩訶不思議な現象が起きるのだと痛感し、また、学・術・道を踏まえて、鍼灸医師としての矜持を持つべし、とも常々おっしゃられておられた。
また、時事問題に詳しく、常に社会情勢を踏まえ行動される姿、書画骨董を見て自分の感性を養う姿、ゴルフや囲碁(六段)をプロから学んでその道を究めようとする姿、これらは全て鍼灸道に通じる道として真実を探求する姿勢は、終始一貫していた。
小生も鍼灸の教育者として大学で教鞭を執る身であったが、黒野先生という師に巡り会えたことは誠に幸運であったと感謝の一念でいっぱいである。
鍼灸医学、鍼灸診療を学ぶ者に言いたい、「良き師について学んでほしい」と。
黒野先生の鍼灸医学に対する魂は、永遠に受け継がれることを念じて止まない。
-文章終了-
素晴らしい師匠のもとで鍼灸医学、鍼灸診療を学べたことを、改めて心より深く深く感謝いたします。
文章を残しておきたくて、私の師匠を知っていただくという意味でも追悼文を抜粋させていただきました。
弟子として感謝とともに心身が引き締まる思いで、明日の鍼灸臨床に臨んでいきたいと思います。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございます